橘社長の個人秘書

槇原まき

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1巻

1-3

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 本当は毎週木曜日は遅くに帰宅している。タクシーを使って帰っているから、千里は勝に「遅くなったから迎えにきてほしい」と一度も連絡していない。そして、するつもりもなかった。普通、ただの男友達にそんな連絡はしないだろう。彼とは友達の距離を保ちたかったのだ。

「そっか。ならいいんだ」
「ありがと。心配してくれて。仕事もね、だいぶ慣れたよ」
「そっか。よかったな。本当はもっと早く連絡しようと思ってたんだけど、疲れてるかなと思ってさ。メールでもよかったんだけど、せっかく連絡するなら声聞きたかったから電話にした」
「あはは、気を遣ってくれたんだね。ありがと。大丈夫、社長もいい人だし、楽でオイシイ仕事させて貰ってるよ」


   * * *


 勝は以前と変わりない千里の声にほっとしつつも、何か物足りないものを感じた。だが今はそれが何であるのか考えずに話を進める。
 この三週間、会わないばかりか、電話もメールさえもしなかったのは、彼女の方からアクションを起こしてくれるのを待っていたからなのだ。クリスマスまで残り二日にせまり、しびれを切らした勝は、ようやく自分から彼女に電話した。
 メールにしなかったのは、声を聞きたかったこともあるが、何より無視されるのが怖かったから。無機質な文字の羅列られつから彼女の反応を知るのではなく、実際の彼女の反応がみたかった。今日はそのために電話したのだから。

「今年のクリスマスって金曜日だろ? イブはさすがに無理だけど、クリスマスは一緒に過ごさないか? ちさの好きな……」

 ちさの好きな店のケーキを予約してるから、そう言おうとした言葉が、受話器の向こうの声にさえぎられた。

「ごめんね。クリスマスは予定があるの」
「えっ?」

 一瞬で勝の頭は真っ白になった。
 クリスマスは、この六年ずっと彼女と過ごしてきた日。この日でなくても、普段からいつも一緒だったが、特にこういったイベントは欠かしたことがなかった。
 別れているくせに、勝はこれまでの習慣通り、彼女の好きなカフェのケーキを予約していた。チョコレートケーキにイチゴがふんだんに載った、千里が好きだと言っていたケーキ。毎年、二人の誕生日とクリスマス、年に三回一緒に食べていたケーキ。
 もう、クリスマスを一緒に過ごすような男ができたのだろうか?
 短い時間の間に勝の頭の中には、思い出と、まだ見ぬ男への嫉妬しっとと、自分の浅はかさを責める思いが、滝のように流れこんできた。
 変わって欲しくないものが変わっていく。そしてそのキッカケを作ったのは、間違いなく自分。

「クリスマスは子会社に試食出向なの」
「仕事……忙しいんだな」

 何だ仕事か。勝は思わずほっと息をつく。仕事、それなら仕方ない。仕事なら。

「たぶん、年末だからじゃないかな。会議もあるしね」
「飲食業界は年末が忙しいんだな」
「そうなのかも」
「遅くなるなら迎えに行こうか?」
「何時になるかわからないし、たぶんタクシーで帰るから……」

 迎えにこなくていいよ、そう言われて、「俺がちさに会いたいんだ」という素直な一言が喉に詰まる。それじゃあ無理しないように気を付けろよ、と当たり障りのない会話に繋げて、勝はおやすみと電話を切った。
 電話を切った瞬間、彼は猛烈に後悔した。なぜ言わなかったのかと。別にクリスマスでなくてもいいから会いたい、となぜ素直に言わなかったのか。
 自分の言葉を悔いながら、勝は携帯をベッドに投げ捨てた。ぽすんと枕に沈むそれを見つめ、同じように投げ捨てられない男のプライドを、心の中でののしる。
 自分から別れを切り出した女に対する、ちっぽけな男のプライド。それが勝の会いたいという一言を塞いでいた。
 そして、ふと気が付く。電話中に何か物足りない気がしたわけを――

