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二章 探索者
第18話 ボートの運転手さん
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「ワイファイのパスワード、知ってる?」
「お父さんが設定したから分からない」
「機械の本体は?」
「お母さんの部屋」
井ノ道は詩文様の写真を睨みながら、部屋のドアノブに手をかけた。
「やめろ!」
もの凄い剣幕で母親がどなり込む。ドアノブが一千度に熱せられていたかのように、井ノ道は反射的にドアから飛び退いた。
母親の足元で、ジョンの骸骨がきゅうと縮んだように見えた。
「ごめんなさい。もう二度としません」
「ここにいることがバレる。病院に送られるよ」
非常に残念ながら、本土への連絡手段は絶たれてしまったらしい。
「最後に一つお聞きしたいことがあるのですが」
風車を握りしめた三葉君の写真を母親に見せる。
「一年前の写真です。この子に見覚えはありませんか」
母親は、写真をまじまじと観察すると、灰のような息を吐いて、
「知らない」
とだけ呟いた。トロッコ問題を解き進める彼女にも写真を見せる。
「写真と似た人を見なかった?」
彼女は無邪気に首を横に振った。
「お父さんの寝室には、男の子は入れないから。『この家には、ネズミ一匹たりとも侵入させない。許可なく立ち入った奴は、残らず駆逐してやる』っていうのが、お父さんのキメ台詞だった」
「そっか」
コーヒー豆が消化不良を起こして今にも嘔吐しそうだった。
「勝手にお邪魔して申し訳ありませんでした。コーヒー豆、美味しかったです。それでは失礼いたします」
井ノ道は臭い頭頂部を二人に向けると、そそくさと部屋を後にした。
帰り際、数珠みたいなのれんの隙間から、積み木の汽車が六体の人形の手前でピタリと静止するのが見えた。
上空を覆う木々の葉が灯台の青白い光に照らされて、天の川のようにキラキラ輝いている。さて、これからどこへ向かおう。島中で指名手配されているのだ。悠長に構えている暇はない。果たして船を呼ぶ手段はないものか。井ノ道は、己の浅はかさを呪いながら森の中をさまよった。
青白い光が、波のように緑の天井を通り過ぎてゆく。
井ノ道はふと、足を止めた。神殿のように立ち並んだ木々の幹。その向こう側に、海坊主のような人影がぼんやり浮かんで見えるのだ。人影は光の波に抗うようにして、こちらへ近づいてくる。ジャリ、ジャリ。賽銭箱の上の鈴をかき鳴らすような音。足枷だ。
「探していました、あなたのことを」
足枷を嵌めた人間が、光と闇を交互にまといながら井ノ道の前に現れた。……ああ、本土から島への長い航海を共にした、蝙蝠に対して異様なまでの恐怖心を覚えていた、彼じゃないか。
「久しぶりだな。ボートの運転手さん」
井ノ道は、同窓会で旧友とばったり再会するような調子で、彼の肩を叩いた。
「詩文様がお呼びです。一緒についてきて下さい」
「なんだ。上手に喋れるじゃないか」
「詩文様がお呼びです。一緒についてきて下さい」
相変わらず機械のような口調だった。
「断ったら?」
「すぐに別の者が呼びに来ます」
彼の張りつめた表情が、噓ではないことを物語っていた。彼は、くるっと背を向けると、静かに鎖の音を響かせながら苔の生えた木の根を飛び越えていった。見えない銃を突きつけられているようで、逃げ出すことなど到底不可能であるように思えた。
井ノ道は、刷り込みによってカーネル・サンダースを親であると認識してしまったヒヨコのように彼の後をつける。
時間の流れが、日時計の影よりも遅く感じる。ああ、俺は詩文様のもとに連れて行かれて、一体なにをされるのだろうか。本州へ帰してくれる。そんな都合良くはいかないだろう。
ふと空を見上げる。先よりも闇が濃くなったような気がした。光の波が葉の黒緑に押し負け、頭上に届く前に霧消してゆく。まさか森の奥へ進んでいる?
彼は静かに足枷を引きずりながら、淡々と森を案内している。小鳥が消え、代わりに獰猛な肉食獣が真っ赤な瞳をギラギラ光らせこちらの様子をうかがっていた。
間違いない。我々は森の出口から遠ざかっているのだ。なぜ?
