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1巻
1-2
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数日後、創史は青葉に相談し、千里を引き抜くことを部長に了承させた。千里がデザインの仕事にはかかわらず、畑違いの秘書として働くことから、競合他社への引き抜きには当たらないと判断されたのだ。
ちょうど千里は手掛けている案件もなく、打ち合わせをしていたベンライン社の案件は、まだ始まっていなかったので、そのまま別のデザイナーに受け渡すことになり、わりとスムーズに退職できた。
勝と別れてひと月ほど経った十一月半ば、千里は自分が白東エージェンシーを退職することを彼に告げた。
* * *
「え、辞める?」
勝は帰りの電車に揺られながら、千里の言葉を繰り返した。
「うん。今月いっぱいでね……ヘッドハンティングされちゃったんだ」
「え、それで……受けたのか? もしかして俺のせい、か?」
「違う、違う! やだなあ、まーくんったら。そんなんじゃないよ~」
千里がヘッドハンティングを受けたのは、自分と別れたことが原因なのだろうか。それとも自分と同じ職場にいるのが嫌になったのだろうか。吊り革を握る手に、じっとりと汗がにじむ。勝は千里の突然の転職理由を探ろうとしていた。だが、頭がうまく働かない。
千里が会社を辞める。彼の頭にはそれだけが残った。千里が会社を辞めれば、こうして一緒に帰ることもなくなる。ならばいつ彼女と会えばいいのだろうか。そんな考えに囚われながらも、彼女とは友達なのだから、その気になればいつだって会える、と勝は思い直した。
だって自分は彼女のアパートも、携帯番号も、メールアドレスも知っている。
「私はまーくんみたいにデザインの才能ないし。秘書の方が長く続けられるんじゃないかなと思って、ね」
「ちさは、それでいいのか?」
「まだ二十六だし、畑違いの仕事も今なら覚えられると思うし、頑張れるよ」
「そうか……」
千里が働けなくなったなら、無理に慣れない仕事をしなくても自分が食べさせていくのに。彼女は家にいてくれればいい。自分の手腕ならあと一、二年もすれば看板デザイナーになれる。看板になれば給料も跳ね上がる。そうすれば、ずっと一緒に――
ふと勝は自分の考えに疑問を抱いた。千里を自分が食べさせる? それは結婚をするということか? なぜ? 彼女は友達だろう? それに、そもそも自分から別れを切り出したんじゃなかったのか?
「それにね」
勝が自問自答している中、千里がふたたび口を開いた。ドア付近に立った彼女は、車窓に目を向けながら、頬に流れる栗色の髪を耳にかける。そんな見慣れた彼女の仕草に、勝の胸が跳ねた。もう何年も口付けることもなかった、小ぶりの唇にのせられたグロスが、艶やかに光っている。白い首筋の曲線は千里が女であることを勝に意識させた。
「お給料が倍なの。びっくりでしょ?」
「倍? スゲーな、それ。大丈夫なのか? エロいことやらされんじゃないのか?」
「違うよ。何かね、機密書類を扱うからだって。出張もあるらしいし」
「へぇ……帰りが遅くなるようだったら連絡しろよ。いつでも迎えに行くから」
「うん? ありがと」
返事をしながらも自分の方を一切見ない千里に、勝の胸が波立った。それは変わらないと思っていたものが変わっていく、不安と焦燥ゆえ。
ガタンと揺れた電車のせいにして、勝は千里の肩を抱いた。彼女が遠くに行ってしまう気がしたのだ。自分の手が届かないどこかに……
3 橘社長は二人いる?
十二月一日。白東エージェンシーを円満に退職した千里は、ラウンマークベンライン社への初出勤日を迎えた。千里は落ち着いた黒のスーツに身を包み、履歴書を携えて会社の門をくぐる。
ベンライン本社は、駅に付属したオフィスビルのツーフロアを所有していた。本社勤務の社員は八十人未満ということを知り、意外と少ないことに驚きながら、千里は創史の前に立つ。
「やあ! よくきたね、葉ちゃん。待っていたよ」
パーテーションで区切られた一角で、紙の束に埋もれながら創史が手を振ってきた。このオフィスには社長室がないらしい。パーテーションで区切られているものの、役員も平社員も、この壁がぶち抜かれたオフィスで仕事をしていた。
「橘社長、今日からよろしくお願い致します」
千里が履歴書を差し出して挨拶すると、創史は社長面接をクリアしているんだから、履歴書なんかいらないのに、と笑う。それでも一応ざっと目を通して、社員の履歴書を保管している鍵付きの棚に入れた。
それからいくつか就労要項を確認し、千里は契約書に判を押した。これで千里はラウンマークベンライン社代表取締役社長・橘創史の個人秘書だ。
「よし、じゃあさっそくだけど、携帯の番号教えて? アドレスは必要ない。俺は携帯のメールは使わない主義だ。用件は全部電話で伝える」
そう言われて千里は、創史に電話番号を教えた。するとすぐに創史がかけてくる。
「それ、俺の携帯ね。登録しといて。ちなみに他の秘書はその番号を知らないから、もし聞かれても教えないように」
「? ……かしこまりました」
――他の秘書が社長の電話番号を知らないとは、何ぞや?
今までどうやって緊急時の連絡を取っていたのかと千里が訝しんでいると、創史は梅田という男性秘書を紹介してきた。
「これが梅田。葉ちゃんが仕事の話をするとすれば、俺とこいつくらいだ――梅田、この子が前に話した葉鳥さん。葉ちゃんね。個人秘書っていうか付き人やって貰うから。これ、葉ちゃんの番号。何かあったらこっちに連絡して。葉ちゃん、梅田の番号も登録して」
梅田は黒縁の眼鏡を掛けた五十代と思しきひょろ長い男で、創史が太めのせいかひ弱に見える。彼はベンラインの先代社長の秘書だったらしい。
「これでようやく社長の居場所が掴めるわけですね」
「甘いな、梅田。葉ちゃんには守秘義務を課したから、俺の居場所はわかるまい。まあ、内容によっては折り返し電話する。前よりマシだろ?」
連絡がつくなら御の字です、と頷く梅田を見て、千里は創史がたびたび連絡が取れない状態に陥っていたらしいことを察した。
「では、葉鳥さん。社長のお守りをよろしくお願いします」
「は……はい」
――お守り!?
