もう絶対忘れない!

緋向

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1 あなた誰ですか!?

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「やだ…やだよぅ…!」
聞こえる泣き声は紛れもない私のもの。自然豊かなところしか取り柄のないような田舎町で、今は秋らしい。
少し肌寒い気候の中、綺麗に色づいたイチョウが1枚、また1枚と道路を染めてゆく。そして目の前にはメガネをかけた男の子が立っている。
「やだよ…!なんでそんな遠いとこ行っちゃうの?ずっと一緒にいてよぅ…」
男の子は仕方なさそうに笑って私の頭をなでる。まるで宝物に触れるみたいに。
「泣かないで涼ちゃん。ちょっとの間オーストラリアに行ってくるだけだからね?そんなに遠くないよ。大丈夫。」
日本からオーストラリア、どう考えたってかなりの遠さだが幼い私は気づかないし、オーストラリアがどこかなんてのもきっと分かってはいない。
「ほんと?ちょっとだけなの?また涼子のとこに帰ってきてくれる?」
鼻をずびっと鳴らしてそう聞くと、男の子は苦笑しながら、真っ赤になった涼子の目を指でなでて、涼子を抱きしめた。
「うん…帰ってくるよ絶対に。約束する」
その腕の中は力強いのに、あったかくて心地よい。
「うん約束よ…」
安心して涙が止まった涼子は、その小さな手で、男の子をぎゅっと抱きしめ返した。男の子は涼子の髪をさらっとすき、もう一度なでて優しい、優しい声で言う。
「大好きだよ。涼ちゃん」
「私も……ちゃんが大好きよ…」
ほかの言葉は聞こえるのに、男の子の名前の部分だけ聞き取れなかった。
───え?今なんて…?
見えていた景色が白く霞み始める。独りで取り残されるような
孤独と恐怖。
───待って!!お願い!あなたは一体……
ジリリリリリリリリリリ!!!
「うわああああああ!!!」
大迫力の機械音に驚いて、がばっと勢いよく起き上がり、ふとんを引っぺがす──瞬間、視界が反転した。
「うわぎゃっ!」
ズドンっと、鈍い音。変な声をあげた声の主、染井 涼子(そめいりょうこ)は完全に夢から覚めた。
「うぁ…痛たたた…」
ベッドから勢いよく落ち、思いっきり打ち付けたお尻をさすりながら、涼子は立ち上がった。
「うぅ…朝からついてない…」
よろよろと歩き、窓のカーテンを、シャッ!と音を鳴らして開けた。
「今日もいい天気だなぁ」
差し込む日差しを浴びながら、背伸びをしてそう言うと、ふと思いたち、首をかしげた。
「あれ、私なんの夢みてたっけ?」

***

その日は朝からついてなかった。もしかしたら厄日なのかもしれない。涼子は現在、久しぶりに帰った実家で、両親に正座させられながらそう思っていた。
父の冷たーい視線に耐えられず、おずおずと涼子は尋ねた。
「あのーぅ…お父さん?えぇっと…今日はどーいったご要件で…」
そこで、父の眼光はさらに鋭さを増した。
「ひっ!すすすすみませっ…ごめんなさい!」
引退こそしたものの、元強豪バレーチームの鬼コーチとして知られる父の眼光は凄まじい。泣かせた選手は星の数。バレー自体辞めた選手も星の数とかなんとか。全員初心者の無名バレーチームを、インターハイまで行かせた手腕は素晴らしいが、まさに鬼。阿修羅である。怖いんだってば。
「私に呼ばれたのが何故かわからんのか……?貴様は」
実の娘に貴様とか言う父親がいるのだろうか。
はい、います。私の目の前に。
目に見えそうな威圧感を背に、鋭い眼光のまま、私を見下ろす(いや見下す?)父は思いきり息を吸い込んで
「このアホが!!大事な話があるから実家に帰って来いと言ったのが3ヶ月前!何故実家に帰ってくるだけの事ができんのだお前は!?このアホ!!!」
ゴジラ顔負けのド迫力で怒鳴り散らされた。
「あ、そーいえばそんなこと言ってたような…」
ケータイで何度も両親からメールは来ていたが、仕事が忙しくて見るのを忘れていた。
「昔からアホだアホだとは思っとったがここまでとはな…さすがにショックだぞ」
本当にショックそうに肩を落とす父に、え?そんなに?とか思ってしまう。
「でも今日はちゃんと来たじゃない!」
「何がちゃんとだ!ちゃんとしとる奴はすぐ来るものだ!ばかもの!」
和室のふすまが開いた。
「まあまあお父さん。そう怒鳴っては涼子がかわいそうですよ」
優しい声で部屋に入ってきたのは涼子の母だった。
「お母さん!」
「ふふっ久しぶりねぇ。元気かしら?」
長い巻き毛が印象的な母は、子供の頃から涼子の味方だ。いつもこうして、父からかばってくれた。
「み、美恵子…」
母の登場に、鬼は一瞬にして人間の形相に戻った。この父は昔から、母にだけは甘いのだ。
内心ガッツポーズを決めていた涼子に母は近寄って、まるで聖母のような笑みで言った。
「でもね涼子。すすがに3ヶ月は長過ぎるわ。しっかりお父さんに怒られて反省なさい?」
聖母は無慈悲であった。
──お、お母さーーーん!?!
再度、鬼と化した父に涼子は、この後長ーいお説教に耐えたのであった。

