やがて塵になる僕らは

さとわ

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星の名残にて

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 真っ暗闇の中で目が覚めた。いや、目が覚めたという表現は些か違うかもしれない。いつの間にか暗闇しか感知できない空間に居た、という方が近しいか。目を開いても、閉じても、僕の前にはペンキで塗りつぶしたような暗闇が居座っている。一寸先どころか、自分の鼻先すら見えない始末だ。普段見えるはずのものが見えないというのは、ささやかながら明確な不安を生む。自分とこの暗闇の境界線がひどく曖昧なものになってしまったような、そんな憂いを僕は抱いた。なにかの衝撃で僕と空間を隔てる膜が破けて……僕は少しずつ暗闇に溶け出して、ゆっくりと記憶を希釈されて……そうして、何もかもを飲み込んだ静かな暗闇だけが後に残る――そんな想像をしてしまった。胸がにわかにざわつく。明かりが欲しかった。僕と世界の境界を明示してくれる明かりが。
 明かりは――照明はどこだろう?
 ――そもそも、電気設備は壊されてしまっただろ。
 思考までもが黒く塗りつぶされてしまったような心地だ。僕は何かを忘れてしまってる。そのことだけは確かに感じられるのに、肝心なことは何一つ思い出せない。胸のざわつきがさらに大きくなるのを感じた。
 焦ってはいけない。焦りはミスの元だ。忘れてしまったのなら、一つずつ記憶を辿って思い出していけばいい。まず自分は、そう……未知の生き物、所謂UMAと呼ばれるものの研究をしていた。周囲からは得てして理解されない学問分野だ。そして僕は、とある蒐集家が建てた別荘――そこに併設された研究所に、ほぼ泊り込みで勤めていた。倫理とか、人道とか、僕らはそういうものから隠れて研究をしていたから、研究員は数える程しかいなかった。しかしその分、結束力のあるチームとして――そうだ、他の研究員はどこにいるんだろう。もし、誰かそばにいてくれたら。僅かな希望が心中に灯った。
 深さもわからない闇に向かって呼びかけた。誰か、誰か居ないか。返答は無い。もう少し大きな声で呼びかける。必死に出した声はどんどん減衰して、恐ろしいほどの静寂へと収束する。先刻抱いた希望は幻想だと目の前の暗闇が語っているようだ。幾度呼びかけても、誰かの声も、人の立てる音すら聴こえない。
 胸のざわめきはいつの間にかじくじくした鈍痛に変わっていた。研究員たちは、皆は、ここにいない。違う、いないのではない。
 ――皆、命を奪われてしまった。夜空を宿した目をもつ子どものような生き物に。
 そして僕も、その例に漏れず――
「ああ……そう、そうだった」
 僕のことごとくを覆っていた暗闇が霧散していく。僕は壊れた建物の傍にできた瓦礫の山の中に埋まっていた。痛みはもう無かったけれど、それ以外の感覚も無かった。風が僕をすり抜けて木々を揺らす。僕の肉体はとうに死んで――僕自身は幽霊になってしまったようだった。
 辺りをなんとなく見回してみる。感覚器官も脳みそも無いのに、何かを感じられるというのは奇妙な感じだ。日が暮れてから随分経つらしく、空は深い藍色に染まっていた。動物の鳴き声や茂みをかき分ける音は無く、時折強い風が吹いて木々や草木を揺らす微かな音がするだけだ。
 僕と、僕の同僚たちの命を奪ったあの生き物は、もうどこにもいなかった。研究所を破壊し、僕らを散々に振り回した挙句、はどこかへ去ってしまったらしい。飼い犬に手を噛まれるとはこういうことを言うのだろうか。……或いは、僕らはを飼い慣らせていると――意思疎通できていると、そんな身勝手で甘い幻想を抱いていたのか。目を瞑って――視覚情報をシャットアウトして――あの生き物にまつわる記憶を思い浮かべる。
 節操なく跳ねたぼさぼさの赤毛。真っ白な飼育室で膝を抱えていた姿。食糧を与えてやった時にひときわ輝く星雲の双眸。僕が部屋に入ると目を細めて笑うこと。笑うときに青白い肌に赤みがさすこと。握った手が冷たかったこと。握り返された手の軋む音。おほしさまがみたいの、ここからだして――掠れたあえかな声。そこからの記憶は曖昧だ。
 空を見上げる。月は肩身狭そうに西の空へ傾いていて、頭上では星々が思うままに煌めいていた。
 人は死ぬと星になるという表現があるが、僕はどこへ行き、何になるのだろう。ふとそんなことを思う。肉体はいつか土に還る。ではこの僕は?幽霊は、時が経てば消えるのだろうか。未練がある者なんかは地縛霊になるとも言われる。時が解決してくれるとして、どれほどの時間がかかるのか。それとも、この場所に、この世界に取り残されたまま――気の遠くなるほどの日月を過ごすのか。冷ややかな絶望感がもう動かない心臓に沁みてゆく。
 ちょうどその時だった。
「やあ、こんなとこにいた」
 遠くの方で声がした。ふとそちらに意識をやると、橙色のやわらかな明かりがゆらめいているのが見えた。その灯火は消えることなく真っ直ぐとこちらへ近づいてきて、やがて僕の少し前で止まった。「お迎え」が来たのだと、何故だか僕はそう確信した。
「ずいぶん探したよ。君で最後だ。さ、私についてきてくれるかい」
 柔らかな明かり――暖色の炎を抱える古いカンテラを携えた人は、優しい声でそう言った。僕は何も答えられず、ただ首を縦に振った。言葉が出なかったのは、その人の纏う不思議な雰囲気に、僕がすっかり見惚れてしまっていたからだ。僕が頷いたのを確認すると、その人はうっすらと微笑んだ。きれいに切りそろえられた桜色の髪が揺れる。左右異なる色のアーモンドアイ、静けさを湛えた青い左目と暖かな火のような赤い右目は、夜闇の中で少しきらめいて見えた。服装は白のYシャツ、黒のスラックスに革靴とありふれた格好だが、細身の体によく似合っている。男性なのか女性なのかは――よくわからない。肩にかけられた上等そうな若草色の羽織が、この人の品格を表しているようだと思った。
「……鑑賞は終わった?」
 何も言わない僕の顔をきれいな両の目が覗きこむ。心の奥まで見透かされてしまいそうな瞳だ。陳腐な感想が浮かんだ。
「あっ、ご……ごめんなさい。失礼なことを」
「あはは、別に構わないよ。それに、ちょうど来る頃合いだ」
 何が?問おうとした声は、けたたましい警笛の音にかき消された。風が低く唸り声を上げ、木々が騒々しくざわめく。次の瞬間、僕の目の前には一両の古い電車が停まっていた。クリーム色の車体に、緑のラインが二本。日に焼け、塗装は所々剥げていたが、不思議と悪い感情は抱かなかった。
「君たちを運ぶ電車だ。ちょっと小さいけど、ま、我慢してね」
 そう言って器用にウィンクを飛ばし、若草色の羽織を翻しながらその人は車掌席に乗り込んだ。ややあって、空気の抜ける音と共にドアが開く。おぼつかない足取りで車内へ乗り込むと、なんとなく、僕と同じようなものの気配を感じた。
「お待たせしました。午前二時発、彼岸行きの電車が発車いたします」
 アナウンスが流れ、ドアが閉まる。やがて電車は地面を離れ、雲をすり抜け――そして、ここではないどこかへ走り去っていった。
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