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一章 出立
第2話 邂逅
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鳩時計の短針にへばりついた糞をティッシュで拭き取る。時刻はすでに午後四時をまわっていた。
鳩時計を壁にかけると、スピリタスの空き瓶に漏斗を差し込む。コンビニで買った粗悪な缶チューハイを、泡を立てないように注意しながら慎重に注いでゆく。すべて移し終えると、缶を握りつぶし、適当に放り投げる。
やけに泡立ったスピリタスをグラスに注ぐ。うん、ゲロのように不味い。
婦人との会話に相当な集中力を要したのか、あっという間に酔いがまわり、気づけば五時に近づいていた。鳩時計を睨む。じりじりと秒針が十二の位置に近づいてゆく。今だ。
「ぽっぽう、ぽっぽう。ぽっぽう、ぽっぽう」
井ノ道は、すとんとグラスを机に置いた。いや、置かずにはいられなかったのである。
両開き扉から飛び出してきたのは、鳩ではなく、兎だった。
真っ白な兎が「ぽっぽう」と鳴きながら『お前は馬鹿だ』と言わんばかりに、開閉する扉の手前で目障りな会釈を繰り返している。
「ぽっぽう、ぽっぽう。ぽっぽう、ぽっぽう」
チクショウ、騙された! 俺は今、クソまみれの兎に、貧困と孤独を馬鹿にされているのだ。頭蓋骨をかっぴらいて脳ミソを搔きむしりたい衝動に駆られる。居ても立っても居られず、井ノ道は、安楽椅子を後方に蹴り飛ばして立ち上がった。
「兎がぽっぽうなんて、鳴く訳がないだろ!」
事務所の窓から「うるせえぞ」と怒声が飛んできた。窓をのぞく。約九メートル下、アスファルト舗装された道路。二十代くらいのサラリーマンが、ボサボサの髪を振り回しながら、指揮者めいた手つきでこちらを指さしている。
サラリーマンの背後、幽霊屋敷めいたクソボロアパートが、サラリーマンの指揮に合わせて、騒音と怒鳴り声の廉価なポップスを奏でていた。そこが、俺の自宅だった。
倒れた椅子を立て直すと、静かに着座する。部屋に充満する殺気に怖気づいたのだろう。白い兎はとっくに、両開き扉の中に引っ込んでいた。
井ノ道は、やけに泡立ったスピリタスをグラスに注ぐと、そっと口に含んだ。
変な泡が舌の上に残って、ざらついた。
雨が降っている。
埼玉県川越市のはずれに位置する井ノ道探偵事務所は、今日も都会の蛍みたく、誰の目に留まる訳でもない寂しい光を世に放っていた。
川越市内には、実に華やかな小江戸横丁が存在しているというのに、井ノ道の住む町には、葬式のようなどんよりとした静けさが年中漂っていた。繫華街の笑い声を、町を徘徊する労働者たちのくたびれた肉体が余すことなく吸収してしまうのだろう。
井ノ道は事務所の安楽椅子の上で、日陰に生息するダンゴムシのように体を丸めながら、来るはずもない依頼人を待っていた。
「次のニュースです。再生医療技術の飛躍的な進歩に伴い、難病による死亡者数の割合が、前年度に比べて約3割減少しました」
腹話術人形が口をパクパクさせながら、さも深刻そうに語っている。『今日の血液型占い。AB型の人。思いがけない幸運に恵まれるかも。ただし、低血圧には要注意』。下らない駄文が画面下部に流れた。
チャンネルを替えようとした、その瞬間。タン、タンと階段をのぼる乾いた足音が聞こえてきた。
朝だというのに一体誰だろう。一階のバレエ教室に通う体の柔らかい少女は、もっと軽い足音だろうし、二階の雀荘の常連客たちは、こんな時刻から活動するほど健康的ではないはずだ。
タン、タタン。タン、タタン。二つの足音が重なり合って聞こえる。事務所のドアの前で、ぴたりと足音が止まった。ゆっくりドアが開かれる。
「ごめんください。井ノ道探偵事務所で間違いないでしょうか」
めったに来ない客が、二日連続でやってきた。
二人の人間がポタポタ水滴のたれる傘を持って、小動物のような目つきで井ノ道を見つめている。一人は三十代後半くらいの男性で、よく手入れされたスーツを着こなしビジネスバッグを手に下げた、いかにもサラリーマン風の人物だった。瘦せこけた頬。青白い顔色。トンネルを走る列車のライトのような怪しい光を放つ、二つの瞳。対照的に、短く切り揃えられた髪からは快活な印象を受けた。
ビジネスバッグには、奇妙な文字と歪んだ線が描かれた、なにやら呪符のような紙がぶら下げられていた。
もう一人は、花柄のロングスカートを着込んだ、落ち着いた印象の女性だった。男性と同い年くらいだろうか。透明感のある見た目とは裏腹に、なぜだか全身に試合に負けたボクサーのような隠しきれない悲壮感をまとっていた。
「そうです。どうぞお掛けになってください」
めったにない幸運に動揺して、つい声が裏返ってしまう。
「失礼します」
男性は傘をかさ立てにしまうと、礼儀正しく頭を下げ、応接用の椅子に腰かけた。女性が隣に座る。関係性を見るに、二人は夫婦で違いないだろう。
「ええと、早速ですが、どんなご依頼で?」
男性が、女性の方に目配せをした。話していいだろう? そう聞いているらしい。女性は顔をうつむけたまま、大仏のように微動だにしない。怒っているようにも、呆れているようにも見えた。