頭を下げて立ち去っていく梅田のうしろ姿を見ながら、千里は内心悲鳴を上げていた。こんな白髪の混じった四十代男の「お守り」が個人秘書の仕事なのか!?
「ったく、お守りとか言うなよ。まあ、薬の世話はして貰う。数が多くてわからん」
創史は椅子のうしろのロッカーの中から、薬の袋を五つほど取り出してガサッと机に並べ、さらに鞄の中からはぐしゃぐしゃに丸められた薬の説明書を取って、千里に見せた。
「な? 多いだろ? 一日二回のと、三回のと、寝る前のとか……何か色々あるんだ。それから健康食品? 身体にいいからって勧められたものとか――」
次に机の引き出しの中から、薬局でよく見かけるサプリメントの瓶をいくつか、それから青汁の粉袋が入っているらしい箱を取り出して並べる。全部で何種類あるのだろう! 病院からの薬は必須としても、サプリメントの数もやけに多い。ダボハゼのように何でもかんでも口に入れては、何が効果があったかもわからないだろうに。
千里は眉をひそめ、薬の説明書の皺を伸ばしながらざっと目を通した。どうやら創史は心臓が悪いらしい。おまけに胃の炎症を抑える薬も処方されている。
千里は並べられた薬とサプリメント、健康食品の山を見ながら、創史の机の上に置いてあった緑色の液体で満たされたコップを指差して進言した。
「ざっとしか目を通していませんが……橘社長、その青汁を飲むのはやめた方がよさそうです」
「え、何で? 婆ちゃんが青汁は身体にいいから飲めって買ってくれたんだけど?」
創史は毎朝飲んでるのだと誇らし気に言う。千里はため息をつきながら、先ほど自分が押し付けられた薬の説明書の一文を指して説明した。
「橘社長が病院から処方されているお薬ですが、このお薬の説明書きによると、ビタミンKがお薬の効果を弱めてしまうそうです。青汁や納豆、クロレラ、緑黄色野菜の大量摂取は控えるように、と記載されています。通常の食生活以外に青汁を飲んで、ビタミンKを摂取するのはよくないようです。なので、青汁はやめましょう」
創史は目を丸くして薬の説明書をひったくった。
「うわ、本当だ。自慢じゃないがまったく読んでなかったよ、この紙。……え、じゃあいつも病院の先生が診察の度に唸ってるのは青汁のせいか!?」
どうやら薬の効果が医師の思った通りに出ていないらしい。
千里は目眩を覚えた。最初に会った時の威圧感は消え去り、彼女の目の前にいたのは、自分の病状も、処方された薬もろくに把握できず、しおれている男だったのだから。
「橘社長、サプリや健康食品はちょっとやめておきましょう。病院で確認してからの方が確かだと思われます。私も病院にご一緒させていただいて、お薬の説明を受けた方がいいんじゃないでしょうか?」
本人もろくに把握していない薬の取り扱いに対し、こんな一枚の紙っぺらでは不安を感じた千里は、医師と薬剤師から詳細な説明を受けることを提案した。
「そうだね。じゃあ今度、時間作って行こうか。いやあー参ったな。婆ちゃんがさ、青汁、青汁って言うから、苦いけど我慢して飲んでたんだよね。続けてたら癖になってさ、意外とイケるかもって思ってたんだけど、まさかこれがよくなかっただなんてショックだよ。俺、婆ちゃんっ子だからさぁ。素直に婆ちゃんの言うこと聞いてたんだよね」
顔をしかめながら首のうしろを掻き、創史は椅子に深く腰掛けた。青汁の箱を机に置いたと思いきや、今度は引き出しからクロレラのパックを取り出した。
「やばいな。俺、クロレラも時々飲んでた」
一般に身体にいいとされているものが、処方された薬と相性がいいとは限らない。千里は苦笑いしながら、サプリをやめたら病院のお薬の量が減るかもしれませんね、と彼を励ましたのだった。
「橘社長――」
「ああ、葉ちゃん。『橘社長』はやめてくれ。創史と名前で呼んでくれないか」
「え、あの、そ、創史、さん?」
「以後それでよろしく」
「でも、あの、社長ですし、ちょっと……」
社長を下の名前で呼ぶのは気がひける、と千里が戸惑っていると、創史は軽く手を振って、気にするなと告げた。
「そのうち紹介するけど、我がベンライングループに『橘社長』はもう一人いるんだ。梅田をはじめうちの社員は、そっちとあまり話さないから問題ないが、葉ちゃんはちょくちょく話す機会があると思うんだよ。だからね、最初から下の名前の方でいい」
「は、はあ……」
「ああ、葉ちゃんに青汁とクロレラあげるよ。身体にいいんだってよ?」
――橘社長はもう一人いる?
