リオネル・デュランの献身

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 廊下に充満する煙の間を縫って、ブランは国王の居室がある区画へ向かい、柱の陰に身を隠した。
 夕刻を選んだのは使用人たちが忙しく、仕掛けがしやすい時間帯を狙ってのことだ。ボヤで収まるように加減せよと指示は出したが、万が一煙に巻かれた時のため、手元にはあらかじめ水を含ませた手巾を用意してある。
「もう誰もおられませんか!? おられたら返事をしてください!」
 侍女たちが方々へ呼びかけながら、ばたばたと退避して行った。
「リオネル様、こちらへ。お急ぎください…」
 ひそめた声で近衛騎士が声を掛けながら、人目を避けるように長衣の人物を誘導してゆく。頭から布を掛け顔を覆ってはいるが、腰まである美しい銀髪は隠しきれない。
 侍女に支えられた後ろ姿が廊下を曲がって消えるのを見届けると、ブランは国王の居室へと向かった。

 静まり返った応接室を抜けて、寝台のある部屋へと進む。
 執務机の上には何部かの書類が置かれていたが、目当てのものではない。抽斗も開けてみるが、それらしきものはない。
(無駄足だったか…?)
 舌打ちしながら隣室へと続く扉を開ける。
 壁一面に書物が詰められ、急拵えらしき棚にも綴られた書類がぎっしり立てられている。事務仕事嫌いのアルベールには似合わない書斎だ。明らかに他の人物の手が入っている。
(この中に隠されたら探しようがないぞ)
 焦って目の前にある綴りのひとつに手を伸ばそうとしたその時、背後から絨毯を踏む軽い足音がした。
「伯父上、残念ながら草稿はここにはないですよ。見たいなら僕の部屋に」

 振り向いたブランの目に飛び込んできたのは、耳の下で銀髪を切りそろえた甥っ子の姿だった。簡素な上衣と胴着に地味な脚衣姿で、にっこり微笑んでいる。
「リオネル…」
 まるで人買いに売り渡したあの日の少年が、そのまま大きくなったようだ。
 心臓が大きく跳ね、口の中がカラカラに乾く。窓から差し込む黄昏の陽光が、恐ろしく整った容姿に影を作り、この世のものとは思えないほど美しい。
(まさか、先日会ったリオネルは…?)
 いや、幻だったはずがない。不味い茶の味が口の中に残っている。いやしかし、目の前で不敵に笑うのは、あの儚げな男娼然とした甥とはまるで別人だ。
 ブランはぞっとして後ずさり、絨毯に足を取られて尻もちをつく。そのまま這いつくばるように逃れた。
「そんな、化け物でも見たように怯えないで下さい」
 呆れた調子でつかつかと大股で歩み寄り、リオネルはブランを見下ろす。腰に手を当て、首を傾げながら片眉を上げる。
「ディオレア軍再編案について、色んな噂を耳にされたでしょう? 伯父上は気が小さいので、公開されるまでにきっと、焦って確かめたくなると思いました。確かめた上で不利な内容なら、あらかじめ何か手を打つおつもりだったのでは?」
 銀色の瞳にひたと見据えられて、ブランの息が上がる。こんなのは全てがおかしい。先ほどの火事騒ぎで追い出したはずのリオネルが、ここにいるはずがない。

 ばん、と勢いよく扉の開く音がする。
「伯父上、本当に火を点けさせたら洒落にならない。俺が指導したから未遂で済んだが、下手をしたら死人が出てるぞ」
 応接室の方からよく通る低い声がして、アルベールがのんきな調子で顔を出した。
「陛下…」
 視察に出かけたはずだ。今朝自ら見送ったのだ。
 ブランは冷たい汗をかきながら蒼白になる。とびきり悪い夢を見ているようだ。
「懐かしいだろう、伯父上」とアルベールが笑う。
「すっかりお忘れになりましたか? ボヤ騒ぎを起こしてこの一角を空にするのは、僕と陛下が子供の頃にやった可愛い悪戯ですよ」
 困ったようにリオネルから指摘されて、ブランは懸命に記憶をたどる。
(そういえば…)
 アルベールがそりの合わない教師の授業を受けたくないとか、そんなくだらない理由でボヤ騒ぎを起こしたことが、確かにあった。実際は、使っていない倉庫で生木を焚いた煙を引き込んだだけで、火事とは呼べないものだったが、場所が王宮なだけに大騒ぎになった。
 ブランは呆然と二人を見上げる。
「……忘れていたよ。そうか、情けないな……。自分で思いついたつもりで私は、お前たちの悪戯を模倣しただけだったのか…」
 震える声で呟いて、言葉にならない呻きを発した。全部リオネルの掌の上だ。