どことなく重苦しい空気が、霧のように事務所を包む。男性は、井ノ道を真正面に見据えると、ハキハキとした口調で言った。
「一年前に誘拐された息子を、見つけ出してほしいんです」
鳩時計を壁にかけると、スピリタスの空き瓶に漏斗を差し込む。コンビニで買った粗悪な缶チューハイを、泡を立てないように注意しながら慎重に注いでゆく。すべて移し終えると、缶を握りつぶし、適当に放り投げる。
やけに泡立ったスピリタスをグラスに注ぐ。うん、ゲロのように不味い。
婦人との会話に相当な集中力を要したのか、あっという間に酔いがまわり、気づけば五時に近づいていた。鳩時計を睨む。じりじりと秒針が十二の位置に近づいてゆく。今だ。
「ぽっぽう、ぽっぽう。ぽっぽう、ぽっぽう」
井ノ道は、すとんとグラスを机に置いた。いや、置かずにはいられなかったのである。
両開き扉から飛び出してきたのは、鳩ではなく、兎だった。
真っ白な兎が「ぽっぽう」と鳴きながら『お前は馬鹿だ』と言わんばかりに、開閉する扉の手前で目障りな会釈を繰り返している。
「ぽっぽう、ぽっぽう。ぽっぽう、ぽっぽう」
チクショウ、騙された! 俺は今、クソまみれの兎に、貧困と孤独を馬鹿にされているのだ。頭蓋骨をかっぴらいて脳ミソを搔きむしりたい衝動に駆られる。居ても立っても居られず、井ノ道は、安楽椅子を後方に蹴り飛ばして立ち上がった。
「兎がぽっぽうなんて、鳴く訳がないだろ!」
事務所の窓から「うるせえぞ」と怒声が飛んできた。窓をのぞく。約九メートル下、アスファルト舗装された道路。二十代くらいのサラリーマンが、ボサボサの髪を振り回しながら、指揮者めいた手つきでこちらを指さしている。
サラリーマンの背後、幽霊屋敷めいたクソボロアパートが、サラリーマンの指揮に合わせて、騒音と怒鳴り声の廉価なポップスを奏でていた。そこが、俺の自宅だった。
倒れた椅子を立て直すと、静かに着座する。部屋に充満する殺気に怖気づいたのだろう。白い兎はとっくに、両開き扉の中に引っ込んでいた。
井ノ道は、やけに泡立ったスピリタスをグラスに注ぐと、そっと口に含んだ。
変な泡が舌の上に残って、ざらついた。
雨が降っている。
埼玉県川越市のはずれに位置する井ノ道探偵事務所は、今日も都会の蛍みたく、誰の目に留まる訳でもない寂しい光を世に放っていた。
川越市内には、実に華やかな小江戸横丁が存在しているというのに、井ノ道の住む町には、葬式のようなどんよりとした静けさが年中漂っていた。繫華街の笑い声を、町を徘徊する労働者たちのくたびれた肉体が余すことなく吸収してしまうのだろう。
井ノ道は事務所の安楽椅子の上で、日陰に生息するダンゴムシのように体を丸めながら、来るはずもない依頼人を待っていた。
「次のニュースです。再生医療技術の飛躍的な進歩に伴い、難病による死亡者数の割合が、前年度に比べて約3割減少しました」
腹話術人形が口をパクパクさせながら、さも深刻そうに語っている。『今日の血液型占い。AB型の人。思いがけない幸運に恵まれるかも。ただし、低血圧には要注意』。下らない駄文が画面下部に流れた。
チャンネルを替えようとした、その瞬間。タン、タンと階段をのぼる乾いた足音が聞こえてきた。
朝だというのに一体誰だろう。一階のバレエ教室に通う体の柔らかい少女は、もっと軽い足音だろうし、二階の雀荘の常連客たちは、こんな時刻から活動するほど健康的ではないはずだ。
タン、タタン。タン、タタン。二つの足音が重なり合って聞こえる。事務所のドアの前で、ぴたりと足音が止まった。ゆっくりドアが開かれる。
「ごめんください。井ノ道探偵事務所で間違いないでしょうか」
めったに来ない客が、二日連続でやってきた。
二人の人間がポタポタ水滴のたれる傘を持って、小動物のような目つきで井ノ道を見つめている。一人は三十代後半くらいの男性で、よく手入れされたスーツを着こなしビジネスバッグを手に下げた、いかにもサラリーマン風の人物だった。瘦せこけた頬。青白い顔色。トンネルを走る列車のライトのような怪しい光を放つ、二つの瞳。対照的に、短く切り揃えられた髪からは快活な印象を受けた。
ビジネスバッグには、奇妙な文字と歪んだ線が描かれた、なにやら呪符のような紙がぶら下げられていた。
もう一人は、花柄のロングスカートを着込んだ、落ち着いた印象の女性だった。男性と同い年くらいだろうか。透明感のある見た目とは裏腹に、なぜだか全身に試合に負けたボクサーのような隠しきれない悲壮感をまとっていた。
「そうです。どうぞお掛けになってください」
めったにない幸運に動揺して、つい声が裏返ってしまう。
「失礼します」
男性は傘をかさ立てにしまうと、礼儀正しく頭を下げ、応接用の椅子に腰かけた。女性が隣に座る。関係性を見るに、二人は夫婦で違いないだろう。
「ええと、早速ですが、どんなご依頼で?」
男性が、女性の方に目配せをした。話していいだろう? そう聞いているらしい。女性は顔をうつむけたまま、大仏のように微動だにしない。怒っているようにも、呆れているようにも見えた。
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