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婚約破棄の噂に、夜、公爵家の侍女が忍び込んできた話。
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(ん……?)
何をしているんだ?
部屋に入るなり、ただならぬ緊張感をまといながら立つ人影を見て、ジェラルドは首を傾げた。
今日も王太子としての激務を終え、ようやく自室に帰り着いたばかり。
やっとの自由時間であり、誰も待たせてはいなかったはずだが……。
部屋にたたずむ侍女は、公爵家のお仕着せを着ていた。
入室したジェラルドを認めると、優雅にスカートをつまみ膝を屈める。
「そなたはイザベラ……」
「はい。イザベラ様の侍女サーラです」
「…………」
王子の言葉を遮るかのような返答に、ジェラルドが微かに眉をひそめる。
「こんな夜更けに私の部屋で何をしている?」
「どうしてもお尋ねしたいことがあり、王太子殿下をお待ち申し上げておりました」
「尋ねたいこと?」
ジェラルドの聞き返えしを、先を促す了承と受け取って、相手が言葉を続ける。
「殿下が、イザベラ様との婚約を破棄なさるとの噂が流れております。男爵家の養女、エミリ嬢を王太子妃として据えられると」
「ああ、そのことか」
「何故でございましょう? イザベラ様は幼い頃より殿下に相応しくあろうと様々な努力をされて参りました。
貴族社会の型にはまらない、奔放なエミリ嬢に惹かれるのはわからなくもありません。
ですが、何も正妃でなくとも良いではありませんか。
イザベラ様は大変お心を痛めており、非礼を承知で、殿下の真意をお伺いしたく参りました」
「侍女の身で、それを尋ねても良いと?」
「……覚悟は出来ております」
俯いた相手の真剣な空気が、ジェラルドに届く。
(イザベラもまた、ずいぶんと思い詰めたものだ)
彼はため息をひとつ落とすと、柔らかな声で応じた。
「案じることはない。その件は、単なる噂だ」
「えっ……?」
「私の醜聞を狙い、あわよくば廃太子となることを望む、リベルト派の貴族たちが騒ぎ立てているだけのこと」
あっさりと第二王子リベルトの名を出し、「野心家のエミリ嬢は、彼らの思惑通りに踊るからな」とつけ加えたジェラルドの返事は、サーラと名乗る女性にとって意外なものだったらしい。
「で、でも……。では、殿下が故意の噂を放置されているのは何故です?」
「そのほうが都合が良い。この機にエミリ嬢を煽る貴族を探り、リベルト側の陣営を把握しておきたい。政治的な思惑はあっても、イザベラが危惧するようなことは何一つないよ」
「――そのようなこと、一介の侍女に打ち明けられて、大丈夫なのですか?」
「一介の侍女には過ぎる内容だが、未来の妻に話す分には問題ない」
「!!」
「女性は化粧で変わるというけれど、見事に化けたな? 野暮な田舎娘そのものだ。見た目だけは」
だが、あれほど完璧なカーテシー、貴族の淑女たちにもそうそう出来る礼ではない。
箱入りのせいか、イザベラは時々抜けている。
「……いつからお気づきだったのですか?」
「部屋に入り、ひとめ影を見たその時から。私があなたをわからないわけがない」
なにせ、子どもの頃からのつきあい。
そのウェストが細くくびれてきた時は、折れはしないかと本気で案じた。
ついでに言うと、イザベラの侍女は把握してるし、不揃いな三つ編みを看過するほど、公爵家の侍女頭は温くない。王太子たる自分にまで、厳しい目を向けてくるような女傑だ。
とはいえ。
「私のもとに侍女と偽って忍んで来るなど、そんなにもあなたを追い詰めていたのかと思うと、己の不甲斐なさに恥じ入るばかりだな」
焦燥した態で自分を責めてみせると、イザベラの気配が揺らいだ。
あと一押し。
「さあ、不問にするから、隠し持っているものを出しなさい」
イザベラが仕込んだ何かを、自ら出させなくては。
彼女が何かを持ち込んだことは、挙措からすぐに察した。
大方、短剣といったところだろうか。刃傷沙汰となると取り返しがつかなくなる。賢明な女性なのに、ここまで思い詰めていたなんて、味方ごと欺きすぎたか。
「殿下……」
観念したらしい彼女が、おずと差し出す品を見て、ジェラルドの呼吸は一瞬とまった。
(なんだ、これ)
サーラことイザベラ・デイ・ロワノアが差し出したのは、ジェラルドの予想を大きく逸脱するものだった。
明るい色のリボンで結ばれた、可愛い包み。
手のひらに載る大きさのそれは、取り出されたことで甘い匂いを漂わせている。
「これは……」
「わたくしが作りましたクッキーでございます」
「あなたが?」
恥ずかしそうに頷くイザベラに、ジェラルドの視界は明滅した。
どこで何がどうなって、そういうことになったんだ?
