やがて塵になる僕らは

さとわ

文字の大きさ
3 / 4
1章

うつろわぬあなたへ 1

しおりを挟む
「紡久、今年の正月は父さんの実家に帰ろうと思うんだけど。いいよな?」
 大掃除の最中、風呂場の鏡を磨いていた父が思い出したように言った。浴槽の汚れと向き合っていた俺は、スポンジを握る手をゆるめて、
「はぁ」
 と気の抜けた返事をした。
 父方の祖父母は、小さな商店街の一角で呉服屋を営んでいる。俺と兄が小学生だった頃はたびたび遊びに行っていたが、最近はとんと顔を出していない。最後に行ったのは、俺が小学校低学年だった頃の夏休みだったと思う。店の商品には触らないように言い含められていたのもあって、当時の俺は二階にある物置部屋でゲームをするか、外に出てふらふらと商店街を見て回っていることが多かった。入道雲が浮かぶ青い空の下、人が、物が、言葉が、絶え間なく行き交いする賑やかな喧騒だけがやけに記憶に残っている。
「急だね。どうしたの」
 色褪せた思い出は記憶の片隅にしまって、俺は話を続けるために適当な質問を投げる。
「まぁ正月だし。それにほら、お前、来年からあの辺の高校行くんだろ。下見にもなるんじゃないか」
 父は鏡を磨く手を止めないまま、呑気に答えた。確かに、俺の第一志望の高校は父の実家からそう遠くないところにある。でも、先日受けた模試の結果はD判定だったし、その結果は父も見ているはずだった。釈然としない気持ちを抱えたまま、シャワーの蛇口を捻り、浴槽に残った泡を洗い流す。足裏を撫ぜていく水は冷ややかだ。受かるかどうかもわからない高校の、それもただ近隣にあるだけの商店街の下見って、なんだよ。眉間にしわが寄るのを感じたが、それを隠そうとは思わなかった。
 突然決まった里帰りの理由に、心当たりはあった。先日、遠方の大学に通う兄から、今年は帰省しないと連絡が来たのだ。電話をとった母さんは「大学のお友達と年越しするんですって」と、寂しさの混じった笑顔で言っていた。
 俺の兄は、朗らかで明るくて誰からも好かれる、絵に描いたような善人である。一方、弟である俺はというと、卑屈で内気、。父と母はきっと、俺のような陰気な子供と、賑やかであるべき年越しの卓を囲むなんて耐えられないと考えたのだと思う。
 そんな鬱々とした思考を巡らせていると、やがて泥のように重たい感覚がだんだんと胸の奥底からこみ上がってくるのを感じた。鼻をくすぐる石鹸の香りに反して、口の中は砂利を食ったかのようにざらつく。俺はそれらの不快感を顔に出さないよう気をつけながら、
「そうだね。楽しみにしとくよ」
 と言った。泡だった水を飲み込んだ排水溝が微かに鳴いた。
 
 電車を何本か乗り継いで、ほとんど降りる人のいない駅で降りた。雲ひとつない青空に輝く冬の太陽が目に沁みた。吹きっさらしのホームには、駅名の書かれた看板と日に焼けて色のわからなくなったベンチがぽつんと置かれていた。錆びの色が目立つそれの横を通り過ぎ、案内板が指すとおりに歩く。先を歩く父と母が何かを話していたが、なるべくそれを耳に入れないよう、木枯らしが耳元を掠めていく音に耳をすませていた。
 改札口に立つ駅員さんに切符を渡し、階段を降りた先のロータリーは、驚くほど閑散としていた。まだ昼前だというのにいくつかの店はシャッターが降りて、そのうちの一つには張り紙が貼られていた。
 こんなに静かだったかな、と父が首を捻りながら小さく呟いた。前よりもお店が減ったのかしらね、と母が答えた。俺は何も言わなかった。降りたシャッターの前を通り過ぎるとき、黄ばんだセロテープで留められた一枚の張り紙をちらりと見た。閉店の知らせだった。
 
 両親の背を視界の片隅にとらえつつ、歩道を寂しげにいろどる割れたタイルの数を数えながら歩いていたら、目的地には案外すぐに辿り着いた。店の裏側に位置する勝手口の扉は、記憶よりも随分と小さくて汚れている──ように感じた。表札の下、カメラもスピーカーも付いてないインターホンを父が押すと、耳障りなブザー音が鳴った。
「あら、いらっしゃい。疲れたでしょう。さぁさ、上がってちょうだいな」
 ややあって、勝手口から祖母が顔を出した。目尻に刻まれたシワとくっきりあらわれたえくぼが、彼女のよろこびを顕著に示しているようだった。
「ただいま、母さん。父さんは店の方?」
「そうよぉ。お着物の整理をするって、朝からやってるわ」
 他愛無い会話をしながら、父は勝手知ったるという様子で祖母の後に続いて家の中に入る。父の背を追うように、おじゃまします、と控えめな声で挨拶した母が玄関に上がる。俺だけぼうっと立ち尽くしているわけにもいかないから、母に倣って玄関に足を踏み入れる。樟脳の香りが鼻をついた。ドアを閉めたとき、ふと祖母が振り向いて、少し驚いたというように目を丸くした。
「あらぁ、今回は紡久ちゃんだけ? お兄ちゃんは来ないのだっけ」
 心臓がずしりと重く沈むのを感じた。靴を脱ぐために俯いていて良かった、うまく回らない頭でそう思う。頭にぐんぐん血が昇って、息が浅くなるのを感じる。父さんが何か話していたが、耳鳴りがしてうまく聞き取れなかった。
「……おれ散歩してくるわ。夕飯までには帰るから」
 呟くように言い捨て、さっさと踵を返して足早に外へ出た。背後で呼びかけてくる母の声が遠のいていく。火照った顔に、冬の冷たい風が容赦なく吹き付ける。今はそれが心地よかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

妻への最後の手紙

中七七三
ライト文芸
生きることに疲れた夫が妻へ送った最後の手紙の話。

処理中です...