やがて塵になる僕らは

さとわ

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1章

うつろわぬあなたへ 2

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 衝動的な逃避行は一時間も保たなかった。血の味がへばりついた喉とふくらはぎに残った徒労感を抱えながらのろのろと歩いていた俺は、結局、見慣れた商店街の入り口に立っていた。「ようこそ」を掲げたアーチの向こう側、こぢんまりとした店舗付き住宅がぎゅう詰めになって並んでいる。賑やかな声が漏れ聞こえるカフェ、寡黙そうな婆さんが店番をしているたばこ屋、……その間に転々と立つ、壁面を蔦に覆われた空き家。少し遠くの店から聞こえる客引きの明朗な声と軽妙な口上は澄んだ青空に虚しく響き、やがて消えていく。中央通りを行き交う人は数えるほどしかいない。
 変わった、と思う。良いか悪いかはわからないけど、とにかく、この小さな町は大きく変わった。物置部屋で寝転がりながら聞いていた賑やかな喧騒は、祖母に手を引かれて歩いた人混みは、もうここには無い。落書きの跡が残るアーチに寄りかかる。ざらり、鉄錆が指を舐める。ゆっくりと空気を吸って、細く長く、息を吐く。そうやって、外気と等しいつめたさが火照った身体に染み込んでゆくのを感じていた。
 どれだけの時間そうしていただろう。少しずつ日差しが弱まって指先にじくじくとした痛みを感じてきた頃、不意に、懐かしい声に名前を呼ばれた。
「こんにちは、紡久くん。こんなとこで立ち尽くしてたら風邪ひくよ」
「はぁ……ハイ!?」
 突然声をかけられたものだから、変な風に身体が跳ねた。声のした方を振り向くと、俺の想像した通りの──細身のカッターシャツにスラックス姿の人影が立っていた。かれは石畳を軽やかに踏み鳴らしながらこちらへ近づいてきて、お互いの顔がよく見える位置で足を止めた。
「以前に会った時よりも背が伸びたね。ああ、私のことは覚えてる?」
「トーカ! あ、いや……に、西浦サン。ひっ、久しぶり……です」
 緊張で声が上擦る。それに眉を顰めることも嘲ることもなく、ただ、トーカでいいのに、と、目の前のひとはきれいに笑った。夕暮れの陽射しを浴びて、桜色の髪には柔らかな光の輪が浮かんでいた。
 西浦トーカ。慣れない土地でふさぎ込みがちだった俺に、この町での楽しみを教えてくれた人(実のところ、ヒト・・では無いのだが)だ。そして、俺と兄の、命の恩人でもある。
「最後に来たのは八……、九年前だったかな。随分背が伸びたね」
 もう私と変わらないくらいだ。そう言って、トーカは水平にした手のひらを俺の頭頂部に優しく置いた。高さを覚えた手はすうっと引き戻され、トーカの額にぶつかる。トーカの手を追っていた俺の視線は、トーカの視線とぶつかった。赤色と、青色。左右で色の違う瞳はかすかな喜色をたたえて、俺をじっと見つめていた。
 昔は背伸びして見上げていたかれの顔が、今は当然のように目の前にあることに、俺は今さら動揺していた。俺の身体は、俺自身が思っていたよりもずっと変化していたらしい。何年か前と比べて、背は高く、声は低く、顔にはニキビができるようになった。さらに何年か経ったら、俺の身体はまた想像もつかないほどの変化を遂げるのだろうか。もっと年月を重ねたら……──そこまで考えて、突然、背筋がひやりと凍る感覚をおぼえた。もう数十年先の、老いさらばえた自分の姿。容易に想像できてしまったそれ・・が、寂しく衰えたこの街のあり様と、重なるようで。
 脳裏に浮かんだ不吉な想像を追い払うように頭を振って、目の前に佇むトーカに向きなおる。話すことなんていくらでもあるはずなのに、カラカラに乾いた喉からはまともな話題が出てこなかった。
「えっと、その……トーカ……さんは、全然変わってないな」
「ふふ、きみはお世辞が上手になったね。ありがとう」
