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とある狼騎士の恩返し
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あの日、夏至の夜、マーシャは美しい獣に恋をした。
国力の長じた大国が近隣の小国を併合することは群雄割拠の時代には良くあることだ。
逆しまに小国が大国を平らげるとなると途端に話は夢物語か机上の空論とされるのも権謀術数が飛び交う国取り盛んな世の常の倣いであった。
だがそうした世の常たる倣いを覆し大国を見事に平らげた小国が大陸の北にあるとされる。
小国の名はジャルノ公国。
そして夢物語を形にした立役者はラフシャーン・ゴルグ・マフシードという一人の傭兵であると言う。
――――北の小国ジャルノ公国が誇るチャルニピェス騎士団
国防から首都の治安維持までこなす騎士団員の朝は時告げ鳥が鳴くよりも早い。
「今日は一段と力の入った点呼だと思わないマーシャ。」
朝の澄んだ空気に木霊する騎士団員の点呼の声を聞きながら、同僚と兵舎横に併設された食堂裏で食事の仕込をするマーシャと呼ばれた小麦色の髪の少女は苦笑を溢した。
「仕方ありませんよ、なにせ久方ぶりに国境警備に出ていたラフシャーン団長が首都に戻って来て騎士団員に訓練をわざわざ着けてくれると言うのですから。」
小国ジャルノを救った英雄として知られるラフシャーンという人は騎士団に所属する全ての人間にとって憧れの存在であり。
マーシャにとっては決して忘れられない命の恩人だった。
「あら、噂をすれば厩に団長が居られるわよマーシャ。」
朝靄の中を食堂裏に程近い場所にある騎士団の厩で馬と馬具の具合を確かめている人影に、思わずマーシャは手にしていたじゃがいもを地面に落としながら立ち上がる。
白煙る靄の中にあっても目に映える夜のように艶めく黒髪に滑らかな褐色の肌を持った麗人が頭部に生えた黒く厚みのある短毛に覆われた狼の耳を動かして振り返り。
「―――――あ、」
マーシャを見て金色の瞳を細めた気がして、咄嗟に背にした食堂の裏口に身を潜ませて赤くなった顔を膝に埋めて隠すと跳び跳ねる心臓を彼女は押さえた。
「マーシャったらせっかく団長に声を掛ける機会だったのに良いの?」
背から聞こえる同僚の声に自分が団長に声をお掛けするなんておこがましいですよとマーシャは悲鳴を上げた。
「もうマーシャってば何時もそれなんだから!」
たまには騎士団の兵舎にまで団長目当てに押し掛ける街娘を見習いなさいなと発破を掛ける同僚にマーシャは小さく唸る。
(そりゃあ私だって団長とお話してみたいですよッ!?)
でもラフシャーン団長を前にすると緊張が昂って話をするどころか顔を見ることさえも出来ないのだ。
(――――だって仕方ないじゃないですか、私にとってラフシャーン団長は恩人で初恋の人なんだから!!)