***

「はぁ!?!」
永遠に続くのではないかと思われた長い説教が終わり、母のいれた美味しい梅昆布茶を、盛大に吹きこぼして、涼子はすっとんきょうな声をあげた。
「ちょっと待ってよ二人とも!も、もう一回言ってくれない?聞き間違いじゃなきゃ、今…」
「あぁ。婚約者と言った。」
動揺する涼子をよそに、梅昆布茶を美味そうに飲みながら、父は何てことないという感じで、さらっと爆弾を投下してきた。
「もう3ヶ月も前に決まったことでな。相手も待ちわびているそうだ。新しい家はもう借りてあるから安心していいぞ。新婚生活を楽しみなさい。」

──は!?新居!?新婚生活って……つまり結婚!?何言ってんのまじでこの親父!!!

淡々と爆弾を投下し続ける父に待ったをかける。
「ちょっ…待てぃ!!なんでそんなに話進んでんの!?結婚!?やだよそんなの!!」
父は涼子を半ば呆れたような目で睨み、ため息をついて言う。
「私も母さんも、3ヶ月前にきっちり言ったぞ?話を聞かなかったはお前だろうが」
──そ、そうだ ったーーー!何してんのよ3ヶ月前の自分!!
父の正論にぐぅの音も出ない。
それは自分のせいだ。でも、
結婚というのは、ちょっとどうかと思う。会った事もない人と愛のない新婚生活なんて、耐えられそうもない。──それに、
今、自分には好きな人がいるのだ。結婚なんて絶対に嫌だ。
「話を聞かなかったのは私が悪かったよ。でも、結婚は嫌。私は職場に好きな人がいるの。会った事もない人とどうこうなるなんて考えたくもないわ。」
きっぱりとそう言うと、父と母は驚いたように目をしばたたかせた。
「涼子…職場に好きな人がいるの?職場に?」
何故か、職場なことを強調されて、少し恥ずかしくなったが、涼子は大きく頷いた。
「そうだよ。素敵な人なの」
父と母は顔を見合わせた。しばしの沈黙。
──え、何この雰囲気。私なんか変なこと言った…?
沈黙を破ったのは父であった。
「そうか…職場に想い人が…私たちはてっきり、まだ孝哉くんの事が好きだと思っとったんだが…いらぬことをしたかな」
──は?たかやくん?……って誰?!
珍しく困ったような表情の父に戸惑いつつ、涼子は疑問を口にした。
「えっと…お父さん。たかやくんて誰のこと?」
そう言った瞬間、父の目が驚がくに見開かれた。初めて見るその顔は、とんでもなく恐ろしくて思わず叫び声をあげそうになった程だ。
「なにぃ!?お前孝哉くんを覚えとらんのか!?お前が小さい頃、よく遊んでいてオーストラリアに引っ越した孝哉くんだぞ!?」
よく遊んでいた?オーストラリアに引越し?──え、やばい。思い出せないというか、全然記憶にない。
「……ごめん。全く分かんないんだけど…」
すると、父と母の二人は、重くて長いため息をついた。
───え?えええ?何なのよ…
母は涼子をまっすぐに見て、言う。
「孝哉くんっていうのはね、涼子が中学生の時、うちの隣に住んでた男の子。両親のお仕事の都合で、オーストラリアに引っ越していったの」
「へぇ~いいねぇ海外に引っ越したなんて」
「それで、引っ越す直前に涼子と結婚の約束した子よ」
「ぶっっっ!!!」
呑気に構えていた涼子は、再度飲んでいた梅昆布茶を、吹き出した。
「結婚の約束した!?あたしが!?嘘でしょ!?」
本当に記憶にない。というかマセすぎてないか!?子供の頃の自分!
「だから、私たちもきっと涼子はまだ孝哉くんのことが好きなんだと思って、今回の婚約の話をOKしちゃったのよ」
困ったわ~みたいな顔して、母
は頬に手をあてた。
いや、困ってるっていうか、一番迷惑なのはわたしなんですけど!?
「今から言って取り消してもらってきてよ!」
「無理よ~孝哉くん、もう日本に帰ってきてるし…」
「ええっ!?いつうちに来るのよ?」
「明日」
「は、ああああ!?!?あすっあしっ……明日ァァァ!?」
ちょっとなんなのこの両親は!
基本しっかりしてるくせに、なんでこうゆうのは抜けてるわけ!?
2人して困った表情をする両親に、涼子は全力で言った。
「やだやだ!てか無理だから!私、絶対たかやくんなんて人と結婚なんてしない!」
「へぇ…僕と、絶対結婚したくないんですか?涼子さん」
突然、後ろから聞こえてきた男の声に驚いて、涼子は後ろを振り向いた。
よく通る低い声。かすかに香るコーヒーの匂い。
そこにいたのは、ふわっとした、くせっ毛の黒髪が印象的な長身のイケメン。
涼子の後ろで、両親が「え!?孝哉くん!?」と驚いた声をあげている。
───こ、このイケメンが…たかやくん……?
───でも、
「す、すみません。失礼ですが…」
黒髪のイケメンは、にこやかに小首を傾げる。
そんなイケメンに涼子は思い切って言った。
「あなた誰ですか!?」
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