「葉ちゃん、色々頼りにしてるよ!」
千里が言われたことを理解するより先に、創史は青汁の箱とクロレラのパックを彼女に押しつけて、ニッと笑った。
その笑みの理由を、千里はのちに知ることになる。
今日は十二月二十一日。
「えっ! 創史さんって、三十二歳だったんですか!?」
千里と創史は、某ホテルで江戸前寿司に舌鼓を打っていた。
カウンターの向こうでビチビチと跳ねる生きた車海老が、寿司ネタにさばかれていく。店主直々の鮮やかな握りを披露されながら、千里は創史の実年齢に驚きの声を上げていた。二十六歳の自分と六歳しか違わない。大変申し訳ないが、創史の老けこみようは、どう見ても四十代だ。何か騙された気分になり、千里は口をまごつかせた。
「葉ちゃん、何気に失礼な反応だな。俺はよく四十代に見られるが、まだまだ若いぞ」
「い、いえ。すごく……か、貫禄! そう、貫禄があるので……」
はい、私も貴方は四十代だと思っていました、とは言えず、千里はカウンター席の隣に座る創史の顔をまじまじと見つめた。言われてみれば肌つやは四十代にしてはいいし、小皺もない。
老けこんで見えるのは、おそらく白髪のせいだろう。柔らかくうしろに撫で付けられた髪は、少し癖があるのか緩やかにうねっている。そこに、まだらに生えている白髪が目立つのだ。かつ体型も拍車をかけている。もし痩せていたならば、少しは違って見えるのかもしれない。
「創さんは白髪がいけないよ」
壮年の店主が、先ほどさばいた海老の頭を油の中に入れながら話に割って入ってきた。千里は思っていたことを代わりに言って貰え、うんうんと頷く。
「そうかな?」
創史は、自分の頭に手をやった。
「そうさ。髪の色一つでだいぶ印象が変わるものだよ。創さんは口を開けば歳相応だけどね」
「言ってくれるな。代表取締役なんて年嵩に見えた方が何かと楽なもんなの」
店主の言葉に苦笑いして、熱いお茶を口に運ぶ創史を見つめながら、千里は初めて彼と昼食に行った時を思い出した――
「葉ちゃん、昼飯に行こう」
「あ、はい」
初めて出社した日に訪れたのは、国産和牛の高級ステーキ専門店だった。昼からこんな大層なところへ連れてきてくれるということは、もしかしたら歓迎会の代わりなのかもしれない、と千里は推測していた。
「いらっしゃいませ」
店員にうやうやしく案内されたのは、横並び四人席の個室だった。テーブルに置かれた赤いナプキン。高級感漂う椅子。どうやら目の前の銀色に輝く鉄板で、店のスタッフが肉を焼いてくれるらしい。
「さてと、サーロイン、フィレ、リブロースどれがいい?」
「えっと……よくわからないのでお任せします」
「はは。お任せ、ね。――サーロインは百五十グラム、フィレは百三十グラム、リブロースは百七十グラムだ。量で決めるのも一つの手だよ」
「ではサーロインで」
「はいはい。俺はリブロースにするかな」
創史は店員に注文すると、隣に座った千里に向き直った。
「さて、葉ちゃん。少々仕事の話をしようか」
そう言った創史の目が至極真剣で、千里は思わず息を呑んだ。初めて会った時の威圧感が蘇る。目の前の男は、全国千六百七店舗の大手ファミリーレストラン「トポス」を経営する、ラウンマークベンライン社の代表取締役社長なのだと、否応なしに実感させられた。
「まず、我がベンライン社は外食企業……つまり飲食店を生業としている。他社が提供する食事、サービスを実際に体験し、優れた部分は積極的に取り入れたいと考えている」
「はい……」
「このステーキ店はもとは肉屋でね、明治時代に創業したそうだよ。我がベンラインもこの店ほどの歴史はないが、俺の祖父母が経営していた洋食店がトポスの原点だ。俺は二代目ということになっているが、正確には三代目だ」
千里は創史の話を聞きながら、真摯に頷いた。
「トポス」という名称はギリシャ語のtopos(場所)に由来しており、それは単に食事をする場所だけではなく、お客様がいつきてもくつろげる場所であるように、という意味を込めて自分の祖父が名付けたのだと創史は語った。
創業から現在のトポスの発展。子会社を作るまでの道のり、そして今後の展望について、さらに創史は続ける。そこには押しも押されもしない社長、橘創史の姿があった。
「――とりあえず、今後は『よくわからないのでお任せします』は、俺との食事の席では通用しないと思ってくれ。何でもいい、自分の意見を言って欲しい。こうやって外で飯を食うのも仕事の一環だ。たとえばメニュー一つ選ぶのもお客様の視点が反映されていると俺は考えている。推測だが、君は肉の部位がわからなかったんじゃないか? もしお客様がそれを知りたいと思った時、説明する仕事というのがこの店側に発生するだろう? どう説明してくれるのか、聞いてみたいと思わないか? 我がトポスにおいても、お客様からメニューの説明を求められる場合もあるだろう。そういうのを俺は想定したいし、今後の対応マニュアル向上のためにもさらに活かしたいと考えている。俺が食事に誘う時は単に道楽だけで飯を食いに行きたいと思っているわけじゃないってことだけは、頭の片隅に入れておいてくれ」
千里は、歓迎会なのかもしれない、などとお気楽に考えた自分が急に恥ずかしくなった。肉の部位がよくわからなかったのも図星だ。
そう、ベンライン社は外食企業なのだ。誰もが気軽に口にできる食事を提供する。ジャンルにこだわらない料理、リーズナブルな価格設定、常に上を目指す姿勢とこだわりというものが、この創史からはビシビシと発せられていた。
「はい! 肝に銘じます!」
「まあ、俺は食うのが好きだから、道楽っていっちゃあ、道楽なんだけどね。どうせ食うなら美味いものがいい。一人で食うより話し相手がいた方がいい。一緒に食うならムサイ男より女がいい。君を俺の個人秘書にしたのもそういうこった」
せっかくのいい話が台無しだ。創史なりに千里を気遣ってそう言ってくれたのだろうけれど。彼女はそれに応えるように微笑んだ。
「私も美味しいものを食べるのは大好きです」
「そうそう、美味いものをタダで食えるオイシイ仕事だと思ってくれ。ああ、でも体重が増えるのが玉にキズだ。そこは自己管理してくれ。ハッハッハッ」
自己管理をちゃんとしないとこうなるぞ? と言いながら、自分の太鼓腹をバシンと叩いた。波打つ腹を揺すって屈託なく笑う創史は、社長の顔ではなくプライベートの顔を覗かせていた。そんな彼のコロコロと様変わりする表情を見て、千里は橘創史という人間が何となくわかってきた気がした。
