やがて塵になる僕らは

さとわ

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白昼一等星

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 その日の俺は、アラームが鳴る三十分前に目が覚めた。すこぶる寝汚い自覚のある、俺が。我ながら驚くほどすっきりとした目覚めだった。せっかくだし二度寝でも、というには妙に目が冴えてしまっていたから、どこか据わりが悪い気持ちのまま、アラームを取り消すために起き上がってスマホを手に取った。通知バーには平日用に設定したアラーム、SNSとメッセージアプリからの通知が十数件。それと、電話通知が二件、お行儀良く並んでいる。
 電話? 私用も仕事の連絡も、最近はメッセージアプリで済ませているのに。よほど急ぎの連絡だったのだろうか。かすかな疑問を抱きながら着信履歴を開く。午前三時に一件、その三分後にもう一件。発信者は「清水」……俺が勤めている研究所の先輩の名前だった。
 なんとなく背筋に寒いものを感じる。こんな深夜に、何を伝えることがあったんだ?
 着信履歴から清水先輩へ電話をかけ直す。スマホを握る手に冷や汗が滲んで、危うく滑り落としそうになった。数コール後に応えたのは、機械音声の案内だった。
 心臓が跳ねた。背筋を巨大なナメクジが這いずっているような悪寒があった。事故でも起こったのだろうか。いや、それなら所長からも連絡があるはずだ。祈るような気持ちでもう一度電話をかけた。先輩は、普段なら二コール、遅くても五コール以内には出てくれる。「悪いね」と、全然悪びれてない朗らかな声で、
「おかけになった電話は、現在――」
 反射的に通話終了ボタンを押した。無機質な機械音声をこれ以上聞きたくなかった。寝巻きを放り、車の鍵を引っ掴んで研究所へと急いだ。道中、昨日出勤予定だった同僚に片っ端から電話をかけたが、誰からも応答はなかった。
 
 この光景は夢だと――そう信じたかった。頬を抓っても目の前の光景は変わらなかった。コンクリート造りの研究所は跡形もなく壊れていて、周りの木々は強く殴打されたような凹みが残っていた。生い茂った茂みの隙間から白衣の裾が覗いていたから、縋る気持ちで草をかき分けた。それは目を開いたままの同僚の遺体だった。ああ、と声が漏れた。
 それから何を思ったか、俺は壊れた研究所へと歩を進めた。生きている人間がいないか確かめたかったから、何かに誘われたのか――今の俺にはわからない。
 
 はじめは死体の一つかと思った。ほとんど崩壊した建物の最奥、真昼の陽の光も届かないような実験室の跡に、微動だにせず座っていたものだから。懐中電灯を向けたとき、ちらちらときらめく両眼が見えなかったら。そうしたら、気がつかないでいられたのに。
 生存者がいる、と。保護しなければ、と――今思えば憎らしいほど――俺は即座に判断した。あんな小さな子どもが此処に居ないことは把握していたはずだった。いくつかの悪い予感も脳裏をよぎった。それでも足を踏み出してしまったのは、暗がりの中の星あかりが、俺にとってあまりにも魅力的だったからだ。ここに辿り着くまでに、唯一の居場所であった研究所を失ったことも、同僚たちが無惨に死んでいったことも、嫌というほど理解してしまっていたから。
 誘蛾灯に誘われる虫のように、大量の瓦礫といくばくかの人間の残渣の間を縫ってその小さな影へと近寄る。保護しなければ、なんていうのは建前だった。星は静かにまたたいていた。俺はただ歩を進めた。
 目の前に辿り着くまで二分もかからなかったと思う。クレヨンで塗りつぶしたような艶のない赤毛。貧相な体躯に生白い肌。子どもは布切れ一枚を羽織って、ぽつんと座り込んでいた。ぼさぼさの前髪の隙間から濃藍の虹彩に不ぞろいなふたつの星が浮いている。おいで、と呟いて、その光に手を伸ばした。
 ガツン。ふいに鈍い音が響いた。思わずよろめいてから、足元のガロン瓶につまづいたことに気がついた。透明な液体が拡がって靴底を濡らした。立ちのぼってきたエタノールの匂いが鼻をつく。反射的に足元に懐中電灯を向けて――自分の愚かさにようやく気が付いた。
「……お前、これ……お前が」
 無色透明の水たまりに赤色が滲んでいた。子どもの羽織っているケープの端がエタノールに浸っていて、赤色はそこから拡散していた。血液の赤だった。そのことに気付いた途端、むせ返るような鉄の匂いに襲われた。ごぽ、と内臓が変な音を立てて、せり上がってきた胃液が喉を焼いた。
 子どもは――それは微動だにしなかった。まばゆい星を両の眼にたたえて、ただ、俺を見つめていた。
「なんとか言えよ、なあ!」
 残響が虚しくこだまする。胸ぐらを掴みあげて揺さぶることだってできた、はずだ。相手は小さな生き物なのだから。それでも俺は大股一歩もない距離を詰めることができなかったし、手には嫌な汗が滲むばかりだった。口の中に広がる苦味を噛み殺しながら、安い脅し文句を二言三言吐き出すので精一杯だった。鉄錆に蝕まれた空気は重ったるく沈んだまま、身体に纏わりついてくる。
 俺が前に進むことも後ろに退くこともできず、果てに言葉が尽きて立ち尽くしても、目の前の生き物は何ひとつ反応しなかった。両の眼の夜宙が、その中に浮かぶ一等星が、瞬きもせず、ただ、見下ろしている。
 どれだけの間そうしていただろう。ふいに目の前の生き物が身ぶるいをした。すっかり赤く染まった水たまりに波紋ができる。浸かった脚が細く黒い、虫のそれと酷似していることに気付いて、収まったはずの吐き気がまたこみ上げてきた。
 そいつは何度かぱちぱちとまばたきをしたあと、改めてこちらを見た。脚と同じ黒色と人間に似た肌色が混じったいびつな腕をゆるりと持ち上げて、小指を立てる。そうして舌足らずな声で、
「やくそく」
 と言葉を紡いだ。何を、と問う間もなくそいつは続けて
「ないしょ、ね」
 にこり、と。微笑みながらそう言った。いたずらが見つかった子どものように。
 無邪気であどけない仕草が、言葉が、表情が、錆びた血液と無秩序に混ざった薬品の匂いで満ちたこの空間にとんでもなく不釣り合いで、頭がくらくらした。
 独りで結んだ指切りに満足したようで、そいつは細い脚で立ち上がり、軽やかな足取りで部屋から出ていった。
 懐中電灯は虚ろを照らしている。あの生き物がいた跡は――輝く星の軌跡は、もうどこにもない。ふと外へ目をやると、ちょうど太陽が山の裾野へ沈みきる頃だった。夜が迫りだす空に、きらめく星々は見つけられなかった。
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