37 / 77
第7話
3
仕事を早々に終わらせる算段を立てていると、夕方、上司が「そろそろA社の件、相川にも入ってもらった方がいいな」と零し、心臓が跳ねた。
全身の細胞が一気に入れ替わったような気がする。勢いよく頷きたいのをなんとか堪え、十分に間をおいてから頷く。すると上司はあっさりと相川を呼んだ。
思わず手が震える。これが武者震いというのだろうか、と本気で考えた。
ただ二人で指示を受けたあと、「望み通り相川を専任にするんだから、期待してるぞ」と部長が零したときには背筋をたらりと冷たい汗が伝った。乾いた笑みを浮かべながら、頭をフル回転させてごまかしの言葉を探す。けれど横に並ぶ相川の表情をこっそり窺うと、彼女は何も疑問を覚えていないようだった。一切表情を動かさない相川に、喜びと悔しさがない混ぜになったような気持ちを覚える。
ただその時、ふわりと甘い香りが鼻の奥をくすぐった。それが相川から漂う柔らかい香りだと気づいた瞬間、再び自分の胸が鳴った。
入社して五年。やっと相川とがっつり組める。
まさかこっちがずっと「相川を専属にしてくれ」と頼み続けていたことは、できるなら本人には隠しておきたい。そう思っているはずなのに、自分の気持ちも身体も、素直に喜びを表現したくてたまらなかった。
ミーティングルームで現状の報告と、取り急ぎ頼みたい作業を相川に伝える。
二人しかいないから不自然じゃないだろう、と長机の隣同士に座った。
視線が同じ高さになるのは久しぶりだ。資料をめくるたび、揺れる相川の肩が触れそうになる。彼女と隣り合っている自分の左半身だけが、ほのかにあたたかく感じるのは、相川の体温を感じているからだ。
相川は渡した資料に素早くペンでメモを取りながら、早速確認事項を書き出していた。書道でも習っていたのだろうか、という整った文字を眺めていると、矢継ぎ早に質問が飛んでくる。不意に五年前の研修を思い出す。やっぱり話がスムーズだ。
相川がわざとらしく敬語で話しかけてくるところだけは、どうかと思うけれど。
相川の理解力の高さと適切な質問のおかげで、二人でのの打ち合わせはすぐに終わってしまった。部署に戻りながら、やんわりと相川の仕事量を心配したけれど、「まあ。他の業務と並行して大丈夫だと思います」とあっさり返された。
「さっすが。クールビューティは優秀だなあ」
落ちかけた沈黙をごまかすように言葉を零す。けれど、相川の白い眉間にはくっきりと皺が寄った。
「ていうか何、クールビューティって」
まるで初めて聞いたと言わんばかりに不審な目を向けられる。
「え、知らないの? 相川、みんなにそう呼ばれてるの」
「何それ。ブリザードじゃなくて?」
相川の口調が崩れて、じんわりと胸があたたかくなる。けれど本人の口から漏れたあまりに似合わない言葉に、思わず吹き出してしまった。
「なんだよブリザードって。聞いたことねえんだけど」
「うそ」
けれど、相川は本心から言っているようだった。
「え、何本気で言ってる? まあ……他には雪の女王ならぬ氷の女王なら聞いたことあるけど。あーでも、俺的にはどっちかって言うと女王よりプリンセスって感じだけどな~」
このくらい軽く本音を混ぜても許されるだろうか。まれに見せる柔らかい笑みは、俺にはそう見える。惚れた弱みと言われればそれまでだけれど。
けれど一瞬、相川は虚を突かれたように動きを止めた。その表情は変わらない。
背筋が強張った。言い過ぎただろうか。
「別に何でもいいですけど」
いつもの口調でぴしゃりと言った相川は、もうこの会話を続けるつもりはないとばかりに口を閉ざした。
ぐっと胸の奥が詰まる。戻ってしまった距離が、まるで空洞のように広がっていく。
全身の細胞が一気に入れ替わったような気がする。勢いよく頷きたいのをなんとか堪え、十分に間をおいてから頷く。すると上司はあっさりと相川を呼んだ。
思わず手が震える。これが武者震いというのだろうか、と本気で考えた。
ただ二人で指示を受けたあと、「望み通り相川を専任にするんだから、期待してるぞ」と部長が零したときには背筋をたらりと冷たい汗が伝った。乾いた笑みを浮かべながら、頭をフル回転させてごまかしの言葉を探す。けれど横に並ぶ相川の表情をこっそり窺うと、彼女は何も疑問を覚えていないようだった。一切表情を動かさない相川に、喜びと悔しさがない混ぜになったような気持ちを覚える。
ただその時、ふわりと甘い香りが鼻の奥をくすぐった。それが相川から漂う柔らかい香りだと気づいた瞬間、再び自分の胸が鳴った。
入社して五年。やっと相川とがっつり組める。
まさかこっちがずっと「相川を専属にしてくれ」と頼み続けていたことは、できるなら本人には隠しておきたい。そう思っているはずなのに、自分の気持ちも身体も、素直に喜びを表現したくてたまらなかった。
ミーティングルームで現状の報告と、取り急ぎ頼みたい作業を相川に伝える。
二人しかいないから不自然じゃないだろう、と長机の隣同士に座った。
視線が同じ高さになるのは久しぶりだ。資料をめくるたび、揺れる相川の肩が触れそうになる。彼女と隣り合っている自分の左半身だけが、ほのかにあたたかく感じるのは、相川の体温を感じているからだ。
相川は渡した資料に素早くペンでメモを取りながら、早速確認事項を書き出していた。書道でも習っていたのだろうか、という整った文字を眺めていると、矢継ぎ早に質問が飛んでくる。不意に五年前の研修を思い出す。やっぱり話がスムーズだ。