今から五年前ジャルノ公国は三方を河に挟まれた肥沃な土壌を有することから長きに渡って諸外国の侵略に脅かされる立場の危うい国だった。
河向かいには軍事国家や異文化を有する貿易都市があり、何時その国々に滅ぼされても可笑しくはなかった。
事実ジャルノ公国は何度となく戦火で焼かれた歴史を持ち生々しい傷が公国の各地に刻まれている。
しかし遥か南に位置する大国アルゼンタムから一人の青年が一族郎党を率いてジャルノ公国を訪れたことにより国を取り巻いていた状況は一変することになる。
人間の身体に狼の耳を頭部に戴く獣人の青年ラフシャーン・ゴルグ・マフシード。
軍備に乏しく又度重なる戦で国力が著しく低下していたジャルノ公国の現状を知ると、彼は自分達一族を傭兵として雇わないかと公国の君主に契約を持ち掛けた。
とある事情からアルゼンタムの王家に追われる立場となった一族の受け皿を探していた彼は傭兵として雇われる代わりに公国に庇護を求めたのだ。
南の大国アルゼンタムのマフシード家と言えば北の小国であるジャルノでも話題に上がるほど優れた軍事力を保持することで名高い一族だ。
如何なる理由によりアルゼンタムから離反し王家に追われることになったのかは定かではないが、今彼らを逃せば公国を待っているのは滅びだけ。
しかしアルゼンタム王家に弓引いた一族を取り込むことで彼の大国に睨まれるのではと不安要素に考えあぐねていたジャルノ公国の君主にラフシャーンは肩を竦めたという。
「王女曰く、俺は不出来な模造品らしいからな。」
たかだか模造品にあの女が国を動かすほどの労を割くとは思えん。
その点について問題はないと確約されたことにより藁にもすがる想いでジャルノはマフシード家の代理当主ラフシャーンの要求を飲むことになる。
結果的にその判断はジャルノ公国を救うことへと繋がった。
ラフシャーン率いる傭兵マフシード一族は少ない兵力を効率的に活用する術に長けており、また老若男女問わず一騎当千に値する強者達だったのだ。
戦に出れば負けなしと目覚ましい成果を挙げるラフシャーンは一方で度重なる戦により失われた騎士団員の補充を行って騎士団の再編成と強化に乗り出した。
しかし騎士団の欠員補充と再編成は困難を極めることになる。
国中からかき集められた人員は殆どが親兄弟等の親族や夫を戦に取られたか村を焼け出されて行く宛を失った農家や商家の女達だったからだ。
彼女達は騎士団に入りさえすれば当座の暮らしが保証されるだろうという一縷の希望にすがるように地方から集まって来たのだ。
小麦色の髪を持つ少女マーシャ・コッペリアもまた多くの女達と同様の理由で騎士団に入団を決意した一人である。
マーシャが初めてその人を見たのは騎士団の入団申請を行っていた仮設兵舎だった。
人員の少ない騎士団故に団長自らも立ち働き、ひっきりなしにやって来る入団希望者を相手にしていたのだ。
(獣人の方なんて初めて見た。)
金髪碧眼の多いジャルノの人々と異なりラフシャーンは夜のような艶のある黒髪に東方の血が流れているのか褐色の彫りの深い端正な顔立ちに狼の獣人特有の特徴的な耳を頭部に持っていた。
マーシャは眉間に刻まれた峡谷のような皺と獲物を品定めするような険しい金色の切れ長の瞳さえなければ百人中百人が振り返る美貌なのにと人の垣根越しにラフシャーンを見ていると不意に金色の瞳と視線があったような気がして慌ててその場で俯いた。
どういう訳かラフシャーンの視線は暫くの間マーシャの頭上に留まり適正を見るためにと面談が行われる別室に彼女が向かうまで視線が途絶えることはなかった。
マーシャが初めに抱いたラフシャーンの印象はなんだか凄いけど怖い人と言う色気もなにもないものだった。
なにはともあれジャルノから集まった人員三千名とラフシャーンが率いるマフシードに連なる一族約五千名を合わせチャルニピェス騎士団は発足するに至る。
適正を見て幾つかの部隊に振り分けられたマーシャ達はそれで晴れて騎士団員になった訳だが、剣よりも鍬か算盤を握っていたような彼女達の訓練はラフシャーンに取って決して容易ではなかった筈だ
だがラフシャーンは落胆することなく身分や性別の差違は関係ないと言うように根気強く身体の捌き方から剣の運び方など戦のイロハを騎士団員に別け隔てなく教えた。
木剣の素振りさえも覚束なかったマーシャ達を彼は指導し続け二年の月日が経つ頃にはジャルノ公国の国境を一万の兵力で侵した烏の紋章翻る隣国ヴァローナ帝国を相手に勝利を勝ち得るまでにマーシャ達を変えてみせた。
そして更に二年が経つ頃には明日をも知れぬ小国だったジャルノ公国は決して陥せぬ独立国として近隣諸国に広く知られるまで成長を遂げる。