経緯がわからず混乱のままに問うと、"平民出のエミリがジェラルドの好みなら、平民の間で流行っている習慣を真似てみよう"。そうイザベラは考えたらしい。
料理で男性の胃袋を掴む、伝統的、絶対手法。
ザ・手作りクッキー。
初心者が挑む、最初のレシピだ。
(……毒じゃないよな?)
包みを開かれたソレは、ジェラルドの知識では、クッキーというより"炭"と呼ばれる物質に限りなく近い。
(まさかこれ、いま食べないとダメな流れだろうか)
空気を読むことにかけては、幼いころから鍛錬を重ねている。
「後でいただこう」、その一言で切り抜けられるはずの場面であるのに、頬染めたイザベラの精一杯が、空気抵抗無しに伝わってくる。耳め。心音まで拾わなくていい。
短剣以上に命の危機を感じるのは、気のせいだろうか。
固まってしまったジェラルドを、イザベラが不安そうに見上げた。
儚げな上目遣いが、男心をくすぐる。
(くッ、死ぬしか!)
「美味しそうだ」
意思とは真逆の感想を述べ、ジェラルドは手を伸ばした。
(うん、見た目を裏切らない味)
舌刺す苦さが、涙を誘う。
「いかがでしょうか?」
「よくできている。あなたの思いが込められているようだ」
(この浮気男め、と罵りながら作ったかもしれんな)
にこりと安心したように微笑むイザベラは、ほころぶ花のように愛らしい。
思わずもっと喜ばせたくなる。
「この熊など特に素晴らしい。焼き色まで熊の毛色そのものだ」
「それは……、殿下の愛馬トルネーゼを模したものでして……」
「なに?」
感情を抑えることにかけては一級であるはずのジェラルドが、思わず声をあげた。
(馬? これが? それ以前にトルネーゼは黒馬ではない。雪原のような白毛の……)
バクバクと高鳴る心臓を押さえつけ、ひとつ咳ばらいをすると、平然と訂正につとめる。
「言い間違えた。熊のように雄々しい立派な馬だと、そう言いたかった」
「まあ……」
(ホッ。というか、いやいや。自分でも馬に見えないことくらいわかってるだろうに)
彼女の真意はどこだ?
「こんなに喜んでいただけるとは、思っておりませんでした。勇気を出して良かったです。ぜひまた作ってまいります」
新手の脅しか!
(エミリの件は早々に片付けよう、そうしよう)
リベルト派のあぶり出しは、別の方法を練った方がよさそうだ。
仕返しと色仕掛けを絶妙に混ぜてくるとは、だから幼馴染は侮れない。
しかも化粧で加えたそばかすさえチャームポイントに思えるほど、可愛い。なんてタチが悪い。
「イザベラ、適材適所という言葉がある。クッキーは料理人に任せ、あなたはあなたのあるべき場所で輝いていて欲しい。私の妃として、ずっと私の隣に」
「ジェラルド殿下……」
その後、王太子はエミリと距離を置き、彼の新しい恋人は公爵家の冴えない侍女という噂が立った。はからずもその娘に接触した貴族たちが、王太子に報告されることになるが。
それが誰の謀略であったのか、王太子も公爵令嬢も微笑むだけだけで語ることはなかった。
何をしているんだ?