「最悪だ……もしかして俺、『会いたい』って、ちさに泣いて欲しかったのか?」


   * * *


 二十四日、取引先との昼食をとりながらの会談は、千里も参加して行われていた。そんな重要な場に同席させられ、千里は非常に緊張して初めは食事どころではなかった。
 東日本加工食品は、ベンライン社のトポスやデリバリートポスの料理の加工を一手に引き受けている会社で、この会談は社長同士の忘年会のようなものだった。

「ほー葉鳥さんね。可愛い方じゃないですか。橘さん、再婚なさるんですかな?」

 ようやく千里の緊張もほぐれてきた頃に浴びせられた東日本加工食品社長のこの質問に、一番驚いたのはもちろん千里だ。彼の言葉は、創史が過去に結婚していたことを教え、かつ自分を再婚相手として捉えていることを示唆しさするものだったからだ。

「はは、ご冗談を。こんな情けない男の後妻に入る酔狂すいきょうな女性はそうそういませんよ」
「いやいや、橘さんはまだお若い。これからですよ」

 そんな二人のやり取りを、千里は驚きながらもポーカーフェイスでやり過ごした。


「驚いたろう?」
「知りませんでしたから……正直驚きました。ご結婚されていたことがあったんですね」

 会談が終わり、車の中で千里が素直に言うと、創史も小さく苦笑いした。
 三十二歳。結婚の経験があってもおかしくはないが、彼の雰囲気からは、そういった家庭的なものを一切感じない。むしろ、独身貴族を謳歌おうかしている印象を受けていた。

「二十五で結婚して二十七で離婚した。まあ、失敗した結婚さ。おかげで女を見る目はシビアになったよ。もう結婚はしない。俺は結婚に向いてない――」

 自嘲じちょう気味な乾いた笑い声で、彼がよほど苦い思いをしたことがわかる。千里は何と言っていいかわからず、神妙な顔で相槌あいづちを打った。

「……創史さんは、お一人で寂しくはないんですか?」

 千里がそう聞いたのは純粋に疑問に思ったからというのもあるし、自分が今、一人だからかもしれない。彼は一瞬目を見張ったが、やがて少し頬を緩めた。

「ああ、最近は寂しくないよ。君と一緒に食事してるしね」

 今度は言われた千里の方が面食らう番だった。何度かまばたきして創史を見つめる。

「だからといって君とは再婚しないよ。いろんな意味でご安心を。俺に惚れるなよ? やけどするぜ?」

 そう創史がおどけてみせたので、千里は一気に吹き出してしまった。

「やだ、創史さんったら!『俺に惚れるなよ?』だって! やけどって、あ~やだ、おっかしい~」
「はは。結婚はしてあげないけど、愛人としてなら囲ってあげるよ。どう? 俺の愛人にならない? 給料は今の倍だ」
「も~っ、私はそんな安い女じゃないですよ~」

 二人して笑いながらふざける。
 創史は話の流れで結婚、離婚、再婚、愛人を語ったにすぎない。彼が再婚を考えていないのは本当でも、自分を愛人として囲うというのは、彼流のジョークだろうと彼女は踏んだのだ。
 女の魅力に欠ける自分を、誰が金を払ってまで愛人にするものか。それにたとえ彼が本気だったとしても、金のために愛人をやるなどお断りだ。

「あーあ、葉ちゃんはツレないね。じゃあ俺がダイエットしたら付き合ってくれる?」
「ふふ、勤務中の食事ならお付き合いしますよ、創史さん?」
「じゃあ、残業代を付けるから、明日のディナーも付き合ってよ」