ちなみにスタッフが目の前で焼いてくれたサーロインは頬が落ちるほど美味しかった。おかげでスーパーの肉を家で食べた時、何とも味気ない気持ちになってしまい、これが仕事の弊害かと、己の舌が肥えることに千里は戦慄を覚えたのだった。
「はい、海老のお頭揚げです。お塩でお召し上がりください」
海老の握りを口に入れた千里の前に、カラッと揚がった海老の頭が置かれる。寿司といえば一皿百円の回転寿司がお馴染みの千里にとって、目の前で生きた海老をさばかれるのも、寿司屋で揚げたての天ぷらを食べるのも初めてのこと。創史との食事は何もかもが新鮮だった。
「ここの踊りは最高だよ。海老の頭は味噌汁にも入れてくれる。あとで出てくるよ」
「海老は一貫しか食べてないのに?」
「そりゃ、他の海老のダシでさ」
創史との会話にも慣れ、千里は楽しくなってきていた。彼はよく食に関するうんちくを語る。「踊り」というのが、生きた海老を指す江戸前寿司の隠語だと教えてくれたのも彼だった。
教えてくれるだけでなく、千里が家でどんなものを食べるのかも彼は聞きたがった。
「昨日の晩飯は何を食べた?」
「昨日はですね、スーパーでもやしが一袋二十円だったんです。いつもは三十五円なんですけどね。なので、もやししゃぶしゃぶをしました」
「何だいそれは? もやしだけをしゃぶしゃぶにするのか?」
「ああ、白菜も入れますよ? 昆布ダシにもやしをくぐらせて、しゃぶしゃぶのタレや、ポン酢で食べるんです。さっぱりしていて美味しいですよ」
「肉は?」
「ありません」
肉はないと言うと、創史は苦笑いしながら揚げたての海老をパクッと口に放り込んだ。
「肉がないなら、ただの『茹でもやし』だろ」
「いいえ、もやししゃぶしゃぶです。こう、カセットコンロに土鍋を置いてですね、しゃぶしゃぶっとするわけですよ? 立派なしゃぶしゃぶです」
本当なら千里も肉を入れたいところなのだが、創史と昼間の食事を共にするようになって、毎度毎度高カロリーの美食メニューを腹に入れると、夜まで満腹感が残ってしまい、家では自然と野菜中心のメニューになっていたのだ。
もやししゃぶしゃぶには根取りもやしを使うのがポイントです、としゃぶしゃぶのジェスチャーをしながら熱弁を振るう彼女を、創史は目を細めながら見つめていた。
4 クリスマスの予定は仕事です
気が付けば創史の個人秘書になってから三週間、千里は勝と一度も会っていなかった。彼と出会ってから、こんなにも長い間会わなかったことなど初めてだ。しかしそんな状況にも新しい職場、新しい環境の中で、いつの間にか慣れようとしていた。
ベンライン社では毎週木曜日に定例会議が開かれ、その日だけは定時に上がることが難しくなる。電車がないわけではないのだが、創史は最初の約束通りにタクシーを手配し、千里はそれに乗ってアパートまで帰っていた。
千里のアパートは駅の真向かいにある。わりと大きな駅なので、電車や踏切の音など、喧騒が気にならないといえば嘘になるが、それでもこの立地の条件のよさは魅力的だ。勝のアパートも最寄り駅は同じだが、駅から少々歩く。どんなに家が近くても、会おうとしなければ意外と会うこともないのだな、と千里は今さらながらに実感した。こうして少しずつ二人の関係を変えていけばいい。
熱いシャワーを頭から浴びながら、千里は今日、創史から言われたことを思い出していた。
「葉ちゃん、クリスマスの予定は?」
「二十四日木曜日は、東日本加工食品様と昼食をとりながらの会談、二十五日金曜日は、午後から子会社トリロジーの……」
二十四日から二十五日にかけての創史の予定を読み上げていた千里を、彼は持っていた書類を振って遮った。
「違う、違う。君のプライベートの予定を聞いてるんだ」
一瞬キョトンとした千里だったが、すぐに苦笑いして予定はありません、と答えた。
「オーケー。それじゃあ、二十五日にお誘いしても構わないかい?」
「……それはプライベートで、ですか?」
警戒を含んだ千里の声に、創史は笑う。
「残念ながら違うよ。プライベートでお誘いしたいのは山々だがね。二十五日はトリロジーの人間がくる予定だったね? 彼らのレストランに出向して試食することになっている。夕食になるが、それに君も同席して貰いたい」
「承知致しました。問題ありません」
仕事の話ならまぎらわしい言い方をしなくてもいいのに、と千里の顔に書いてあったのだろう、創史は弁解するようにおどけてみせた。
「いやね、イブは木曜日だ。会議があるだろう? 遅くなるじゃないか。クリスマス当日は金曜日だし、恋人がいたら早く帰りたいだろう? だから念のために聞いたのさ」
「そうでしたか。お気遣い頂いたところ恐縮ですが、残念ながら恋人はいません。募集中です」
こうして創史に合わせて軽口を叩くこともできるようになった。わりと短期間で彼に慣れたのも、彼と毎日のように二人で食事をしているからかもしれない。
「そうかい。葉ちゃんは恋人募集中か。それはいいことを聞いたよ」
朗らかな表情から一変して、創史は手に持っていた書類を千里に渡してきた。それは社長の顔。毎度のことながらこの切り替えの早さは見事としか言いようがない。
「それ、破棄」
「了解です」
千里は受け取った書類に目を通すことなく、すぐにシュレッダーに掛けた。これは創史が千里に徹底させている業務のうちの一つだった。「破棄」と言われた書類は見ない、置かない、尋ねない。
以前「破棄」と言われた書類を、千里が持ち直すためにデスクに置いたことがあった。もちろんすぐに手に取ったのだが、創史は静かにその行動を注意したのだ。
『それは機密書類だ。人目に晒せないからこそ破棄する。一度渡されたら確実に破棄するまで、その手から離すな』
いつにない真剣な物言いに、千里はただただ頷いたのだった。
千里はシャワーから上がると、髪を乾かしながらテレビをつけた。クリスマスまであと二日だからだろうか、人恋しい。夕食を作る気力も湧かず、コンビニで買ったサラダスパにドレッシングをかけて黙々と食べていると、鞄に入れっぱなしにしていた携帯が着信を告げた。
『俺からの電話は必ず出ること』
創史にそう言われたことを思い出し、鞄に飛びつき携帯をまさぐる。開いた携帯のディスプレイに映し出された文字は――
「もしもし? ちさ?」
ついこの前まで一番近くにいた男の声を聞いて、千里の心は一瞬にして乱れた。それがとてつもなく悔しい!