すると、前を歩く彼が、井ノ道の不安を感じ取ったかのように、突然くるっとこちらを振り返った。
「あなたは、ここの者ではない。そうですよね?」
若者らしい歯切れのよい口調だった。
「お父さんが設定したから分からない」
「機械の本体は?」
「お母さんの部屋」
井ノ道は詩文様の写真を睨みながら、部屋のドアノブに手をかけた。
「やめろ!」
もの凄い剣幕で母親がどなり込む。ドアノブが一千度に熱せられていたかのように、井ノ道は反射的にドアから飛び退いた。
母親の足元で、ジョンの骸骨がきゅうと縮んだように見えた。
「ごめんなさい。もう二度としません」
「ここにいることがバレる。病院に送られるよ」
非常に残念ながら、本土への連絡手段は絶たれてしまったらしい。
「最後に一つお聞きしたいことがあるのですが」
風車を握りしめた三葉君の写真を母親に見せる。
「一年前の写真です。この子に見覚えはありませんか」
母親は、写真をまじまじと観察すると、灰のような息を吐いて、
「知らない」
とだけ呟いた。トロッコ問題を解き進める彼女にも写真を見せる。
「写真と似た人を見なかった?」
彼女は無邪気に首を横に振った。
「お父さんの寝室には、男の子は入れないから。『この家には、ネズミ一匹たりとも侵入させない。許可なく立ち入った奴は、残らず駆逐してやる』っていうのが、お父さんのキメ台詞だった」
「そっか」
コーヒー豆が消化不良を起こして今にも嘔吐しそうだった。
「勝手にお邪魔して申し訳ありませんでした。コーヒー豆、美味しかったです。それでは失礼いたします」
井ノ道は臭い頭頂部を二人に向けると、そそくさと部屋を後にした。
帰り際、数珠みたいなのれんの隙間から、積み木の汽車が六体の人形の手前でピタリと静止するのが見えた。
上空を覆う木々の葉が灯台の青白い光に照らされて、天の川のようにキラキラ輝いている。さて、これからどこへ向かおう。島中で指名手配されているのだ。悠長に構えている暇はない。果たして船を呼ぶ手段はないものか。井ノ道は、己の浅はかさを呪いながら森の中をさまよった。
青白い光が、波のように緑の天井を通り過ぎてゆく。
井ノ道はふと、足を止めた。神殿のように立ち並んだ木々の幹。その向こう側に、海坊主のような人影がぼんやり浮かんで見えるのだ。人影は光の波に抗うようにして、こちらへ近づいてくる。ジャリ、ジャリ。賽銭箱の上の鈴をかき鳴らすような音。足枷だ。
「探していました、あなたのことを」
足枷を嵌めた人間が、光と闇を交互にまといながら井ノ道の前に現れた。……ああ、本土から島への長い航海を共にした、蝙蝠に対して異様なまでの恐怖心を覚えていた、彼じゃないか。
「久しぶりだな。ボートの運転手さん」
井ノ道は、同窓会で旧友とばったり再会するような調子で、彼の肩を叩いた。
「詩文様がお呼びです。一緒についてきて下さい」
「なんだ。上手に喋れるじゃないか」
「詩文様がお呼びです。一緒についてきて下さい」
相変わらず機械のような口調だった。
「断ったら?」
「すぐに別の者が呼びに来ます」
彼の張りつめた表情が、噓ではないことを物語っていた。彼は、くるっと背を向けると、静かに鎖の音を響かせながら苔の生えた木の根を飛び越えていった。見えない銃を突きつけられているようで、逃げ出すことなど到底不可能であるように思えた。
井ノ道は、刷り込みによってカーネル・サンダースを親であると認識してしまったヒヨコのように彼の後をつける。
時間の流れが、日時計の影よりも遅く感じる。ああ、俺は詩文様のもとに連れて行かれて、一体なにをされるのだろうか。本州へ帰してくれる。そんな都合良くはいかないだろう。
ふと空を見上げる。先よりも闇が濃くなったような気がした。光の波が葉の黒緑に押し負け、頭上に届く前に霧消してゆく。まさか森の奥へ進んでいる?
彼は静かに足枷を引きずりながら、淡々と森を案内している。小鳥が消え、代わりに獰猛な肉食獣が真っ赤な瞳をギラギラ光らせこちらの様子をうかがっていた。
間違いない。我々は森の出口から遠ざかっているのだ。なぜ?
すると、前を歩く彼が、井ノ道の不安を感じ取ったかのように、突然くるっとこちらを振り返った。
「あなたは、ここの者ではない。そうですよね?」
若者らしい歯切れのよい口調だった。
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