部屋に入るなり、ただならぬ緊張感をまといながら立つ人影を見て、ジェラルドは首を傾げた。
今日も王太子としての激務を終え、ようやく自室に帰り着いたばかり。
やっとの自由時間であり、誰も待たせてはいなかったはずだが……。
部屋にたたずむ侍女は、公爵家のお仕着せを着ていた。
入室したジェラルドを認めると、優雅にスカートをつまみ膝を屈める。
「そなたはイザベラ……」
「はい。イザベラ様の侍女サーラです」
「…………」
王子の言葉を遮るかのような返答に、ジェラルドが微かに眉をひそめる。
「こんな夜更けに私の部屋で何をしている?」
「どうしてもお尋ねしたいことがあり、王太子殿下をお待ち申し上げておりました」
「尋ねたいこと?」
ジェラルドの聞き返えしを、先を促す了承と受け取って、相手が言葉を続ける。
「殿下が、イザベラ様との婚約を破棄なさるとの噂が流れております。男爵家の養女、エミリ嬢を王太子妃として据えられると」
「ああ、そのことか」
「何故でございましょう? イザベラ様は幼い頃より殿下に相応しくあろうと様々な努力をされて参りました。
貴族社会の型にはまらない、奔放なエミリ嬢に惹かれるのはわからなくもありません。
ですが、何も正妃でなくとも良いではありませんか。
イザベラ様は大変お心を痛めており、非礼を承知で、殿下の真意をお伺いしたく参りました」
「侍女の身で、それを尋ねても良いと?」
「……覚悟は出来ております」
俯いた相手の真剣な空気が、ジェラルドに届く。
(イザベラもまた、ずいぶんと思い詰めたものだ)
彼はため息をひとつ落とすと、柔らかな声で応じた。
「案じることはない。その件は、単なる噂だ」
「えっ……?」
「私の醜聞を狙い、あわよくば廃太子となることを望む、リベルト派の貴族たちが騒ぎ立てているだけのこと」
あっさりと第二王子リベルトの名を出し、「野心家のエミリ嬢は、彼らの思惑通りに踊るからな」とつけ加えたジェラルドの返事は、サーラと名乗る女性にとって意外なものだったらしい。
「で、でも……。では、殿下が故意の噂を放置されているのは何故です?」
「そのほうが都合が良い。この機にエミリ嬢を煽る貴族を探り、リベルト側の陣営を把握しておきたい。政治的な思惑はあっても、イザベラが危惧するようなことは何一つないよ」
「――そのようなこと、一介の侍女に打ち明けられて、大丈夫なのですか?」
「一介の侍女には過ぎる内容だが、未来の妻に話す分には問題ない」
「!!」
「女性は化粧で変わるというけれど、見事に化けたな? 野暮な田舎娘そのものだ。見た目だけは」
だが、あれほど完璧なカーテシー、貴族の淑女たちにもそうそう出来る礼ではない。
箱入りのせいか、イザベラは時々抜けている。
「……いつからお気づきだったのですか?」
「部屋に入り、ひとめ影を見たその時から。私があなたをわからないわけがない」
なにせ、子どもの頃からのつきあい。
そのウェストが細くくびれてきた時は、折れはしないかと本気で案じた。
ついでに言うと、イザベラの侍女は把握してるし、不揃いな三つ編みを看過するほど、公爵家の侍女頭は温くない。王太子たる自分にまで、厳しい目を向けてくるような女傑だ。
とはいえ。
「私のもとに侍女と偽って忍んで来るなど、そんなにもあなたを追い詰めていたのかと思うと、己の不甲斐なさに恥じ入るばかりだな」
焦燥した態で自分を責めてみせると、イザベラの気配が揺らいだ。
あと一押し。
「さあ、不問にするから、隠し持っているものを出しなさい」
イザベラが仕込んだ何かを、自ら出させなくては。
彼女が何かを持ち込んだことは、挙措からすぐに察した。
大方、短剣といったところだろうか。刃傷沙汰となると取り返しがつかなくなる。賢明な女性なのに、ここまで思い詰めていたなんて、味方ごと欺きすぎたか。
「殿下……」
観念したらしい彼女が、おずと差し出す品を見て、ジェラルドの呼吸は一瞬とまった。
(なんだ、これ)
サーラことイザベラ・デイ・ロワノアが差し出したのは、ジェラルドの予想を大きく逸脱するものだった。
明るい色のリボンで結ばれた、可愛い包み。
手のひらに載る大きさのそれは、取り出されたことで甘い匂いを漂わせている。
「これは……」
「わたくしが作りましたクッキーでございます」
「あなたが?」
恥ずかしそうに頷くイザベラに、ジェラルドの視界は明滅した。
どこで何がどうなって、そういうことになったんだ?