 リオネルはブランの前にしゃがみ込み、血の気のない顔を覗き込む。
「あの時伯父上は、僕を叱ってくれたんですよ。“そのよく回る頭は、くだらない悪知恵ではなくディオレア王国のために使え”って。忘れかけてましたけど、今になってすごく身に沁みます」
 そう言われても、ブランには覚えがなかった。
 入口の方が騒がしくなって、近衛や侍従が戻って来た。何事もなかったかのように部屋の明かりがともされる。
 リオネルの長衣をまとっているのは、女にしては背の高いあのそばかすの侍女だった。長い銀髪を括りつけた頭巾を外すと、短く刈った金髪がこぼれる
「途中で攫われそうになったので、やっつけておきましたよ!」と朗らかに笑った。
 リオネルを始末しようとしたことまで、全て明らかになった。ブランは両手で顔を覆って、深く俯いた。痩せた体を小さく丸める。
「リオネル、私の負けだ。……陛下、申し訳ありませんでした」

 ブランはアルベールが近衛騎士に捕縛を命じるのをじっと待ったが、声はかからなかった。
「勝ち負けじゃないですよ、伯父上。ディオレアの繁栄を願っているのは、僕も伯父上も同じなんですから」
 世間話をするような軽い調子で語るリオネルに、瞬間的に怒りが込み上げる。
「なぜ戻ってきたんだ! あのまま死んだことにしておけば、放っておいてやったのに!  俺になり代わるつもりか? 国政などお前なら簡単だとでも言いたいのか? お前に俺の苦労は分からん。命からがら亡命して、国が復興すれば今度は周りの機嫌を取っておべっかを使い…。ただ男に買われて飯を食っていたお前なんかに、王国の重みが分かってたまるか!」
 怒鳴られたリオネルは、ほんの少しだけ驚いた顔をした後、不機嫌そうに顔をしかめた。
「他人の機嫌を取って生きて来たのは、僕だって同じですよ。…僕は別に国政に介入したくて戻ってきたわけじゃありません。爵位に興味もありません。伯父上はこれからも、貴族連中のご機嫌取りに走り回って下さい」
「くだらんな。私が負けたからには、リヴィエール家の領地も財も好きにしろ」
「だから、いりませんって」
「私は、お前を殺そうとしたんだぞ」
 噛み合わない会話にリオネルはうんざりする。昔から伯父とは気が合わないのだ。青ざめた顔で睨みつけてくるブランに、苦笑するしかない。

「伯父上の気が小さいのは改めてよくわかりました。確か、ディオレアに戻られてから再婚して、お子さんが生まれたんですよね? 僕が伯父上を排斥するようなことはないので、安心してください。その子が大きくなるまで、まだまだ頑張ってもらわないと」
 憮然とした顔のブランが動揺を隠しきれずに身じろぎする。できるなら小さい従弟にはリオネルも会ってみたい。
「僕は身勝手にも早々に戦線離脱してしまいましたが、伯父上はちゃんと陛下を守り支えて、ディオレアを復興まで導かれました。心から感謝しております。それで帳消しです」
 きっぱり言い切って、リオネルは立ち上がった。
 フロイエがアルベールに近づき、「不問にしてよろしいんですか?」と耳打ちする。
「リオを襲わせた件については、一応の取り調べを受けてもらう。ボヤ騒ぎは演習の失敗かなにかにして、適当に収めておいてくれ」
「かしこまりました」
 頷いたフロイエの目配せで、近衛が速やかにブランを連行する。
 窓の外はいつの間にか陽が落ちて、すっかり夜の闇に染まっている。アルベールの部屋にはいつもの顔ぶれだけが残った。