相川がわざとらしく敬語で話しかけてくるところだけは、どうかと思うけれど。
相川の理解力の高さと適切な質問のおかげで、二人でのの打ち合わせはすぐに終わってしまった。部署に戻りながら、やんわりと相川の仕事量を心配したけれど、「まあ。他の業務と並行して大丈夫だと思います」とあっさり返された。
「さっすが。クールビューティは優秀だなあ」
落ちかけた沈黙をごまかすように言葉を零す。けれど、相川の白い眉間にはくっきりと皺が寄った。
「ていうか何、クールビューティって」
まるで初めて聞いたと言わんばかりに不審な目を向けられる。
「え、知らないの? 相川、みんなにそう呼ばれてるの」
「何それ。ブリザードじゃなくて?」
相川の口調が崩れて、じんわりと胸があたたかくなる。けれど本人の口から漏れたあまりに似合わない言葉に、思わず吹き出してしまった。
「なんだよブリザードって。聞いたことねえんだけど」
「うそ」
けれど、相川は本心から言っているようだった。
「え、何本気で言ってる? まあ……他には雪の女王ならぬ氷の女王なら聞いたことあるけど。あーでも、俺的にはどっちかって言うと女王よりプリンセスって感じだけどな~」
このくらい軽く本音を混ぜても許されるだろうか。まれに見せる柔らかい笑みは、俺にはそう見える。惚れた弱みと言われればそれまでだけれど。
けれど一瞬、相川は虚を突かれたように動きを止めた。その表情は変わらない。
背筋が強張った。言い過ぎただろうか。
「別に何でもいいですけど」
いつもの口調でぴしゃりと言った相川は、もうこの会話を続けるつもりはないとばかりに口を閉ざした。
ぐっと胸の奥が詰まる。戻ってしまった距離が、まるで空洞のように広がっていく。
あなたにおすすめの小説
手を伸ばした先にいるのは誰ですか~愛しくて切なくて…憎らしいほど愛してる~【完結】
まぁ
恋愛
ワイン、ホテルの企画業務など大人の仕事、そして大人に切り離せない恋愛と…
「Ninagawa Queen's Hotel」
若きホテル王 蜷川朱鷺
妹 蜷川美鳥
人気美容家 佐井友理奈
「オークワイナリー」
国内ワイナリー最大手創業者一族 柏木龍之介
血縁関係のない兄妹と、その周辺の何角関係…?
華やかな人々が繰り広げる、フィクションです。
鬼上官と、深夜のオフィス
99
恋愛
「このままでは女としての潤いがないまま、生涯を終えてしまうのではないか。」
間もなく30歳となる私は、そんな焦燥感に駆られて婚活アプリを使ってデートの約束を取り付けた。
けれどある日の残業中、アプリを操作しているところを会社の同僚の「鬼上官」こと佐久間君に見られてしまい……?
「婚活アプリで相手を探すくらいだったら、俺を相手にすりゃいい話じゃないですか。」
鬼上官な同僚に翻弄される、深夜のオフィスでの出来事。
※性的な事柄をモチーフとしていますが
その描写は薄いです。
ワケあり上司とヒミツの共有
咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。
でも、社内で有名な津田部長。
ハンサム&クールな出で立ちが、
女子社員のハートを鷲掴みにしている。
接点なんて、何もない。
社内の廊下で、2、3度すれ違った位。
だから、
私が津田部長のヒミツを知ったのは、
偶然。
社内の誰も気が付いていないヒミツを
私は知ってしまった。
「どどど、どうしよう……!!」
私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?
【完結】あなた専属になります―借金OLは副社長の「専属」にされた―
七転び八起き
恋愛
『借金を返済する為に働いていたラウンジに現れたのは、勤務先の副社長だった。
彼から出された取引、それは『専属』になる事だった。』
実家の借金返済のため、昼は会社員、夜はラウンジ嬢として働く優美。
ある夜、一人でグラスを傾ける謎めいた男性客に指名される。
口数は少ないけれど、なぜか心に残る人だった。
「また来る」
そう言い残して去った彼。
しかし翌日、会社に現れたのは、なんと店に来た彼で、勤務先の副社長の河内だった。
「俺専属の嬢になって欲しい」
ラウンジで働いている事を秘密にする代わりに出された取引。
突然の取引提案に戸惑う優美。
しかし借金に追われる現状では、断る選択肢はなかった。
恋愛経験ゼロの優美と、完璧に見えて不器用な副社長。
立場も境遇も違う二人が紡ぐラブストーリー。
【完結】育てた後輩を送り出したらハイスペになって戻ってきました
藤浪保
恋愛
大手IT会社に勤める早苗は会社の歓迎会でかつての後輩の桜木と再会した。酔っ払った桜木を家に送った早苗は押し倒され、キスに翻弄されてそのまま関係を持ってしまう。
次の朝目覚めた早苗は前夜の記憶をなくし、関係を持った事しか覚えていなかった。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
不埒な一級建築士と一夜を過ごしたら、溺愛が待っていました
入海月子
恋愛
有本瑞希
仕事に燃える設計士 27歳
×
黒瀬諒
飄々として軽い一級建築士 35歳
女たらしと嫌厭していた黒瀬と一緒に働くことになった瑞希。
彼の言動は軽いけど、腕は確かで、真摯な仕事ぶりに惹かれていく。
ある日、同僚のミスが発覚して――。