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前編
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「俺達の婚約は今日で終わりにする」
その言葉は、秋の終わりに吹く冷たい風より鋭く、僕の胸を容赦なく切り裂いた。
王宮のバルコニー。
夕暮れ前の空は薄く曇り、乾いた風がマントの裾を揺らしている。
煌めく白い大理石の床に視線を落としたまま、僕は息を呑んだ。
「……え?」
かすれた声が、震えて外気に溶けていく。
隣に立つアレクシス殿下――この国の第一王子は、遠くの庭園を見下ろしたまま、いつも通りの無表情だった。
「聞こえなかったか?」
その静かな声が追い討ちをかける。
(婚約は……今日で終わり……?)
頭の中が真っ白になって、理解が追いつかない。いや、理解したくなかった。
確かに僕たちは、政治的な理由で暫定的に婚約しただけだ。まだ正式な婚約式すら挙げていない。
だから――覚悟はしていたはずなのに。
(殿下は、僕を選ばなかったってことだ)
胸が締め付けられ、喉が焼けるように痛んだ。視界がじわりと滲んでいく。
「……すみません。僕、用事を思い出したので失礼します」
必死に声を整えたつもりだったのに、震えが隠せなかった。
「リオネル?」
背後で殿下の呼ぶ声が聞こえたような気がした。けれど振り返ることもできず、僕はバルコニーを駆け出した。
廊下へ飛び出した瞬間、行き交う侍女や近衛兵たちが驚いたようにこちらを振り返った。
「リオネル様?顔色が……」
「何かあったのですか?」
胸の奥がひりつき、堪えていた感情が一気に溢れてしまう。
「婚約破棄の準備をお願いします!」
その場の空気が凍りつくのが分かった。
「こ、婚約破棄……!?」
「殿下が、リオネル様を……?」
ざわめきが走り、みんなの視線が集まる。
けれど、その顔は驚きというより――まるで「何を言っているんだ?」と首をかしげるような、理解不能といった表情ばかりだった。
(……そっか。誰も、本気だなんて思ってなかったんだ)
周囲にとっては、僕と殿下の婚約なんて形だけで、本気で成立するはずがないって……最初からそう思われていたのだ。僕がどれだけ滑稽に見えていたんだろう。自嘲が突き刺さる。
「……荷物をまとめて、今すぐ城を出ます」
それだけ告げ、涙をこらえて駆けだした。
(殿下の隣にいる資格なんて、最初から無かったんだ)
自分の部屋へ飛び込むと、侍女たちが一斉に立ち上がる。
「リ、リオネル様!?どうされたのです、そんなお顔……!」
「荷物をまとめてください。すぐに発ちます」
震える声でそう言うと、侍女の一人が蒼白になった。
「お待ちください!何があったのですか?」
「殿下が……今日で婚約は終わりだと。僕はもう必要ないって」
侍女たちは信じられないと首を振り、口々に言った。
「そんなはずありません……!」
「殿下はいつもリオネル様を――」
「やめてください!」
声が裏返り、侍女たちの視線が揺れる。その視線から逃れるように、僕は衣装棚に駆け寄り、服を乱暴に引き出した。
手が震えて、畳むことすら上手くできない。
「とにかく、僕はここにいる資格がないんです。最後まで迷惑をかけてすみません。手伝ってください」
必死に言葉を絞り出したその瞬間、廊下の向こうでざわめきが起き、続いて扉が勢いよく開いた。
「リオネル様!?どういうことですか!」
飛び込んできたのは、殿下付きの近衛騎士レオンだった。
いつもは冷静沈着な彼が、息を切らし、目を大きく見開いている。どうやら廊下での騒ぎを聞きつけ、急いで駆けつけたらしい。
「婚約破棄されたので出て行く準備をしているところです」
息を整える余裕すらなく答えると、レオンは一瞬、唖然としたように動きを止めた。
「……嘘だ。殿下が、そんなことを言うはずがありません」
掠れた声が漏れる。
「本当に言われたんです!」
張り詰めていた声が弾ける。
「婚約は今日で終わりにするって……もう僕は必要ないってことじゃないですか……!」
言葉にした途端、堪えていた涙が零れ落ちた。レオンは強く拳を握り、苦しげに息を飲む。
「リオネル様。どうか……殿下と、もう一度だけお話しください」
「嫌です!」
子どもみたいな声が出てしまった。
「これ以上、惨めな思いをしたくない……」
沈黙。空気が重く沈む。
レオンはしばらく僕を見つめ、やがて静かに頭を下げた。
「殿下は、誰よりもリオネル様を大切に思っておられます。俺は、信じています」
その真っ直ぐな声に、また胸が苦しくなる。
(どうして……どうしてそんなことを言うんだろう)
唇を噛んで涙を拭う。