 じゃあ、遠慮なくお願いします、と残業代を取り付けた所で車が本社に着き、千里は先に降りた。

「あーあ、葉ちゃんはあしらうのが上手いね。実はなびいてくれるかなあなんて、ちょっと期待したんだけどなあ。やっぱり葉ちゃんには有史ゆうしの方がお似合いかねぇ?」

 彼女が降りた車内で、創史のこぼれた呟きに応えたのは、お抱え運転手の苦笑いだけだった。



   5 もう一人の橘社長


「橘社長、お久しぶりですぅ~」

 クリスマス当日。終業間際になって、パーテーションをコンコンと叩いた音に千里が振り返ると、そこにいたのは真っ白な歯を見せて笑う爽やかな青年。中性的な顔立ちは魅力的で、とても千里の好みだった。思わずじっと見つめてしまう。
 彼は短い前髪を立てて、ビシッとスーツをまとっているものの、右耳には銀リングのピアスを一つ付けており、他のベンライン社員とは明らかに異彩を放っていた。
 彼が声を掛けた創史は電話中で、軽く視線を向けて手を上げ、待つように指示をしている。彼は千里の視線に気が付いたらしく目が合った。するとすぐに笑顔を引っ込め、鋭く睨みつけてきた。思わず千里はたじろぐ。

「ちょっと、あんた誰ぇ? 梅じいはぁ~?」
「はじめまして、橘の秘書を務めております葉鳥と申します。どうぞこちらにお掛けになってください。梅田もおりますよ、呼んでまいりましょうか?」
「秘書ぉ? 社長の秘書は梅爺でしょ!」

 そこはかとなくイントネーションがカマ臭い。何となく敵視されているのを感じて、千里が彼の扱いに困っていると、電話を切った創史が苦い顔でその青年を見やった。

「久しぶりだね、伊藤いとう君。相変わらず派手な耳のそれは何とかならないのかね?」
「ウフフ、僕のアイデンティティですぅ~」

 創史は、何がアイデンティティだ、くだらない、と鼻で笑って千里にお茶をれるように指示し、伊藤には目の前の椅子に座るように促した。

「葉ちゃん、彼は子会社トリロジーの人間で、伊藤君だ。……伊藤君、彼女は」
「葉鳥ちゃんでしょ。秘書ってどういうことですかあ~? 女性を秘書にするくらいなら、僕を秘書にしてくださいよぉ~」

 創史に流し目を使う、伊藤の仕草が気持ち悪い。見た目だけなら文句なしに好みなのに、と残念に感じながら、千里は持ってきたお茶を、何となく彼から遠い所に置いた。

「君に秘書なんかやらせられるか。冗談じゃない。ところで有史は一緒じゃないのか?」
「有史さんは今日は出先から電車できますよぉ~。そろそろきますからあ。もう! そんなことより橘社長ったらわかってるくせにぃ~! 僕、ずっとアプローチしてるんですよぉ~?」

 ぞわぞわ~っと千里の腕に鳥肌が立った。チラッと伊藤を見ると、不幸にも彼と目が合ってしまう。

「何よ? 僕がいい男だからって色目使ってんじゃないよ。僕はね女より男が好きなの。残念だったね。どうしても相手して欲しかったら、最低でもあと五十キロくらい太ってから出直しなさ~い。出会って早々僕に失恋した可哀想なハ・ト・リちゃん!」

 どうやら伊藤はデブ専のゲイらしい。
 千里の顔の前で、人差し指をチッチッチと振る仕草がまたもや気持ち悪い。最初は少しトキメいたけれど、自意識過剰男などこちらから願い下げだと、千里は苦々しい思いを顔に出さないよう努めるのに精一杯で、背後にもう一人の男が立っていることに気が付かなかった。
 千里がお盆を持ったまま、伊藤から逃げるようにして勢いよくうしろを振り向くと、ドンと固いもので鼻を強打した。