それに伴ってラフシャーンは正式に傭兵から騎士に叙勲され自身が鍛え上げた騎士団を連れて前線を駆け回るようになった彼は何時しか救国の英雄と国内外問わず呼ばれるようになった。
叙勲された時も救国の英雄と呼ばれた時も相変わらず眉間に刻まれた峡谷の深さは変わらずらしく、仏頂面で日々成すべきことを成すだけだと生真面目にラフシャーンが溢していたと同僚から聞き及びマーシャはお堅い人なんだなぁと初めて好意らしい好意を持った。
そんなラフシャーンに自分が死地から救われることになるとは思いもせずにお近づきになりたいわとはしゃぐ同僚にマーシャはものずきだなぁと苦笑を溢した。
しかしそれは忘れもしない、一年前の酷く空が青かった夏至の頃。
ラフシャーンと彼が率いる騎士団に大敗を既したヴァローナ帝国が雪辱を晴らさんと開戦の布告なくジャルノに攻め行って来たことで彼女の運命は転がりだす。
国境警備を担っていた小隊の伝令が死に体でジャルノ公国の首都ザフトに持ち帰った報せを聞くやラフシャーンは直ぐ様チャルニピェス騎士団を引き連れて前線へと向かった。
そこで待ち受けていたのはおびただしい数のヴァローナの軍勢。
国境で待ち受けいた凡そ五万の兵士を有するヴァローナに対してマーシャ達ジャルノ公国チャルニピェス騎士団の総数は予備騎士を入れて僅か八千名に届くか否か。
「足りないな。」
今度こそジャルノ公国は大国に敗れると誰しもが脳裏に最悪の結末を過らせる中。
しかしラフシャーン団長は壮絶な笑みを湛えて笑っていた。
「――――我が騎士団を討ち滅ぼすには些か数が足りぬぞヴァローナ帝国!!」
押し寄せるヴァローナ帝国の兵を前に騎士団の中央から悠然と馬を進ませると息を飲む騎士達に彼は高らかに告げたのだ。
「あまり見くびってくれるなよ。」
俺はたかが五万の兵に敗けるような柔な鍛え方を諸君らに施してはしていない。
「俺が鍛えた騎士団を甘く見られては困るな、例えそれが諸君ら騎士団の者達でもだ。」
我が騎士団を甘く見たツケをその身でヴァローナには払って貰おうじゃないか。
気焔を背より立ち上らせながらラフシャーンは空気を震わし咆哮を戦場に轟かす。
「さあ、チャルニピェス騎士団の淑女諸君。」
ラフシャーンの金色の瞳にあるのは絶対的な勝利の確信と自身が鍛え上げたマーシャ達騎士団への揺るぐ事のない信頼。
風塵に黒髪を軍旗のように靡かせて救国の英雄は獰猛に笑う。
「此度も勝ちに行くとしようか。」
先陣を疾風の如く駆け抜けるラフシャーンの背中をマーシャ達はただ夢中で剣を掲げて追い掛けた。
その時にはもう彼女達の頭を占めていた敗色の気配は微塵もありはしなかった。
前を行くラフシャーンの姿がヴァローナの兵士らの波が呑みこんだ刹那に響き渡ったのは大地を割るような轟音。
一拍の間の後に宙を舞ったヴァローナの兵士達は何が起こったのか判然としないまま地に叩きつけられて息の根を止めた。
まるで旋風のように地面は抉られ数百にも及ぶ兵士が宙を舞い打ち倒されていく。
「これは全部ラフシャーン団長が?」
かつて子供の頃に誰しもが憧れ胸を焦がした英雄譚の一幕のように狼の獣人としての本性を現すが如く裂けた瞳孔で数千先の敵将を睨み付けながら腕の一薙ぎ爪の一掻きで地を割るラフシャーンの姿にマーシャ達は目を見開いた。
疾駆する美しい獣の雄姿にマーシャ達は後に続けとばかりに勝鬨の声を口々に挙げた。
戦いは夜にまで縺れ込み辺りを塗り潰すような闇が広がる中でマーシャは味方を見失い一人途方に暮れていた。
(小隊長に方向音痴なんだから一人になるなって言われてたのに。)
乱戦の最中で気がつけば前線から弾かれていたらしく、幾ら見渡しても味方の姿は何処にもなかったのだ。
(そう言えばこういう時は確か星の位置で方角を見るってラフシャーン団長が訓練の時に言ってたような。)
日が暮れたことも相俟って居場所すら判別着かないとマーシャは疲労を訴える体を無理矢理動かしてとりあえずはと前に進んだ。
じっとりと滲んだ汗で服が肌に張り付く感覚にマーシャは忘れていた夏の暑さを思いだし小さく身震いをした。
「――――ッ良かった、向こうに明かりが見える。」
一刻も早く仲間の下に向かわなければと焦りで逸る思考は星の位置から割り出した方角とは真逆の位置に見えた篝火の光を。
「ヴェローナの、国旗?」
味方のそれとマーシャに見誤まらせた。
やっと仲間と合流出来ると篝火に無警戒に近づいたマーシャの腕を、まるで赤く火で熱された焼き鏝を突如押し付けられたような激烈な痛みが走り抜け彼女は悲鳴を咄嗟に押し殺した。
(間抜けにも程があるわよ、マーシャッ!!)