「エルダ、ご苦労さま。危険な身代わりをさせてしまってごめん」
「任せて下さい! この服ではちょっと動きにくかったですが、全員捕らえました」
 リオネルが労うと、エルダは衣装の袖を元気よく捲って得意げに腕を組む。武器など何も持たなくても問題ないらしい。変装が上手くいって良かった。
「…んひっ!」
 突然うなじを撫でられて、リオネルがおかしな声を上げながら飛び上がる。
「っ…何するんですか!」
 振り返って睨むと、案の定アルベールが手を伸ばしていた。
「いや、リオは知らないだろうけど、ここにほくろがあるんだ。髪を切ったら見えるようになった。小さい頃背負ってもらうと、丁度この辺に目線が来て…懐かしいな」
と言って生え際のあたりをつつく。
「…ああ、前にすごく噛まれたのはここでしたっけ…」
 リオネルは生え際を手で隠しながら、人前に出られないくらい跡を付けられた、最初の夜を思い出して狼狽える。うなじの噛み跡は、一番最後まで痛みが引かなかった。

「そういえば陛下、申し訳ありませんでした。勝手に髪を切ってしまって」
 エルダに身代わりを務めてもらうため、腰まであった銀髪を切り落としてしまった。もうアルベールは“旦那様”ではないけれど、一応謝っておく。
「なぜ謝るんだ? 短いのもよく似合う」
「はぁ…そうですか。ありがとうございます…」
 叱られるどころか褒められて、どう返してよいか戸惑う。
 アルベールはリオネルをしばらく見つめたかと思うと、ぐいと体を寄せ、短くなった銀髪をひと房掬い取って口づけた。
「でも、できればまた伸ばしてほしい。髪が伸びていくところをそばで見たい」
 懇願するように囁かれ、リオネルは頬を染めて固まった。
「そういうことを、照れずに言えるのが陛下ですよね」と、ニヤニヤ笑いながらフロイエが茶化す。身の置き所がない。
 アルベールは何のことだと言わんばかりに、不思議そうな顔をした。


 ボヤ騒ぎで混乱している厨房から簡単な食事を届けてもらい、煙の臭いが付いた体を湯で流した。フロイエやエルダが挨拶を残して、部屋を去ってゆく。
 しん、と部屋が静まり返って、リオネルはアルベールと二人きりであることに気付いた。正確に言うと、二人きりなのにもうやるべき仕事がないことに気が付いて、焦った。
(草案も書き上げてしまったし、伯父上の件もとりあえず片付いてしまった…)
 お互いに寝間着姿で、黙って茶器を手にしている。
(…やっぱり、出て行くのが正しいんだろうなあ…)
 アルベールが自分に執着していることは理解している。しかし、リオネルの存在がディオレア王国繁栄の足を引っ張っては元も子もない。

 ぼんやりと考え込むリオネルに、アルベールが茶器を置いて「眠いか?」と問うた。リオネルが微笑して「少しだけ」と答えると、茶器を取り上げられて手を引かれる。
「どうしたんですか?」
「一緒に寝よう」
 真っすぐに見つめられて、とっさに拒めない。
 口を開く間もなく引き寄せられ、荷物のようにひょいと肩に担がれてしまった。
「陛下っ、何するんですか!」
 高さにくらりと眩暈がする。
「暴れたら落ちるぞ」
「わ、危なっ…」
 アルベールは担ぎ上げたリオネルを運んで、そのまま放り投げるようにして一緒に寝台へ飛び込んだ。