「おっと、失礼。大丈夫ですか?」

 しびれるようなバリトンボイスに、鼻を押さえたまま思わず顔を上げると、目の前にあったのは知的なブラックスーツとブラウンゴールドのネクタイ。千里よりも頭二つ分背の高い男がそこにいた。

「あ、いえ。すみません。大丈夫です。ありがとうございます」
「いいえ。うちの伊藤がまたふざけたんでしょう? 申し訳ない。伊藤、いい加減にしないか」

 注意された伊藤は聞いているのかいないのか、目をらして知らんぷりを決め込んだ。いい大人がこの態度はどうなのか? と千里が眉をひそめそうになった時、創史が立ち上がった。

「やあ、待っていたよ、有史! トリロジーの三号店、期待してるよ」
「おかげさまで自信の新メニューができましたよ。伊藤もこう見えて頑張っているんです。大目に見てやってください」

 軽く頭を下げながら、部下の態度を謝罪する有史という男に、千里はお茶を用意するために下がろうとしたところを、創史に引き止められた。

「ああ、葉ちゃん待って。もう出るし、お茶はいいよ。先に紹介する。彼は橘有史。俺の弟で、子会社トリロジーの社長だ」

 はじめまして、と千里に挨拶した有史は、面長で高い鼻梁びりょう。彫りが深く、清潔感のある短い黒髪で太鼓腹の創史と兄弟といわれても、冗談かと思うほどに似ていない。いや、背が高いところは同じか。左目の片二重は何を考えているのかわからないが、ビジネスライクに徹しているようにも見えた。

「はじめまして。橘の……創史さんの秘書を務めております葉鳥と申します」

 彼の苗字も橘で、しかも社長だから、橘の秘書……と言うのもおかしな気がして、千里は創史の秘書と言い直した。
 創史が下の名前で呼ぶようにと言った理由の「もう一人の橘社長」が、千里の目の前にいた――


 ベンライン社での話もそこそこに、創史、有史、伊藤、千里の四人は、オープンまであとわずかのトリロジー三号店に車で移動することになった。今回は同店のオリジナルメニューの試食とともに、オープン前の店内チェックも兼ねているのだ。
 助手席に伊藤が座り、創史と有史の間に挟まれるように千里は座らされ、ずいぶんと居心地の悪い移動時間を過ごす羽目はめになった。
 創史の太めの尻に心なしか押され、有史の方に追いやられている気がする。

「この子ね、白東エージェンシーから引き抜いたんだよ。元デザイナーなんだけど、なかなか気が利くよ。葉鳥千里さん。俺は葉ちゃんって呼んでる」
「そうですか。兄さんが引き抜くなんてよっぽどですね」

 橘兄弟の間ですっかり萎縮いしゅくしてしまった千里は、何を話せばいいのかわからずに、ますます縮こまる。

「葉ちゃん、有史も名前で呼んでやって。橘って言われると、二人とも振り向くから」
「じゃあ、じゃあ! 僕も創史さんって、名前で呼んでいいですかあ~?」

 突然割り込んできた伊藤に、創史は君に呼ばれると気持ち悪いからやめてくれ、と軽く手を振ってあしらった。伊藤は残念そうにうなだれながら、僕はあきらめませんからね! となぜか食い下がる。創史はそれを軽く無視した。こんなやりとりには慣れているのかもしれない。

「えっと、有史さん、で、よろしいんでしょうか?」
「ええ、構いませんよ。俺は自社の社員からも下の名前で呼ばれていますから」

 それならと、千里がうなずくと、有史は口元だけで微笑んだ。

「有史はトポスとはまた違った、高級志向の創作料理レストランをやりたいと言い出してね。せっかくだし子会社化して、トリロジーを任せているんだよ」
「レストラントリロジーのお話は、白東にいた頃に上司が話しているのを聞いたことがあります。とても美味しいお店だと。そこでしか食べられない味だと言っていました」
「それは有難いことです。もしかして上司というのは青葉さん、ですか?」