経緯がわからず混乱のままに問うと、"平民出のエミリがジェラルドの好みなら、平民の間で流行っている習慣を真似てみよう"。そうイザベラは考えたらしい。
料理で男性の胃袋を掴む、伝統的、絶対手法。
ザ・手作りクッキー。
初心者が挑む、最初のレシピだ。
(……毒じゃないよな?)
包みを開かれたソレは、ジェラルドの知識では、クッキーというより"炭"と呼ばれる物質に限りなく近い。
(まさかこれ、いま食べないとダメな流れだろうか)
空気を読むことにかけては、幼いころから鍛錬を重ねている。
「後でいただこう」、その一言で切り抜けられるはずの場面であるのに、頬染めたイザベラの精一杯が、空気抵抗無しに伝わってくる。耳め。心音まで拾わなくていい。
短剣以上に命の危機を感じるのは、気のせいだろうか。
固まってしまったジェラルドを、イザベラが不安そうに見上げた。
儚げな上目遣いが、男心をくすぐる。
(くッ、死ぬしか!)
「美味しそうだ」
意思とは真逆の感想を述べ、ジェラルドは手を伸ばした。
(うん、見た目を裏切らない味)
舌刺す苦さが、涙を誘う。
「いかがでしょうか?」
「よくできている。あなたの思いが込められているようだ」
(この浮気男め、と罵りながら作ったかもしれんな)
にこりと安心したように微笑むイザベラは、ほころぶ花のように愛らしい。
思わずもっと喜ばせたくなる。
「この熊など特に素晴らしい。焼き色まで熊の毛色そのものだ」
「それは……、殿下の愛馬トルネーゼを模したものでして……」
「なに?」
感情を抑えることにかけては一級であるはずのジェラルドが、思わず声をあげた。
(馬? これが? それ以前にトルネーゼは黒馬ではない。雪原のような白毛の……)
バクバクと高鳴る心臓を押さえつけ、ひとつ咳ばらいをすると、平然と訂正につとめる。
「言い間違えた。熊のように雄々しい立派な馬だと、そう言いたかった」
「まあ……」
(ホッ。というか、いやいや。自分でも馬に見えないことくらいわかってるだろうに)
彼女の真意はどこだ?
「こんなに喜んでいただけるとは、思っておりませんでした。勇気を出して良かったです。ぜひまた作ってまいります」
新手の脅しか!
(エミリの件は早々に片付けよう、そうしよう)
リベルト派のあぶり出しは、別の方法を練った方がよさそうだ。
仕返しと色仕掛けを絶妙に混ぜてくるとは、だから幼馴染は侮れない。
しかも化粧で加えたそばかすさえチャームポイントに思えるほど、可愛い。なんてタチが悪い。
「イザベラ、適材適所という言葉がある。クッキーは料理人に任せ、あなたはあなたのあるべき場所で輝いていて欲しい。私の妃として、ずっと私の隣に」
「ジェラルド殿下……」
その後、王太子はエミリと距離を置き、彼の新しい恋人は公爵家の冴えない侍女という噂が立った。はからずもその娘に接触した貴族たちが、王太子に報告されることになるが。
それが誰の謀略であったのか、王太子も公爵令嬢も微笑むだけだけで語ることはなかった。
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