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1章・ブリズベン
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それはあまりに衝撃的な光景だった。地面がふくれあがった様に見えたのは目の錯覚で、さらに目を疑うような映像が目の前で展開されていく。
地面に見えたものは――礼一の認識違いでなければ――一般的にイルカと呼ばれる、海に棲息するはずの生き物の頭部だった。しかもそれは半透明で、うっすら光を帯びている。イルカはほ乳類だと学んだ記憶があるのだが、オーストラリアのイルカは地面から生えるものなのだろうか。
そんなことが頭をよぎるのは、パニックを起こしているからではなく、笑えるほどに目の前の光景が現実離れしているからだろう。イルカ以外のすべてが日常の一場面であるというのもまたあまりにシュールで、映画やドラマをみているかのように、脳が目の前の状況を現実だと認識しない。
そうしている間にもイルカはゆっくりと地面から浮き上がり、完全に姿を現した。そして、伸びをするように、尾びれを一振りさせる。――そばに植わった小振りな木をなぎ倒しながら。
とっさに体が動いたのは、現実感のなさが幸いしたのかもしれない。礼一は自分でも驚くほどの素早さで目の前で立ちすくむターニャに追いつくと、突き飛ばすように彼女の体を抱え込み、地面に転がった。その上を、つい先ほどまで地面に植わっていた木が吹っ飛んでいき、彼らの斜め上の天井に衝突する。飛び散る破片に備えて、ぎゅっと身を固くしたが何もないので、そっと目を開けると、彼らをかばうようにしてクリスが目の前に立ちふさがっているのが見えた。穏やかに微笑みかけられ、礼一はほっと肩の力を抜く。
「やっぱりあなた、素敵だわ。ヘテロセクシャルに転向しない?」
腕の中から聞こえてきた声に、礼一は飛び上がった。
「失礼しました......!」
「何言ってんのよ。むしろありがとう。本当に。」そう言って、ターニャは先程までとはどこか印象の異なる笑みを浮かべた。今、まさに目の前で起こったことに対して、全く動揺した様子はない。
そんな彼女の様子に戸惑っていると、トットッとスニーカーが床を叩く軽い音が響いてきたのでエントランスを再び見下ろしてみると、先ほどの衝撃音を聞きつけたのだろう。いつの間にか東アジア系の青年が、エントランスに出てきてパティオを覗き込んでいた。
「こりゃまた、派手なことになってんな。ダニエルが切れるぞ」
ひょうひょうとした声に、ターニャの眉がきっとつり上がった。
「あんた、また家でゲームしてたの?こんな天気のいい日に、不健全だわ。」
「だまれよ、休日をどう使おうが勝手だろうが。」言いながらめんどうくさそうに顔を上げた。そして礼一と目が合った瞬間、苦虫をかみつぶしたようなしかめ面が、怪訝そうな表情に変わる。荒っぽい雰囲気がなりを潜めると、意外なほど怜悧な顔立ちだということが分かった。鋭い三白眼が、心持ち細められる。「......あんたは誰だ?」
「彼は部屋を見学にきたレーイチよ。わたしを助けてくれたの。」
「吹っ飛んだ植木から?そいつはすごいな。」
「武道をマスターしているらしいからね、彼。」
なぜか自慢げなターニャの言葉に、礼一は慌てた。
「マスターなんてとんでもない!かじった程度です。」
「かじった程度であの動きなわけ?」驚いて振り返るターニャに、「あれはたまたま......。」と言いかけた所で、めんどうくさそうな表情に戻った青年が声をかける。
「よー、そいつ日本人だろ。日本人の言うことなんて真に受けるなよ」そして礼一に視線を移してから尋ねた「その武道ってやつを、あんた何年やってるんだ。」
「......いえ、稽古を休んでいた期間もあるので何年とは。」
「何年だ?」
「......10年です。」
10年、とクリスが驚きの声を上げる。
「ほらな、日本人は謙遜しないと会話が成り立たない民族なんだぜ」エントランスにいる青年が訳知り顔でせせら笑ってから続けた。「で、そいつは合格なのかい。」
「いや、それなんだが......。」クリスがそう言って、礼一に向きなおる「レーイチ、君、植木が吹っ飛ぶ前からパティオを凝視していたけれど、それはなぜかな?」
なぜ?なぜだって?そんなの決まっている。イルカの頭が地面から生えてきたからだ。
そんなことになったら、誰だって目が離せないはずで――。
英語に直そうとしたその言葉のあまりの馬鹿馬鹿しさに、礼一は開きかけた口をつぐんだ。もう疲労困憊だ。早くホテルに帰って寝てしまおう。
「ちょっと見間違いをしたみたいなんです。」そう言いかけた瞬間、後頭部をとんとんっと優しくつつかれて振り返った。見間違いをしたはずのものが、つぶらな瞳で礼一を覗き込んでいて、なんだかもう、頭痛さえ覚える。
そんな礼一の様子を見守っていたクリスが、ためらいがちに口を開いた。「レーイチ、君さ。」少し息を吐いて、様子をうかがうように尋ねた「見えているよね?」
礼一は、ぎこちなく顔の向きをクリスに戻した。そして、ターニャとパティオのそばの青年の様子をそっと伺う。
彼らは誰一人として、礼一のまわりを泳ぎ回るイルカに視線を向けていない。ものすごく嫌な予感がしたので、礼一は努めて無表情に、平静を装った声で問い返した。