 お世辞ではない。出会ったあの日から何一つ変わっていない──いっそ末恐ろしいほど。しゃんと伸びた背に、痩せぎすでもふくよかでもない、均整のとれた身体。俺よりも高くて、でも俺の母さんよりは低い声。滑らかでいっそ青白いほどの肌には、できものどころか傷痕や皺すらも見当たらない。短く切り揃えられた薄桃色の髪の下には、濁りのない赤と青の瞳。思い出の中に佇むかれと、今、俺の眼前で微笑むかれは、寸分違わぬ造形をしている。
「ここにはいつまでいるの?」
「明後日……」
 夕焼けがじりじりと煮詰まって、見下ろすものすべてを橙色に塗り潰していく。太陽に背を向けたトーカの顔には色濃い影が落ちて、どんな表情をしているのかわからない。
「そっかぁ。結構すぐだね」
 トーカの声が夕闇の空気に沈みこむ。それをどうにかして引き上げようと、俺は必死で言葉を紡いだ。
「あ! でも俺……えっと、もしかしたら、高校はこっちの方になるかも、だから……」
 だからなんだっていうんだろう。また会いに来れるよ、って? 想像しただけで歯の根が浮つく心地がした。続ける言葉を迷っているうちに、トーカがまた口を開く。
「本当? 君さえ良ければ、また遊びにおいで」
 弾んだ声が嘘じゃないといい。それだけを思った。
「うん。……約束する」
 約束。やくそく。久しぶりに口にする言葉はどこかおぼつかない響きをもって舌の上を転がる。
「約束だね。桜が咲いたら、きっと来るんだよ」
 おぼろげで頼りない音の輪郭をなぞり、確かな言葉に編み直すように、トーカは繰り返す。指切りげんまんもしておこうか? トーカが言う。子供のころに戻ったみたいだと思った。いいよ、やろう。俺はそう答えて、小指を立てた右手を差し出す。深まる黄昏の中では自分の手の輪郭すら曖昧だ。ややあって、すべらかでぬるい肌の感触が俺の小指を絡めとった。トーカの小指だ。
〽️指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます………
 金切り声をあげる木枯らしの間を、朗々とした歌声が通り抜けていく。
「ゆびきった」
 見えない糸が結ばれて、指が離れる。
 虫の鳴くような音がして街灯がともった。ほの白く頼りない太陽が夜闇に満ちた町をぼんやりと照らし出す。突然まばゆくなった視界に慣れるため、俺は何度かまばたきをした。街灯の白い光がトーカを照らしている。かれは指切りの手をしたまま、変わらず俺の目の前に立っていて……笑顔を花に例えた人の気持ちが、俺にも少しだけわかった気がした。トーカが口を開く。
「すっかり暗くなってしまったね。おうちまで送っていこうか?」
「いや、大丈夫。……ありがと」
 なんで君がお礼を言うのさ。トーカは不思議そうに呟く。なんとなくだよ、と答えた。
「それじゃ、気をつけて帰るんだよ」
 そう言うなりトーカは俺の横をするりと通り抜けて、商店街の外の暗闇へと溶けていった。もうかれの姿が見えないことを確認して、俺も帰路へと足を向ける。いつの間にか、自分の影以外に動くものはいなくなっていた。
 急に家を飛び出したことについて、父は何か言うだろうか。母は兄と俺を比べて苦言を呈するかもしれない。そう思うと足取りも重くなりそうなものだが、今の俺にとって、そんなことは些事だった。
 頬はあつく火照り、心臓は跳ね回っている。俺の名前を呼ぶトーカの声が、指切りげんまんの歌声が、離れていく指の感触さえ変わっていなかったことが、ひどく奇妙で、それでも嬉しかった。 
「桜が咲いたら……」
 まだ少し先の季節を思いながら、約束の言葉を噛み締めるように呟く。冷たい風が頬を撫でる。春の陽気がやってくる頃には、俺は高校生になっているのだろう。そして、俺がそのときどうなっていようとも、花咲くような笑顔のかれがここで待っていてくれるというのなら、自分はきっとまたこの町へ足を運ぶ。そんな確信を抱いた。
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