 千里が頷くと、彼にはいい仕事をして貰いました、と有史が言う。創史も彼に同意した。

「青葉さんはお元気ですか?」
「ええ。ひと月前に会ったのが最後ですが、相変わらずの愛妻家さんでした」
「青葉君が既婚者なのは知っていたが、愛妻家ね? クールな彼からは想像できないな。――有史もそろそろいい年だ。嫁を貰ったらどうだ? 婆ちゃんも気にしていたよ」

 有史はすっと目を細めて創史を軽く睨んだ。

「まさか兄さんから結婚しろと言われるとは思いませんでしたよ」
「相手を間違えなきゃ、結婚は悪いものじゃない」

 自分は失敗したくせに人には勧めるのかと言う有史の皮肉を、創史は軽く流した。

「残念ですが女性には縁がないもので。当分そんな話が持ち上がることはありませんよ」
「やれやれ、有史の女嫌いは筋金入りだからな……伊藤君に引きずられていないか心配だよ」
「大きなお世話です。俺は男にはもっと興味がありません。それから女嫌いじゃなくて、女性に慣れてないだけです」

 ブスッとした有史は創史から目をらし、窓の外に目をやった。明らかにこの話題はもう終わりにしたいようだった。
 空気を読まない伊藤が、有史さんはイケメンだからその気になれば絶対モテますよ、と言うと、有史は眉間に深くしわを寄せながら、フンと馬鹿にしたように笑った。
 確かに整った顔立ちだと思い、千里が伊藤に同意するように軽く相槌あいづちを打つと、有史はギョッとしたように振り返り、まくし立ててきた。

「伊藤に同意しないでください。彼の言う『イケメン』は一般的なイケメンではなくて、ゲイの隠語で『ゲイに好感を持たれる顔』という意味です。俺にそっちの趣味はありません!」

 何かゲイに苦い思い出でもあるのだろうか。ビジネスライクに徹していた彼の素顔が垣間見えたようで少しおかしい。

「大丈夫ですよ。有史さんは十分に一般的なイケメンで通用しますから。女の私が言うんだから間違いありません」

 千里が笑いながら言うと、有史の動きが止まった。みるみる頬が染まって、耳まで赤くなっていく。それはどうも……と言う彼の言葉は口の中でまごつき、千里の耳に届いた時には創史に思いっきりからかわれていた。

「お前、そこは格好よくサラッと流すところだろ。純度百パーセントで照れてどうする」
「あー……。兄さん、もう勘弁してください。慣れてないって言ってるじゃないですか」

 有史は片手で顔をおおってうつむいてしまった。彼の反応があまりにも初々しくて、笑うのは可哀想な気がするが、図体のデカさとのギャップにどうしても我慢できず、「有史さんは可愛い人ですね」と思ったことを素直に口にして、小さく笑った。

「か、可愛い? 俺が、ですか?」

 千里がうなずくと、「可愛いというのはこんな三十路前の男ではなく、貴女のような女性に使う言葉です、貴女の方がずっと可愛いですよ」と有史はサラリと言ってのけたのだ。
 今度は千里が頬を染める番だった。
 有史と目が合うと、一度は落ち着いていた彼の頬がふたたび上気する――二人揃って真っ赤になって俯いた車内には、伊藤の失笑が響いていた。


   * * *


 伊藤の失笑が響く中、車は目的地へとひた走る。そんな中で、創史が突然口を開いた。

「有史、葉ちゃんに少し遊んで貰ったらどうだ?」

 有史は顔を上げると、すぐさま兄の言葉に反応した。

「あ、遊んで貰うって何ですか。俺はいい加減なお付き合いは絶対にしませんよ」
「いや、葉ちゃんと交際しろなんて誰も言ってないんだが……? 葉ちゃんに友達になって貰って、女に免疫めんえきがないのを克服する手伝いをして貰ったらどうだという意味だ。葉ちゃんに慣れれば、他の女にもうまく接することができるようになるんじゃないか? ちなみに葉ちゃんは恋人募集中だそうだ。立候補したらどうだ? ん?」