――彼は友達なのに、友達なのに。
消えたはずの――忘れたはずの――胸のチクチクが蘇った気がした。
「あっ、まーくん? 久しぶり~」
意識して、何でもない風な声を出す。
「久しぶりだな。ちさ、元気にしてたか?」
「うん。元気だよ~」
「連絡ないからさ。ちさ、どうしてるのかなと思って。帰り、遅くなったりしてないか?」
「大丈夫だよ~」
ちょうど千里は手掛けている案件もなく、打ち合わせをしていたベンライン社の案件は、まだ始まっていなかったので、そのまま別のデザイナーに受け渡すことになり、わりとスムーズに退職できた。
勝と別れてひと月ほど経った十一月半ば、千里は自分が白東エージェンシーを退職することを彼に告げた。
* * *
「え、辞める?」
勝は帰りの電車に揺られながら、千里の言葉を繰り返した。
「うん。今月いっぱいでね……ヘッドハンティングされちゃったんだ」
「え、それで……受けたのか? もしかして俺のせい、か?」
「違う、違う! やだなあ、まーくんったら。そんなんじゃないよ~」
千里がヘッドハンティングを受けたのは、自分と別れたことが原因なのだろうか。それとも自分と同じ職場にいるのが嫌になったのだろうか。吊り革を握る手に、じっとりと汗がにじむ。勝は千里の突然の転職理由を探ろうとしていた。だが、頭がうまく働かない。
千里が会社を辞める。彼の頭にはそれだけが残った。千里が会社を辞めれば、こうして一緒に帰ることもなくなる。ならばいつ彼女と会えばいいのだろうか。そんな考えに囚われながらも、彼女とは友達なのだから、その気になればいつだって会える、と勝は思い直した。
だって自分は彼女のアパートも、携帯番号も、メールアドレスも知っている。
「私はまーくんみたいにデザインの才能ないし。秘書の方が長く続けられるんじゃないかなと思って、ね」
「ちさは、それでいいのか?」
「まだ二十六だし、畑違いの仕事も今なら覚えられると思うし、頑張れるよ」
「そうか……」
千里が働けなくなったなら、無理に慣れない仕事をしなくても自分が食べさせていくのに。彼女は家にいてくれればいい。自分の手腕ならあと一、二年もすれば看板デザイナーになれる。看板になれば給料も跳ね上がる。そうすれば、ずっと一緒に――
ふと勝は自分の考えに疑問を抱いた。千里を自分が食べさせる? それは結婚をするということか? なぜ? 彼女は友達だろう? それに、そもそも自分から別れを切り出したんじゃなかったのか?
「それにね」
勝が自問自答している中、千里がふたたび口を開いた。ドア付近に立った彼女は、車窓に目を向けながら、頬に流れる栗色の髪を耳にかける。そんな見慣れた彼女の仕草に、勝の胸が跳ねた。もう何年も口付けることもなかった、小ぶりの唇にのせられたグロスが、艶やかに光っている。白い首筋の曲線は千里が女であることを勝に意識させた。
「お給料が倍なの。びっくりでしょ?」
「倍? スゲーな、それ。大丈夫なのか? エロいことやらされんじゃないのか?」
「違うよ。何かね、機密書類を扱うからだって。出張もあるらしいし」
「へぇ……帰りが遅くなるようだったら連絡しろよ。いつでも迎えに行くから」
「うん? ありがと」
返事をしながらも自分の方を一切見ない千里に、勝の胸が波立った。それは変わらないと思っていたものが変わっていく、不安と焦燥ゆえ。
ガタンと揺れた電車のせいにして、勝は千里の肩を抱いた。彼女が遠くに行ってしまう気がしたのだ。自分の手が届かないどこかに……
3 橘社長は二人いる?
十二月一日。白東エージェンシーを円満に退職した千里は、ラウンマークベンライン社への初出勤日を迎えた。千里は落ち着いた黒のスーツに身を包み、履歴書を携えて会社の門をくぐる。
ベンライン本社は、駅に付属したオフィスビルのツーフロアを所有していた。本社勤務の社員は八十人未満ということを知り、意外と少ないことに驚きながら、千里は創史の前に立つ。
「やあ! よくきたね、葉ちゃん。待っていたよ」
パーテーションで区切られた一角で、紙の束に埋もれながら創史が手を振ってきた。このオフィスには社長室がないらしい。パーテーションで区切られているものの、役員も平社員も、この壁がぶち抜かれたオフィスで仕事をしていた。
「橘社長、今日からよろしくお願い致します」
千里が履歴書を差し出して挨拶すると、創史は社長面接をクリアしているんだから、履歴書なんかいらないのに、と笑う。それでも一応ざっと目を通して、社員の履歴書を保管している鍵付きの棚に入れた。
それからいくつか就労要項を確認し、千里は契約書に判を押した。これで千里はラウンマークベンライン社代表取締役社長・橘創史の個人秘書だ。
「よし、じゃあさっそくだけど、携帯の番号教えて? アドレスは必要ない。俺は携帯のメールは使わない主義だ。用件は全部電話で伝える」
そう言われて千里は、創史に電話番号を教えた。するとすぐに創史がかけてくる。
「それ、俺の携帯ね。登録しといて。ちなみに他の秘書はその番号を知らないから、もし聞かれても教えないように」
「? ……かしこまりました」
――他の秘書が社長の電話番号を知らないとは、何ぞや?
今までどうやって緊急時の連絡を取っていたのかと千里が訝しんでいると、創史は梅田という男性秘書を紹介してきた。
「これが梅田。葉ちゃんが仕事の話をするとすれば、俺とこいつくらいだ――梅田、この子が前に話した葉鳥さん。葉ちゃんね。個人秘書っていうか付き人やって貰うから。これ、葉ちゃんの番号。何かあったらこっちに連絡して。葉ちゃん、梅田の番号も登録して」
梅田は黒縁の眼鏡を掛けた五十代と思しきひょろ長い男で、創史が太めのせいかひ弱に見える。彼はベンラインの先代社長の秘書だったらしい。
「これでようやく社長の居場所が掴めるわけですね」
「甘いな、梅田。葉ちゃんには守秘義務を課したから、俺の居場所はわかるまい。まあ、内容によっては折り返し電話する。前よりマシだろ?」
連絡がつくなら御の字です、と頷く梅田を見て、千里は創史がたびたび連絡が取れない状態に陥っていたらしいことを察した。
「では、葉鳥さん。社長のお守りをよろしくお願いします」
「は……はい」
――お守り!?