瞬間篝火を中心に地を炎が走り辺りを煌々と照らし出したことで、自分が何時の間にかヴァローナの兵士らに囲まれていたことをマーシャは悟り焦燥に歯噛みする。
腕を掠めた矢には毒が塗られていたのか、痺れに震える腕を押さえて噴き出すように脂汗が滲む中で呼吸すら痛みで奪う有り様に否が応にも死を突き付けて来る。
(やだ、や、逃げなきゃいけないのに!!)
四方から引き絞る矢羽の音は迫り来る死神の衣擦れの音のように思えて粟立つ肌と濃密な殺意の気配にマーシャは死を覚悟した。
美しい獣が夜闇裂いてヴェローナの包囲を薙ぎ払うまでは。
「――――ッ無事か、マーシャ・コッペリア!!」
しなやかな獣の肢体を想起させる細身の鍛えられた体躯はマーシャが夢中で追い掛けたその人のそれ。
「ラフシャーン団長!!」
(助けに、ラフシャーン団長が助けに来てくれた!!)
泣き出しそうな彼女の様子に目を微かに見張りラフシャーンはマーシャを抱き抱えると彼の出現で包囲を狭めたヴァローナの兵士の頭上高くに飛び上がり夜の闇に紛れるように駆け出した。
「俺の肩に確り掴まっていろ、これより戦場を離脱するッ!!」
風を切り目で追うことも不可能なほどの速さで戦場を駆け抜けるラフシャーンの背中には本来ならマーシャを襲う筈だった猛毒の矢が無数突き出ていた。
やがて戦場から離れた森の中程にある廃村でラフシャーンは彼女を腕から降ろすと苦し気に顔を歪めて地面に膝を着き荒く息を吐く。
「ラフシャーン団長ッ!!」
咄嗟に受け止めたラフシャーンの体は燃えていると錯覚するほど熱く明らかに矢から受けた毒が彼を体内から蝕んでいた。
(私が、私が戦場で仲間からはぐれさえしなければッ!!)