 有史は兄にハメられたような、何ともいえない微妙な気持ちになりながら、自分の隣でうつむいている小柄な人に視線を落とした。綺麗な栗毛の前髪からのぞくまつ毛が長い。
 彼女もどう反応していいのか困っているように見える。ようやく上がった視線は困惑を宿し、びのない表情は、有史に好感を持たせた。彼女は素直な人間なのだろう。

「はいはい、オトモダチから始まる恋。イイじゃないですかあ~。僕ともオトモダチになってくださいよぉ~葉鳥ちゃん? ああ、千里ちゃんでいい? この中じゃ僕が一番安心安全ですよぉ~」

 煮えきらない有史をからかったのか、それともき付けたつもりなのか、伊藤が千里に携帯の赤外線通信を求める。断る理由を思いつかなかったのか、彼女は馬鹿正直に携帯を取り出した。

「まあ、伊藤君はいろんな意味で安牌あんぱいだな」

 創史は愉快そうに笑いながら、有史の肩を押した。

「お前は少々危険牌きけんはいになったらどうだ?」
「なっ……俺も十分安全ですよ。そういう兄さんが一番危険そうだと思いますけどね」
「余計なこと言うなよ。俺が葉ちゃんに警戒されるじゃないか」

 創史さんは超安全です、と千里が笑うと、有史は苦笑いしながら、兄が何かやらかしたらすぐに自分に言ってください、とっちめますから、と彼女と携帯の赤外線通信を交わした。

「俺をダシにしないと連絡先も交換できないのか。チキンめ。まあ、せいぜい頑張れよ」

 高みの見物を決め込む創史に笑われ、有史は自分が兄の手の平の上で踊らされているような気がした。


   * * *


 トリロジー三号店は、白を基調としたタイル張りの壁と、モダンなステンドグラスが印象的な外観だった。
 日はすっかり落ち、辺りは暗い。店の前の照明はまだオープンしていないこともあって、すべて消されている。千里は目を細めながら車から降りた。
 駐車場から店の入り口までは一直線なのだが、千里はなかなか車の側を離れることができなかった。彼女の目には店内から漏れる明かりと、脇の国道を走る車のライト、そしてそれらの光に照らされるわずかな範囲しか見えていなかったからだ。
 千里は夜盲症やもうしょうだった。
 夜盲症とは暗い場所に限って極端に視力が低下する症状で、彼女は先天的にそれをわずらっていた。普通ならだんだん暗闇に目が慣れてきて周りが見えるようになるのだが、夜盲症の彼女には、まるで黒いベールを掛けているように見えてしまうのだ。
 まったく見えないわけではないが、視界が悪いためにぶつかったり、蹴つまずいたりする。ちなみに明るい場所なら、視力に何の問題もない。
 だから勝は、いつも千里をアパートまで送り届けてくれていたのだった。夜遅くなる時は、いつでも迎えに行くと言い、この六年間それを有言実行して、別れても彼女の帰宅時間を気にかけていた。
 千里が騒がしい駅前のアパートに住むのも、夜遅くなっても周囲が明るく、歩く距離が短くてすむのが理由だ。
 彼女は自分の目のことを、勝以外に話していなかった。というのも学生時代に、彼女の目のことを知った男から、暗い倉庫に引きずり込まれたことがあったからだ。その時は、運よく通りすがりの人に助けられて難を逃れたが、それ以来千里は自分の目のことを人に知られるのが怖くなってしまった。
 駐車場が暗いことに内心びくつきながら、わずかな明かりを頼りに千里は一歩一歩足を進めた。
 自分を引っ張ってくれるあの温かい手はもうないのだから、一人で歩かなくては。一番信頼していて、一番大事で、一番好きだった彼の手はもう……
 創史の隣に寄ろうとすると、千里はうしろから突然、腕をガシッとつかまれた。