頭を下げて立ち去っていく梅田のうしろ姿を見ながら、千里は内心悲鳴を上げていた。こんな白髪の混じった四十代男の「お守り」が個人秘書の仕事なのか!?
「ったく、お守りとか言うなよ。まあ、薬の世話はして貰う。数が多くてわからん」
創史は椅子のうしろのロッカーの中から、薬の袋を五つほど取り出してガサッと机に並べ、さらに鞄の中からはぐしゃぐしゃに丸められた薬の説明書を取って、千里に見せた。
「な? 多いだろ? 一日二回のと、三回のと、寝る前のとか……何か色々あるんだ。それから健康食品? 身体にいいからって勧められたものとか――」
次に机の引き出しの中から、薬局でよく見かけるサプリメントの瓶をいくつか、それから青汁の粉袋が入っているらしい箱を取り出して並べる。全部で何種類あるのだろう! 病院からの薬は必須としても、サプリメントの数もやけに多い。ダボハゼのように何でもかんでも口に入れては、何が効果があったかもわからないだろうに。
千里は眉をひそめ、薬の説明書の皺を伸ばしながらざっと目を通した。どうやら創史は心臓が悪いらしい。おまけに胃の炎症を抑える薬も処方されている。
千里は並べられた薬とサプリメント、健康食品の山を見ながら、創史の机の上に置いてあった緑色の液体で満たされたコップを指差して進言した。
「ざっとしか目を通していませんが……橘社長、その青汁を飲むのはやめた方がよさそうです」
「え、何で? 婆ちゃんが青汁は身体にいいから飲めって買ってくれたんだけど?」
創史は毎朝飲んでるのだと誇らし気に言う。千里はため息をつきながら、先ほど自分が押し付けられた薬の説明書の一文を指して説明した。
「橘社長が病院から処方されているお薬ですが、このお薬の説明書きによると、ビタミンKがお薬の効果を弱めてしまうそうです。青汁や納豆、クロレラ、緑黄色野菜の大量摂取は控えるように、と記載されています。通常の食生活以外に青汁を飲んで、ビタミンKを摂取するのはよくないようです。なので、青汁はやめましょう」
創史は目を丸くして薬の説明書をひったくった。
「うわ、本当だ。自慢じゃないがまったく読んでなかったよ、この紙。……え、じゃあいつも病院の先生が診察の度に唸ってるのは青汁のせいか!?」
どうやら薬の効果が医師の思った通りに出ていないらしい。
千里は目眩を覚えた。最初に会った時の威圧感は消え去り、彼女の目の前にいたのは、自分の病状も、処方された薬もろくに把握できず、しおれている男だったのだから。
「橘社長、サプリや健康食品はちょっとやめておきましょう。病院で確認してからの方が確かだと思われます。私も病院にご一緒させていただいて、お薬の説明を受けた方がいいんじゃないでしょうか?」
本人もろくに把握していない薬の取り扱いに対し、こんな一枚の紙っぺらでは不安を感じた千里は、医師と薬剤師から詳細な説明を受けることを提案した。
「そうだね。じゃあ今度、時間作って行こうか。いやあー参ったな。婆ちゃんがさ、青汁、青汁って言うから、苦いけど我慢して飲んでたんだよね。続けてたら癖になってさ、意外とイケるかもって思ってたんだけど、まさかこれがよくなかっただなんてショックだよ。俺、婆ちゃんっ子だからさぁ。素直に婆ちゃんの言うこと聞いてたんだよね」
顔をしかめながら首のうしろを掻き、創史は椅子に深く腰掛けた。青汁の箱を机に置いたと思いきや、今度は引き出しからクロレラのパックを取り出した。
「やばいな。俺、クロレラも時々飲んでた」
一般に身体にいいとされているものが、処方された薬と相性がいいとは限らない。千里は苦笑いしながら、サプリをやめたら病院のお薬の量が減るかもしれませんね、と彼を励ましたのだった。
「橘社長――」
「ああ、葉ちゃん。『橘社長』はやめてくれ。創史と名前で呼んでくれないか」
「え、あの、そ、創史、さん?」
「以後それでよろしく」
「でも、あの、社長ですし、ちょっと……」
社長を下の名前で呼ぶのは気がひける、と千里が戸惑っていると、創史は軽く手を振って、気にするなと告げた。
「そのうち紹介するけど、我がベンライングループに『橘社長』はもう一人いるんだ。梅田をはじめうちの社員は、そっちとあまり話さないから問題ないが、葉ちゃんはちょくちょく話す機会があると思うんだよ。だからね、最初から下の名前の方でいい」
「は、はあ……」
「ああ、葉ちゃんに青汁とクロレラあげるよ。身体にいいんだってよ?」
――橘社長はもう一人いる?