私のせいだと自分自身を責め唇を噛み締めた彼女に気づき緩慢にラフシャーンは顔を上げ、マーシャ・コッペリアと彼女を呼んだ。
「戦場は冷静な思考を失わせるもの。」
貴女が気に病むことは何一つありはしない。
責めるとしたら部下の不在に直ぐに気づかなかった上官たる俺こそが真に責められなければならないだろう。
「良くぞ一人死地に臨みながら生き抜いた。」
此処から半刻程東に歩いた先で騎士団が陣幕を張っている。
「すまないが此処から先は貴女だけで行ってくれ。」
「団長は、ラフシャーン団長はどうするんですかッ!?」
肩に手を掛け立ち上がり離れようとする団長の手を掴むマーシャに負傷した身では足手まといになるだけだと廃屋に凭れ掛かり身振りで先に行けと伝え目を閉ざすラフシャーンから。
マーシャは迷った末に背を向け勢い良く転がるように駆け出した。
森を駆けてから半刻ほど経った頃、比較的原型を留めている廃屋の一室でマーシャはラフシャーンの傍らで薬草を煎じていた。
苦味のある薬草の匂いで意識を取り戻したのか寝台からラフシャーンが微かに呻きながら起き上がる。
「――――どうして逃げなかった。」
応急手当の為か布を引き裂いて作られたと思しき包帯が巻かれた上半身にラフシャーンは惑うようにマーシャに言葉を掛ける。
「団長を射抜いた矢に塗られていた毒はジャルノでは鳥落としと言われるもので身体に回るのが酷く早いんです。」
解毒するのが遅ければ遅いほど後遺症が残るので早めに解毒する必要があったと言い切ったマーシャにラフシャーンは良く矢に塗られた毒がそれだと分かったなと首を傾げながら寝台の背凭れに半身体を預ける。
「私は農家の出身で小さい頃に猟師だった父に教えて貰ったことがあるんです。」
見分け方は独特の花のような甘い香りで少量なら強心剤や香水にもなることからジャルノや近隣の国では割りと良く使われる身近な毒だとマーシャはラフシャーンの体から取り出した鏃を手渡した。
「確かに、花の匂いがするな。」
目をすがめるようにして鏃を眺めるラフシャーンにマーシャは頷く
「団長は多量に毒を摂取してしまったので助けを呼ぶよりも先に解毒しないといけないと思ったんです。」
幸いなことにこの廃村がある森には解毒に使える薬草が多数群生していましたからと告げたマーシャにラフシャーンは疑問を溢す。
「君が敢えて廃村に踏み留まった理由は理解したが、俺は意識を失っていた筈だ。」
医療器具が見られないとあれば解毒薬は経口摂取に限られる。
ラフシャーンはどうやって解毒薬を飲ませたと言い掛け服の裾を掴み顔を赤面させたマーシャに気づき頭部の耳を忙しなく動かしながらまさかと目を見開いた。
「どうやら貴女には返しようもない程の恩を受けてしまったようだ。」
顔を片手で覆い狼狽するラフシャーンにマーシャは首を振った。
「い、いえ、あの私こそなんとか解毒しないといけないと思って後先考えずに行動してしまい申し訳ありませんでした!!」
「寧ろ俺の方こそ謝罪をしなければならない、貴女には何の非もありはしないのだから。」
そうは言うが依然としてふるふると震える黒い被毛に覆われた厚みのある耳がマーシャにラフシャーンが酷く動揺していることを如実に伝えてくる。
しかしややあってラフシャーンは居ずまいを正すとマーシャに深く頭を垂れた。
「貴女から受けた恩はこの身を持って必ず報いよう。」
躊躇うことなく誓いを彼女に述べる彼にマーシャは慌てて自分がしたことは団長がわざわざ誓いを立てるほどの大それたことじゃないと左右に勢い良く顔を振り。
「危ないマーシャ!」
首を振りすぎて目を回し体勢を崩したマーシャをラフシャーンが慌てて抱き留めると二人は存外に近い顔の距離に揃って顔を赤くしてギクシャクと間合いを取る。
「軽微とは言え貴女も毒を受けたんだ。」
どうかあまり無茶はしてくれるなと頭上から降るラフシャーンの声にマーシャは心臓を跳ね上げた。
「あ、ありがとうございます団長。」
流れる気まずい空気にマーシャが何かを言わなければと口を開くよりも先に音を立てたものがあった。
どこか物悲しい音を立てて空腹を強く訴えるお腹にマーシャは羞恥で身悶えた。
(よりにもよってこんな時にお腹を鳴らすなんて私のお馬鹿ッ!!)