「ひゃっ!」
「危ない!」

 有史だった。

「千里さん、そこに溝があります」
「え……あ、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ申し訳ない。オープン前なので、駐車場の明かりもすべて消しているんです」

 千里は彼が自分のことを「千里さん」と下の名前で呼んだことに気が付いたが、あえて何も言わなかった。伊藤も自分を下の名前で呼ぶと言うし、千里も彼のことを下の名前で呼んでいるのだ。お互いに深い意味はない。
 とにかく今は、溝にハマって派手にすっ転ぶという失態を阻止してくれた有史に感謝しながら、同時にホッとしていた。ここまで暗ければ、つまずいたとしても違和感はないはずだ。

「千里ちゃん~、安牌あんぱいの僕がおてて繋いであげようかあ~?」

 伊藤が下卑た笑いと共に馴れ馴れしく肩を抱いてくるから、千里は顔を引きつらせて創史のうしろに回った。

「い、今、伊藤さんが超危険人物に見えました!」
「あれぇ、千里ちゃんって何か面白そうだからあ~。たまには女のコの相手でもしよっかなあ~って思ったのがバレたあ~?」

 ゲイだと思っていた伊藤が、実は女もイケることに戦慄せんりつしながら「どこが安牌ですか!」と千里は思いっきり突っ込んだ。

「ウフフ、冗談だよぉ~千里ちゃん。そんなに警戒しないでぇ? 僕がプロデュースしたお料理食べて、機嫌直してよぉ~」
「プロデュースって……伊藤さんはコックさんなんですか?」
「まあね~。でも厳密に言えば僕はシェフ・ド・キュイジーヌ。総料理長だよぉ~。料理プロデューサーも兼ねてまあ~す。何だと思ってたのぉ?」

 総料理長と言えば、料理長よりもさらに格上。複数店舗のシェフをまとめるトップだ。どう見ても二十代前半にしか見えない、しかもピアスのせいでチャラい印象がぬぐいきれない伊藤が総料理長とは思えない。
 彼の肩書きに驚きつつ、千里が伊藤さんはただの変人さんかと思っていました、とのたまうと、創史がどっと吹き出した。

「傑作だよ、葉ちゃん! あー変人ってー」
「伊藤を的確に表現してますね」

 腹を揺すって笑う兄と、笑いを噛み殺す弟。そんな橘兄弟を前に、ポリポリと首をいた伊藤が、店に向かって千里の背中を押した。

「変人で結構! 僕の味を思いしれ! おーっと、僕の身体の味じゃなくて、料理の味だぞ。勘違いすんなよ?」
「か、勘違いなんかしませんよっ!」

 伊藤の口調が少し変わったことに千里が気が付いたのは、店の中に入ってからのことだった。


 先頭切って歩く有史に案内されながら、千里は創史と共に彼の自慢の店内を見回した。伊藤は、ちょっと厨房ちゅうぼうを見てくる、と言い残して奥に引っ込んだ。人は見かけによらないとはこのことだ。彼は一体何歳なのだろう? さすがに二十代前半ではないだろうが、年齢不詳にもほどがある。
 白、黒、赤を取り入れた店内は非常に落ち着いていたが、千里は何だか居心地が悪かった。高い天井から、各テーブルに吊ってあるシンプルな暖色のライト。テーブルは清潔な白のクロスに包まれ、アクセントに赤のテーブルランナーが中央に走る。さり気なく置かれたキャンドルがムーディだ。
 洗練されたと言えば聞こえはいいが、隙がない。完璧過ぎる空間は、人を拒絶しているような気さえした。

「いかがですか?」
「うん。いいんじゃないか? モダンテイストで。葉ちゃんどうだい?」
「隙がなさすぎて、くつろげないというか……緊張しますね」


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