心臓のトピアリー

トウジマ カズキ

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一章 出立

第9話 後悔の航海

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 ドブン。船体が沈み込む。乗ってみると、ボートのデッキは見た目以上に広く感じられた。屋根の付いた操縦席には、ボロ雑巾のような服を着た男性が、背を向け地蔵のように座っている。どうやら彼がボートの運転手らしかった。
 なんの合図もなくボートが急発進する。慣性力に振り落とされないよう、井ノ道は必死に手すりにしがみつく。ボートはぐんぐんと速度を上げ海面を走る。湿った風が素早く頬を横切って、気持ちがよかった。
 後ろを振り返る。先のシークレットサービスが豆粒大に見える。大きな波を乗り越え、ボートがガクンと揺れた。
 ろくに心の準備もできぬまま、訳の分からない航海に参加してしまった。まさか、空木の買い取ったチケットは本物? いや、そんなはずはない。
 操縦席の運転手を観察する。男はまるでボートの一部と化したかのように黙々と操縦している。その距離、約六メートル。しかし心理的には、それ以上の果てしない距離があるように思えた。
「今日はいい天気ですね」
 試しに面白みのない挨拶をふっかけてみる。
「ところで、この船はどこへ向かうんです?」
「……」
 彼の代わりにエンジンが「ウン、ウン」と返事をした。どうやら彼は、心からボートの一部になりきっているらしかった。
 念のため安全を確認しておきたい。井ノ道は、そっと彼の背後へ近づいた。大丈夫。服の下には何も隠されていない。彼の足元を見る。
 井ノ道は動揺のあまり後方へ転倒した。ボートが小さく左右に揺れる。サイケデリックな大仏に見せられた幻覚か? もう一度、注意深く彼の足元を見た。
 ああ、幻覚などではない。むしろ、幻覚であってほしかった。
 彼の足首には、長い鎖の足枷が嵌められていた。
 どうして? なにか趣味の悪い演出だろうか。だが、鉄製の足枷の表面には、長年の使用を思わせる汚れやキズが見えるのだ。コスプレとは明らかに異なる、息のつまるような現実感。
 足枷とは本来、奴隷や囚人を拘束するための道具である。古来より日本は多くの奴隷を抱える国であったが、一八七二年に廃止制度が発令されてから、事実上、日本国内から奴隷は姿を消した。つまり、彼が病的な趣味を持ち合わせているとしか考えようがないのだ。
 ……いや、一つだけ可能性が残っている。もしも彼が、存在しない島の住民だったら。
 誰もいない森で倒れる木は、音を立てない。島の中で何が行われても、決して人に知られることはない。たとえ太古の奴隷制が現存していても。
 下らない妄想が過ぎた。まあ、彼は、へんてこな教団の信者に過ぎないのだろう。
 べチン! とつぜん船内に響き渡った音で、井ノ道はハッとした。湿ったコンニャクを車のボンネットに思い切り叩きつけるかのような音だった。
 いままで順調に航海していたというのに、とつぜんボートの進路が大きく左右にブレ始めた。
 床が割れんばかりに振動する。エンジンが「ウン、ウン」と阿保みたいな声を上げ、火を噴く。ボートは蛇行をくり返し、ついには横転しそうなほど船体が傾き始めた。太平洋へ振り落とされないよう懸命に手すりにしがみつく。
「どうした!」
 そう叫ばずにはいられなかった。
「悪魔、悪魔……」
「はい? なんだって?」
 やっと彼に日本語が通じて嬉しい気持ちがこみ上げてきたが、今はそれどころじゃない。
「悪魔が現れた!」
 泣き出しそうな声で、彼は何度もそう叫ぶのである。
 ふりこの要領で、船体の揺れは大きくなってゆく。彼の足首に繋がれた鎖がジャリジャリと興奮した。井ノ道は嘔吐した。吐しゃ物が太陽光を反射してキラキラ輝きながら、あっという間に後方へ流されていく。
 機械のような彼が、これほどまでに取り乱した理由を探らなくてはならない。このまま蛇行を続ければ、確実にボートは海の藻屑と化す。足枷の彼と二人きりで死ぬなんて、絶対に御免だ。
 赤ちゃんのようなハイハイでボートを進むと、やっとの思いで操縦席にたどり着く。運転手は小さな目をさらに小さく萎め、瘦せた四肢をブルブル震わせている。アンモニア臭。ああ、可哀想に。失禁したらしい。
 ふと、窓の上に何かが貼り付いているのを見つけた。
 たわしのような焦げ茶色の物体。柘榴のようにヌメヌメした臓物。風にはためく漆黒の翼。蝙蝠だ。ボートの窓に叩きつけられ、腹から臓器をこぼしながら、蝙蝠が死んでいるのだ。
 そうか。彼は、蝙蝠の死体を見て、悪魔と恐れたのか。
 井ノ道は、操縦席の外に身を乗り出して、窓のお掃除を試みる。強烈な潮風で、見苦しいチョビ髭がどこかへ吹っ飛ばされた。
 片側の羽を掴んでペリッと剝がすと、蝙蝠の死体を海へ放り投げる。窓に残った蝙蝠の臓物に痰を吹きかけて、服の袖で拭き取った。
「安心しろ。悪魔は消えた」
 肩を叩き、そう励ましてやった。彼はゆっくりと目を開けると、蝙蝠が消えたことを確認し、ハンドルを握り直した。ボートはスピードを落として几帳面に海を滑ってゆく。ふたたび彼は船の一部と化したのだ。
 井ノ道は、ふうと一息つくと、デッキの手すりにもたれかかる。
 泡だらけのスピリタスを頭からかぶってやりたい気分だった。
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