 顔を見合わせた二人のまなざしが交差した。
 ふ、と笑い合った途端、二匹の子犬のようにじゃれて抱き合い、くすぐり合いながら転がる。寝台の上がくぐもった笑い声に満ちる。
 遊び足りなくて中々眠らないアルベールに、リオネルはいつも手を焼いていた。リオネルが怒って小姓部屋に閉じこもる時以外は、こうやってじゃれ合いながら一緒に眠ったものだ。
「陛下、もう! わっ、重いですって」
「あはは、ごめん。退くから」
 ごろりと転がったアルベールが、リオネルと並んで横になる。二人とも息が上がっている。笑い過ぎて脇腹が痛い。
 寝台で相対する時はずっと視界を遮られていたリオネルにとって、大人になったアルベールを間近でちゃんと見るのは初めてだ。
 吐息が感じられそうな距離で向き合うと、腕を伸ばして濃紺の髪を梳く。額を、目じりをそっと撫でて、頬に手を当てる。
「大きくなられましたね」
 感慨を込めて、ぽつりと呟く。
 自分の何を犠牲にしてでも守りたかった小さな主が、こうして立派に成長してくれた。それだけで充分報われたと思う。これ以上の贅沢は願わない方が賢明だ。
「明日にでも、お暇を頂戴します。いつまでもここに居る訳にもいきませんから」
 リオネルは自分に言い聞かせるように告げる。
「陛下のお側に侍るのに、僕はふさわしくありません。フロイエもエルダもいて、文官たちも優秀です。政治向きの人材はそのうちどんどん育ちます。それに……」
 そこまで言って、リオネルは息を整えた。
 覚悟していたはずなのに、口に出そうと思うとひどく切ない。娼館で、そしてあの屋敷で、アルベールに抱かれた記憶がよみがえる。戸惑うこともあったけれど、今となっては全ての夜が愛おしい。
「……一緒に寝るなら、清らかな女の子がいいと思いますよ」
 口角を上げ、精一杯笑って、名残惜しく頬を撫でた。

 せっかくリオネルが明るい調子で言ったのに、アルベールの顔から笑みが消えた。頬に添えられた手を取って、強く握る。
「どうしてふさわしくないと思うんだ?」
 リオネルは涙をこらえるのに必死になった。詰め寄られて、胸が痛む。震えているのを見られたくなくて、ふいとそっぽを向く。
「わざわざ聞かないで下さい」
「わからないから聞いてる」
「……僕がっ、男娼やってたからに決まってるでしょう!」
 リオネルは意地の悪いアルベールの問いに苛立ち、声を荒げて睨む。
「伯父上の言う通りですよ。僕は毎日客に抱かれて、それで飯を食ってたんです。そんな人間が、ディオレア国王陛下にお仕えしていい訳がない。まして閨に侍るなんて、御身を汚します」
 リオネルは苦い顔で自嘲の笑みを浮かべる。
「こんな形で陛下にご迷惑をお掛けするくらいなら、あの時本当に死んでいた方がましだったかもしれません…」

「そんな言い方しないでくれ」
 静かに遮ったアルベールが、きつく握った手を引いた。真摯なまなざしが間近に迫って、リオネルは息を詰める。
「リオが身を売ったのは、俺を助けるためだろう? 卑下するな。誇っていい。リオはリオの戦場を戦い抜いて、生き残った。どこも汚れてなんかいない」
 アルベールは身を起こして、リオネルに伸し掛かった。四肢の間に細い体を閉じ込める。
 短くなった銀髪が寝具に散らばって、さらりと微かな音を立てた。ぐいと顔を近づけ、揺れる銀の瞳を強いまなざしで見据える。
「そばにいてほしい」
 体温の高い手でリオネルの額を優しく撫でて、両頬を包む。小さな顔は大きな手にすっぽりと覆われてしまう。
 アルベールは懇願した。
「もう二度と、俺からリオを取り上げないでくれ」

 涙をいっぱいに溜めた銀の瞳にぐっと力がこもると、眦から零れ落ちたしずくがアルベールの指を濡らす。涙は絶え間なく湧き上がって止まらない。
 リオネルは器用に泣きながら笑った。
 リオネルとてアルベールへの想いを取り上げられたら、きっと正気ではいられなかった。
 アルベールのためにこの身を捧げたという誇りさえあれば、どんな理不尽で意に添わぬ出来事でも受け入れられた。
 挙兵の噂に動揺し、勝利の報に歓喜し、姿絵を抱いて眠れない夜を乗り切った。なんとか前を向いて生きて来られたのは、アルベールの存在があったからだ。

 泣き笑いのまま諦めたように熱いため息を吐いて、リオネルは何度も小さく頷く。
 頬に添えられた手に両手を重ねる。
「……仰せのままに」
 リオネルは銀の瞳を閉じて、落とされる唇を迎え入れた。
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