「葉ちゃん、色々頼りにしてるよ!」
千里が言われたことを理解するより先に、創史は青汁の箱とクロレラのパックを彼女に押しつけて、ニッと笑った。
その笑みの理由を、千里はのちに知ることになる。
今日は十二月二十一日。
「えっ! 創史さんって、三十二歳だったんですか!?」
千里と創史は、某ホテルで江戸前寿司に舌鼓を打っていた。
カウンターの向こうでビチビチと跳ねる生きた車海老が、寿司ネタにさばかれていく。店主直々の鮮やかな握りを披露されながら、千里は創史の実年齢に驚きの声を上げていた。二十六歳の自分と六歳しか違わない。大変申し訳ないが、創史の老けこみようは、どう見ても四十代だ。何か騙された気分になり、千里は口をまごつかせた。
「葉ちゃん、何気に失礼な反応だな。俺はよく四十代に見られるが、まだまだ若いぞ」
「い、いえ。すごく……か、貫禄! そう、貫禄があるので……」
はい、私も貴方は四十代だと思っていました、とは言えず、千里はカウンター席の隣に座る創史の顔をまじまじと見つめた。言われてみれば肌つやは四十代にしてはいいし、小皺もない。
老けこんで見えるのは、おそらく白髪のせいだろう。柔らかくうしろに撫で付けられた髪は、少し癖があるのか緩やかにうねっている。そこに、まだらに生えている白髪が目立つのだ。かつ体型も拍車をかけている。もし痩せていたならば、少しは違って見えるのかもしれない。
「創さんは白髪がいけないよ」
壮年の店主が、先ほどさばいた海老の頭を油の中に入れながら話に割って入ってきた。千里は思っていたことを代わりに言って貰え、うんうんと頷く。
「そうかな?」
創史は、自分の頭に手をやった。
「そうさ。髪の色一つでだいぶ印象が変わるものだよ。創さんは口を開けば歳相応だけどね」
「言ってくれるな。代表取締役なんて年嵩に見えた方が何かと楽なもんなの」
店主の言葉に苦笑いして、熱いお茶を口に運ぶ創史を見つめながら、千里は初めて彼と昼食に行った時を思い出した――
「葉ちゃん、昼飯に行こう」
「あ、はい」
初めて出社した日に訪れたのは、国産和牛の高級ステーキ専門店だった。昼からこんな大層なところへ連れてきてくれるということは、もしかしたら歓迎会の代わりなのかもしれない、と千里は推測していた。
「いらっしゃいませ」
店員にうやうやしく案内されたのは、横並び四人席の個室だった。テーブルに置かれた赤いナプキン。高級感漂う椅子。どうやら目の前の銀色に輝く鉄板で、店のスタッフが肉を焼いてくれるらしい。
「さてと、サーロイン、フィレ、リブロースどれがいい?」
「えっと……よくわからないのでお任せします」
「はは。お任せ、ね。――サーロインは百五十グラム、フィレは百三十グラム、リブロースは百七十グラムだ。量で決めるのも一つの手だよ」
「ではサーロインで」
「はいはい。俺はリブロースにするかな」
創史は店員に注文すると、隣に座った千里に向き直った。
「さて、葉ちゃん。少々仕事の話をしようか」
そう言った創史の目が至極真剣で、千里は思わず息を呑んだ。初めて会った時の威圧感が蘇る。目の前の男は、全国千六百七店舗の大手ファミリーレストラン「トポス」を経営する、ラウンマークベンライン社の代表取締役社長なのだと、否応なしに実感させられた。
「まず、我がベンライン社は外食企業……つまり飲食店を生業としている。他社が提供する食事、サービスを実際に体験し、優れた部分は積極的に取り入れたいと考えている」
「はい……」
「このステーキ店はもとは肉屋でね、明治時代に創業したそうだよ。我がベンラインもこの店ほどの歴史はないが、俺の祖父母が経営していた洋食店がトポスの原点だ。俺は二代目ということになっているが、正確には三代目だ」
千里は創史の話を聞きながら、真摯に頷いた。
「トポス」という名称はギリシャ語のtopos(場所)に由来しており、それは単に食事をする場所だけではなく、お客様がいつきてもくつろげる場所であるように、という意味を込めて自分の祖父が名付けたのだと創史は語った。
創業から現在のトポスの発展。子会社を作るまでの道のり、そして今後の展望について、さらに創史は続ける。そこには押しも押されもしない社長、橘創史の姿があった。
「――とりあえず、今後は『よくわからないのでお任せします』は、俺との食事の席では通用しないと思ってくれ。何でもいい、自分の意見を言って欲しい。こうやって外で飯を食うのも仕事の一環だ。たとえばメニュー一つ選ぶのもお客様の視点が反映されていると俺は考えている。推測だが、君は肉の部位がわからなかったんじゃないか? もしお客様がそれを知りたいと思った時、説明する仕事というのがこの店側に発生するだろう? どう説明してくれるのか、聞いてみたいと思わないか? 我がトポスにおいても、お客様からメニューの説明を求められる場合もあるだろう。そういうのを俺は想定したいし、今後の対応マニュアル向上のためにもさらに活かしたいと考えている。俺が食事に誘う時は単に道楽だけで飯を食いに行きたいと思っているわけじゃないってことだけは、頭の片隅に入れておいてくれ」
千里は、歓迎会なのかもしれない、などとお気楽に考えた自分が急に恥ずかしくなった。肉の部位がよくわからなかったのも図星だ。
そう、ベンライン社は外食企業なのだ。誰もが気軽に口にできる食事を提供する。ジャンルにこだわらない料理、リーズナブルな価格設定、常に上を目指す姿勢とこだわりというものが、この創史からはビシビシと発せられていた。
「はい! 肝に銘じます!」
「まあ、俺は食うのが好きだから、道楽っていっちゃあ、道楽なんだけどね。どうせ食うなら美味いものがいい。一人で食うより話し相手がいた方がいい。一緒に食うならムサイ男より女がいい。君を俺の個人秘書にしたのもそういうこった」
せっかくのいい話が台無しだ。創史なりに千里を気遣ってそう言ってくれたのだろうけれど。彼女はそれに応えるように微笑んだ。
「私も美味しいものを食べるのは大好きです」
「そうそう、美味いものをタダで食えるオイシイ仕事だと思ってくれ。ああ、でも体重が増えるのが玉にキズだ。そこは自己管理してくれ。ハッハッハッ」
自己管理をちゃんとしないとこうなるぞ? と言いながら、自分の太鼓腹をバシンと叩いた。波打つ腹を揺すって屈託なく笑う創史は、社長の顔ではなくプライベートの顔を覗かせていた。そんな彼のコロコロと様変わりする表情を見て、千里は橘創史という人間が何となくわかってきた気がした。
ちなみにスタッフが目の前で焼いてくれたサーロインは頬が落ちるほど美味しかった。おかげでスーパーの肉を家で食べた時、何とも味気ない気持ちになってしまい、これが仕事の弊害かと、己の舌が肥えることに千里は戦慄を覚えたのだった。