「……分かりました。少しだけ、気持ちの整理をします。皆さん、部屋を出てください」
そう告げるしかなかった。扉の向こうへ侍女たちとレオンが下がり、辺りが静かになる。
(でも――荷物はまとめる。僕はここを去るって決めたんだから)
震える指先で衣服に触れながら、必死に考える。
「……やっぱり分からない。何が正しいんだろう」
頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。
そもそも、殿下と僕では釣り合うはずがなかった。
僕はただの地方侯爵家の次男。政略のために婚約者に選ばれただけで、本当に望まれた婚約者ではなかったのだ。
アレクシス殿下は国中の憧れだ。いつだって凛としていて、誰よりも美しく、強く、完璧で。王都を歩けば、みんなが振り返って見惚れるような人。そんな殿下の隣に立つたび、僕は胸を張るどころか、ただ「迷惑になりませんように」と祈るだけだった。
でも――たまに殿下が見せる優しさに触れるたび、胸が勝手に波立った。名前を呼ばれるだけで、そっと手を取られるだけで、息が詰まるほど幸せで。
叶うはずないとわかっていても、「もっと好きになってもいいのかな」なんて思ってしまって。
――それが、きっといけなかったんだ。
終わらせたいと思われていたのに、気づきもしないなんて。なんて、哀れで浅はかなのだろう。
目頭が熱くなる。僕は、震える手で荷物を詰め直した。
もう、この部屋にいる資格はない。一刻も早く姿を消さなければ。
「……今まで、ごめんなさい、殿下」
声に出した瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
そのときだった。扉の向こうで足音が止まる。続いて、コン、コン、と静かに叩く音。
心臓が跳ね上がる。
聞き間違えるはずがない。この足音を、何度隣で聞いてきたことか。
まさか――来るなんて。
来ないでほしい。顔なんて見たら、きっともう立っていられない。全部が崩れて、泣き出してしまう。
「リオネル」
低く穏やかな声が、扉越しに僕の名を呼ぶ。たったそれだけで胸が裂けそうになった。まだ好きで、まだ縋りたくて、それなのに終わらせなきゃいけない。
扉の向こうで、ゆっくりと気配が近づく気がした。
「……今は、会いたくないです……!」
かすれた声が勝手に漏れる。
次の瞬間、ガチリ――と重い金具が外れる音が響いた。
その言葉は、秋の終わりに吹く冷たい風より鋭く、僕の胸を容赦なく切り裂いた。
王宮のバルコニー。
夕暮れ前の空は薄く曇り、乾いた風がマントの裾を揺らしている。
煌めく白い大理石の床に視線を落としたまま、僕は息を呑んだ。
「……え?」
かすれた声が、震えて外気に溶けていく。
隣に立つアレクシス殿下――この国の第一王子は、遠くの庭園を見下ろしたまま、いつも通りの無表情だった。
「聞こえなかったか?」
その静かな声が追い討ちをかける。
(婚約は……今日で終わり……?)
頭の中が真っ白になって、理解が追いつかない。いや、理解したくなかった。
確かに僕たちは、政治的な理由で暫定的に婚約しただけだ。まだ正式な婚約式すら挙げていない。
だから――覚悟はしていたはずなのに。
(殿下は、僕を選ばなかったってことだ)
胸が締め付けられ、喉が焼けるように痛んだ。視界がじわりと滲んでいく。
「……すみません。僕、用事を思い出したので失礼します」
必死に声を整えたつもりだったのに、震えが隠せなかった。
「リオネル?」
背後で殿下の呼ぶ声が聞こえたような気がした。けれど振り返ることもできず、僕はバルコニーを駆け出した。
廊下へ飛び出した瞬間、行き交う侍女や近衛兵たちが驚いたようにこちらを振り返った。
「リオネル様?顔色が……」
「何かあったのですか?」
胸の奥がひりつき、堪えていた感情が一気に溢れてしまう。
「婚約破棄の準備をお願いします!」
その場の空気が凍りつくのが分かった。
「こ、婚約破棄……!?」
「殿下が、リオネル様を……?」
ざわめきが走り、みんなの視線が集まる。
けれど、その顔は驚きというより――まるで「何を言っているんだ?」と首をかしげるような、理解不能といった表情ばかりだった。
(……そっか。誰も、本気だなんて思ってなかったんだ)
周囲にとっては、僕と殿下の婚約なんて形だけで、本気で成立するはずがないって……最初からそう思われていたのだ。僕がどれだけ滑稽に見えていたんだろう。自嘲が突き刺さる。
「……荷物をまとめて、今すぐ城を出ます」
それだけ告げ、涙をこらえて駆けだした。
(殿下の隣にいる資格なんて、最初から無かったんだ)
自分の部屋へ飛び込むと、侍女たちが一斉に立ち上がる。