「見えるって、何のことです?」
「例えば――。」
言いかけたクリスの言葉を引き取って、ターニャが肩をすくめて言った。
「あなたの回りを飛び回っている何か、とかね」
地面に見えたものは――礼一の認識違いでなければ――一般的にイルカと呼ばれる、海に棲息するはずの生き物の頭部だった。しかもそれは半透明で、うっすら光を帯びている。イルカはほ乳類だと学んだ記憶があるのだが、オーストラリアのイルカは地面から生えるものなのだろうか。
そんなことが頭をよぎるのは、パニックを起こしているからではなく、笑えるほどに目の前の光景が現実離れしているからだろう。イルカ以外のすべてが日常の一場面であるというのもまたあまりにシュールで、映画やドラマをみているかのように、脳が目の前の状況を現実だと認識しない。
そうしている間にもイルカはゆっくりと地面から浮き上がり、完全に姿を現した。そして、伸びをするように、尾びれを一振りさせる。――そばに植わった小振りな木をなぎ倒しながら。
とっさに体が動いたのは、現実感のなさが幸いしたのかもしれない。礼一は自分でも驚くほどの素早さで目の前で立ちすくむターニャに追いつくと、突き飛ばすように彼女の体を抱え込み、地面に転がった。その上を、つい先ほどまで地面に植わっていた木が吹っ飛んでいき、彼らの斜め上の天井に衝突する。飛び散る破片に備えて、ぎゅっと身を固くしたが何もないので、そっと目を開けると、彼らをかばうようにしてクリスが目の前に立ちふさがっているのが見えた。穏やかに微笑みかけられ、礼一はほっと肩の力を抜く。
「やっぱりあなた、素敵だわ。ヘテロセクシャルに転向しない?」
腕の中から聞こえてきた声に、礼一は飛び上がった。
「失礼しました......!」
「何言ってんのよ。むしろありがとう。本当に。」そう言って、ターニャは先程までとはどこか印象の異なる笑みを浮かべた。今、まさに目の前で起こったことに対して、全く動揺した様子はない。
そんな彼女の様子に戸惑っていると、トットッとスニーカーが床を叩く軽い音が響いてきたのでエントランスを再び見下ろしてみると、先ほどの衝撃音を聞きつけたのだろう。いつの間にか東アジア系の青年が、エントランスに出てきてパティオを覗き込んでいた。
「こりゃまた、派手なことになってんな。ダニエルが切れるぞ」
ひょうひょうとした声に、ターニャの眉がきっとつり上がった。
「あんた、また家でゲームしてたの?こんな天気のいい日に、不健全だわ。」
「だまれよ、休日をどう使おうが勝手だろうが。」言いながらめんどうくさそうに顔を上げた。そして礼一と目が合った瞬間、苦虫をかみつぶしたようなしかめ面が、怪訝そうな表情に変わる。荒っぽい雰囲気がなりを潜めると、意外なほど怜悧な顔立ちだということが分かった。鋭い三白眼が、心持ち細められる。「......あんたは誰だ?」
「彼は部屋を見学にきたレーイチよ。わたしを助けてくれたの。」
「吹っ飛んだ植木から?そいつはすごいな。」
「武道をマスターしているらしいからね、彼。」
なぜか自慢げなターニャの言葉に、礼一は慌てた。
「マスターなんてとんでもない!かじった程度です。」
「かじった程度であの動きなわけ?」驚いて振り返るターニャに、「あれはたまたま......。」と言いかけた所で、めんどうくさそうな表情に戻った青年が声をかける。
「よー、そいつ日本人だろ。日本人の言うことなんて真に受けるなよ」そして礼一に視線を移してから尋ねた「その武道ってやつを、あんた何年やってるんだ。」
「......いえ、稽古を休んでいた期間もあるので何年とは。」
「何年だ?」
「......10年です。」
10年、とクリスが驚きの声を上げる。
「ほらな、日本人は謙遜しないと会話が成り立たない民族なんだぜ」エントランスにいる青年が訳知り顔でせせら笑ってから続けた。「で、そいつは合格なのかい。」
「いや、それなんだが......。」クリスがそう言って、礼一に向きなおる「レーイチ、君、植木が吹っ飛ぶ前からパティオを凝視していたけれど、それはなぜかな?」
なぜ?なぜだって?そんなの決まっている。イルカの頭が地面から生えてきたからだ。
そんなことになったら、誰だって目が離せないはずで――。
英語に直そうとしたその言葉のあまりの馬鹿馬鹿しさに、礼一は開きかけた口をつぐんだ。もう疲労困憊だ。早くホテルに帰って寝てしまおう。
「ちょっと見間違いをしたみたいなんです。」そう言いかけた瞬間、後頭部をとんとんっと優しくつつかれて振り返った。見間違いをしたはずのものが、つぶらな瞳で礼一を覗き込んでいて、なんだかもう、頭痛さえ覚える。
そんな礼一の様子を見守っていたクリスが、ためらいがちに口を開いた。「レーイチ、君さ。」少し息を吐いて、様子をうかがうように尋ねた「見えているよね?」
礼一は、ぎこちなく顔の向きをクリスに戻した。そして、ターニャとパティオのそばの青年の様子をそっと伺う。
彼らは誰一人として、礼一のまわりを泳ぎ回るイルカに視線を向けていない。ものすごく嫌な予感がしたので、礼一は努めて無表情に、平静を装った声で問い返した。
「見えるって、何のことです?」
「例えば――。」
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