「はい、海老のお頭揚げです。お塩でお召し上がりください」
海老の握りを口に入れた千里の前に、カラッと揚がった海老の頭が置かれる。寿司といえば一皿百円の回転寿司がお馴染みの千里にとって、目の前で生きた海老をさばかれるのも、寿司屋で揚げたての天ぷらを食べるのも初めてのこと。創史との食事は何もかもが新鮮だった。
「ここの踊りは最高だよ。海老の頭は味噌汁にも入れてくれる。あとで出てくるよ」
「海老は一貫しか食べてないのに?」
「そりゃ、他の海老のダシでさ」
創史との会話にも慣れ、千里は楽しくなってきていた。彼はよく食に関するうんちくを語る。「踊り」というのが、生きた海老を指す江戸前寿司の隠語だと教えてくれたのも彼だった。
教えてくれるだけでなく、千里が家でどんなものを食べるのかも彼は聞きたがった。
「昨日の晩飯は何を食べた?」
「昨日はですね、スーパーでもやしが一袋二十円だったんです。いつもは三十五円なんですけどね。なので、もやししゃぶしゃぶをしました」
「何だいそれは? もやしだけをしゃぶしゃぶにするのか?」
「ああ、白菜も入れますよ? 昆布ダシにもやしをくぐらせて、しゃぶしゃぶのタレや、ポン酢で食べるんです。さっぱりしていて美味しいですよ」
「肉は?」
「ありません」
肉はないと言うと、創史は苦笑いしながら揚げたての海老をパクッと口に放り込んだ。
「肉がないなら、ただの『茹でもやし』だろ」
「いいえ、もやししゃぶしゃぶです。こう、カセットコンロに土鍋を置いてですね、しゃぶしゃぶっとするわけですよ? 立派なしゃぶしゃぶです」
本当なら千里も肉を入れたいところなのだが、創史と昼間の食事を共にするようになって、毎度毎度高カロリーの美食メニューを腹に入れると、夜まで満腹感が残ってしまい、家では自然と野菜中心のメニューになっていたのだ。
もやししゃぶしゃぶには根取りもやしを使うのがポイントです、としゃぶしゃぶのジェスチャーをしながら熱弁を振るう彼女を、創史は目を細めながら見つめていた。
4 クリスマスの予定は仕事です
気が付けば創史の個人秘書になってから三週間、千里は勝と一度も会っていなかった。彼と出会ってから、こんなにも長い間会わなかったことなど初めてだ。しかしそんな状況にも新しい職場、新しい環境の中で、いつの間にか慣れようとしていた。
ベンライン社では毎週木曜日に定例会議が開かれ、その日だけは定時に上がることが難しくなる。電車がないわけではないのだが、創史は最初の約束通りにタクシーを手配し、千里はそれに乗ってアパートまで帰っていた。
千里のアパートは駅の真向かいにある。わりと大きな駅なので、電車や踏切の音など、喧騒が気にならないといえば嘘になるが、それでもこの立地の条件のよさは魅力的だ。勝のアパートも最寄り駅は同じだが、駅から少々歩く。どんなに家が近くても、会おうとしなければ意外と会うこともないのだな、と千里は今さらながらに実感した。こうして少しずつ二人の関係を変えていけばいい。
熱いシャワーを頭から浴びながら、千里は今日、創史から言われたことを思い出していた。
「葉ちゃん、クリスマスの予定は?」
「二十四日木曜日は、東日本加工食品様と昼食をとりながらの会談、二十五日金曜日は、午後から子会社トリロジーの……」
二十四日から二十五日にかけての創史の予定を読み上げていた千里を、彼は持っていた書類を振って遮った。
「違う、違う。君のプライベートの予定を聞いてるんだ」
一瞬キョトンとした千里だったが、すぐに苦笑いして予定はありません、と答えた。
「オーケー。それじゃあ、二十五日にお誘いしても構わないかい?」
「……それはプライベートで、ですか?」
警戒を含んだ千里の声に、創史は笑う。
「残念ながら違うよ。プライベートでお誘いしたいのは山々だがね。二十五日はトリロジーの人間がくる予定だったね? 彼らのレストランに出向して試食することになっている。夕食になるが、それに君も同席して貰いたい」
「承知致しました。問題ありません」
仕事の話ならまぎらわしい言い方をしなくてもいいのに、と千里の顔に書いてあったのだろう、創史は弁解するようにおどけてみせた。
「いやね、イブは木曜日だ。会議があるだろう? 遅くなるじゃないか。クリスマス当日は金曜日だし、恋人がいたら早く帰りたいだろう? だから念のために聞いたのさ」
「そうでしたか。お気遣い頂いたところ恐縮ですが、残念ながら恋人はいません。募集中です」
こうして創史に合わせて軽口を叩くこともできるようになった。わりと短期間で彼に慣れたのも、彼と毎日のように二人で食事をしているからかもしれない。
「そうかい。葉ちゃんは恋人募集中か。それはいいことを聞いたよ」
朗らかな表情から一変して、創史は手に持っていた書類を千里に渡してきた。それは社長の顔。毎度のことながらこの切り替えの早さは見事としか言いようがない。
「それ、破棄」
「了解です」
千里は受け取った書類に目を通すことなく、すぐにシュレッダーに掛けた。これは創史が千里に徹底させている業務のうちの一つだった。「破棄」と言われた書類は見ない、置かない、尋ねない。
以前「破棄」と言われた書類を、千里が持ち直すためにデスクに置いたことがあった。もちろんすぐに手に取ったのだが、創史は静かにその行動を注意したのだ。
『それは機密書類だ。人目に晒せないからこそ破棄する。一度渡されたら確実に破棄するまで、その手から離すな』
いつにない真剣な物言いに、千里はただただ頷いたのだった。
千里はシャワーから上がると、髪を乾かしながらテレビをつけた。クリスマスまであと二日だからだろうか、人恋しい。夕食を作る気力も湧かず、コンビニで買ったサラダスパにドレッシングをかけて黙々と食べていると、鞄に入れっぱなしにしていた携帯が着信を告げた。
『俺からの電話は必ず出ること』
創史にそう言われたことを思い出し、鞄に飛びつき携帯をまさぐる。開いた携帯のディスプレイに映し出された文字は――
「もしもし? ちさ?」
ついこの前まで一番近くにいた男の声を聞いて、千里の心は一瞬にして乱れた。それがとてつもなく悔しい!
――彼は友達なのに、友達なのに。
消えたはずの――忘れたはずの――胸のチクチクが蘇った気がした。
「あっ、まーくん? 久しぶり~」
意識して、何でもない風な声を出す。
「久しぶりだな。ちさ、元気にしてたか?」
「うん。元気だよ~」
「連絡ないからさ。ちさ、どうしてるのかなと思って。帰り、遅くなったりしてないか?」
「大丈夫だよ~」
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