「リ、リオネル様!?どうされたのです、そんなお顔……!」
「荷物をまとめてください。すぐに発ちます」
震える声でそう言うと、侍女の一人が蒼白になった。
「お待ちください!何があったのですか?」
「殿下が……今日で婚約は終わりだと。僕はもう必要ないって」
侍女たちは信じられないと首を振り、口々に言った。
「そんなはずありません……!」
「殿下はいつもリオネル様を――」
「やめてください!」
声が裏返り、侍女たちの視線が揺れる。その視線から逃れるように、僕は衣装棚に駆け寄り、服を乱暴に引き出した。
手が震えて、畳むことすら上手くできない。
「とにかく、僕はここにいる資格がないんです。最後まで迷惑をかけてすみません。手伝ってください」
必死に言葉を絞り出したその瞬間、廊下の向こうでざわめきが起き、続いて扉が勢いよく開いた。
「リオネル様!?どういうことですか!」
飛び込んできたのは、殿下付きの近衛騎士レオンだった。
いつもは冷静沈着な彼が、息を切らし、目を大きく見開いている。どうやら廊下での騒ぎを聞きつけ、急いで駆けつけたらしい。
「婚約破棄されたので出て行く準備をしているところです」
息を整える余裕すらなく答えると、レオンは一瞬、唖然としたように動きを止めた。
「……嘘だ。殿下が、そんなことを言うはずがありません」
掠れた声が漏れる。
「本当に言われたんです!」
張り詰めていた声が弾ける。
「婚約は今日で終わりにするって……もう僕は必要ないってことじゃないですか……!」
言葉にした途端、堪えていた涙が零れ落ちた。レオンは強く拳を握り、苦しげに息を飲む。
「リオネル様。どうか……殿下と、もう一度だけお話しください」
「嫌です!」
子どもみたいな声が出てしまった。
「これ以上、惨めな思いをしたくない……」
沈黙。空気が重く沈む。
レオンはしばらく僕を見つめ、やがて静かに頭を下げた。
「殿下は、誰よりもリオネル様を大切に思っておられます。俺は、信じています」
その真っ直ぐな声に、また胸が苦しくなる。
(どうして……どうしてそんなことを言うんだろう)
唇を噛んで涙を拭う。
「……分かりました。少しだけ、気持ちの整理をします。皆さん、部屋を出てください」
そう告げるしかなかった。扉の向こうへ侍女たちとレオンが下がり、辺りが静かになる。
(でも――荷物はまとめる。僕はここを去るって決めたんだから)
震える指先で衣服に触れながら、必死に考える。
「……やっぱり分からない。何が正しいんだろう」
頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。
そもそも、殿下と僕では釣り合うはずがなかった。
僕はただの地方侯爵家の次男。政略のために婚約者に選ばれただけで、本当に望まれた婚約者ではなかったのだ。
アレクシス殿下は国中の憧れだ。いつだって凛としていて、誰よりも美しく、強く、完璧で。王都を歩けば、みんなが振り返って見惚れるような人。そんな殿下の隣に立つたび、僕は胸を張るどころか、ただ「迷惑になりませんように」と祈るだけだった。
でも――たまに殿下が見せる優しさに触れるたび、胸が勝手に波立った。名前を呼ばれるだけで、そっと手を取られるだけで、息が詰まるほど幸せで。
叶うはずないとわかっていても、「もっと好きになってもいいのかな」なんて思ってしまって。
――それが、きっといけなかったんだ。
終わらせたいと思われていたのに、気づきもしないなんて。なんて、哀れで浅はかなのだろう。
目頭が熱くなる。僕は、震える手で荷物を詰め直した。
もう、この部屋にいる資格はない。一刻も早く姿を消さなければ。
「……今まで、ごめんなさい、殿下」
声に出した瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
そのときだった。扉の向こうで足音が止まる。続いて、コン、コン、と静かに叩く音。
心臓が跳ね上がる。
聞き間違えるはずがない。この足音を、何度隣で聞いてきたことか。
まさか――来るなんて。
来ないでほしい。顔なんて見たら、きっともう立っていられない。全部が崩れて、泣き出してしまう。
「リオネル」
低く穏やかな声が、扉越しに僕の名を呼ぶ。たったそれだけで胸が裂けそうになった。まだ好きで、まだ縋りたくて、それなのに終わらせなきゃいけない。
扉の向こうで、ゆっくりと気配が近づく気がした。
「……今は、会いたくないです……!」
かすれた声が勝手に漏れる。
次の瞬間、ガチリ――と重い金具が外れる音が響いた。
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