絶対ラフシャーン団長に呆れられていると涙目で服を掴むマーシャの耳に、けれども飛び込んで来たのは柔かい笑い声だった。
「無作法な腹ですまないマーシャ。」
何分朝から飲まず食わずで来たものだから情緒もなく腹を鳴らしてしまったと告げるラフシャーンに、今のは私がと顔を上げたマーシャに彼は口元に指を人差し置き密やかに微笑んだ。
「俺には愛らしい人を見て腹を空かせる悪い狼の性があるんだ。」
だからそうあまり無防備にされていると空腹に耐えかねて君を頭から食べてしまうかもしれないな。
悪戯っぽく深みのある金色の瞳で彼女を見詰めるラフシャーンに寸の間マーシャは言葉を見失った。
寝台横の窓辺から差し込む月明かりに照らされ顔の片側を影に隠したラフシャーンの金色の瞳には羞恥とは違う熱で顔を赤く染めたマーシャが呆然と彼を見詰めていた。
「団長、も冗談を口にするんですね。」
マーシャが絞り出した言葉にラフシャーンは冗談だと思うならそう思えば良いと金色の瞳で彼女を射竦める。
「ただこれだけは覚えておいてくれ。」
貴女が消えたと小隊長から聞かされた時は心臓が潰える思いをしたことだけは。
マーシャの頬に触れ額を合わせると苦し気に吐息を溢したラフシャーンに彼女は息をすることさえも出来ないほどの息苦しさに胸が襲われた。
「ヴァローナの敵兵に囲まれ血を流す貴女を見て思考が焼き切れる音を聞き、一人残らず首を刈り取らなければ気がすまない程の衝動に襲われたことを。」
耳を掠める声音に肩を跳ねらせマーシャはラフシャーンを見上げ震える息を溢す。
「···今夜は、ここまでだな。」
微かに濡れた切れ長の金色の瞳がふと近づき、外から二人を探す騎士団の声を聞き咎め吐息と熱だけを胸に残しマーシャから離れた。
それからずっと一年前の夏至のあの夜からマーシャの胸に灯った熱は消えないまま残り続けている。
「マーシャッ!!」
貴女ったらじゃがいもをどれだけ剥けば気が済むのよッ!?
その声で漸く意識を浮上させたマーシャが慌てて周りを見れば裸に剥かれたじゃがいもが無惨にも山となって散らばっていた。
「やっぱりマーシャにはショックよね。」
「ショックってなんのことですか?」
大量のじゃがいもをどうしようかと悩むマーシャに同僚は聞いてなかったのとエプロンで手を拭うとラフシャーン団長がお見合いすることよと腰を伸ばしながら口にする。
「ラ、フシャーン団長がお見合いを?」
その言葉にマーシャは金槌で頭部を叩かれるような衝撃に襲われた
「本当は騎士に叙勲された時に打診があったんだけど随分と返事を引き延ばしていたみたいよ。」
言い方は悪いけれど元は傭兵であるラフシャーン団長をジャルノに縛り付ける為に手頃な娘と縁付けてしまいたらしいわ。
「ってそう言えば貴女もお見合いを小隊長に薦められてたわよね」
先輩の声が頭の中で反響して上手く聞こえない。
(ラフシャーン団長がお見合いする。)
それだけのことが酷く残酷なことのようにマーシャの胸を鉛のように重くさせた。
酷い顔色だからと兵舎の自室に返されたマーシャはベッドに顔を埋めて縮こまりながら繰り返しラフシャーンのことを考えていた。
枕元には兵舎に戻る時に直属の上司である小隊長から手渡されたマーシャのお見合いの釣書が開かれずに置かれている。
それはなんだが見込みのない恋に対する最終勧告のようで笑いたくもないのに笑いが込み上げて来る。
(分かっていたことじゃないマーシャ!!)
ラフシャーン団長が彼女には決して手の届かないところにいる人である事ぐらい。
(それでも私はラフシャーン団長を好きになってしまった。)
あの一年前の夜からずっとマーシャはラフシャーンを陰ながら想い続け来たのだ。
(この恋が叶うだなんて。)
そんな大それたことは思ってなんかいなかったけれど想うだけなら許されるんじゃないかと遠くから見えるラフシャーンを目で追っては胸を高鳴らせた。
けれどもし本当にラフシャーン団長がお見合いをし誰かと結ばれるのならば――――
(それも、もうやめなきゃいけない。)
「ならばせめて後一度だけ勇気を出してラフシャーン団長に会いに行こう。」
会ってそれからこの恋に終止符を打とう。
(だから少しだけ、あと少しだけはラフシャーン団長を想って泣くことを許して下さい。)
けれど現実は非常だと和気藹々と自分を飾り立てる同僚と小隊長にマーシャは複雑な面差しで見詰める。
マーシャが悲壮な思いでラフシャーンへの片想いに終止符を打つと意気込んだことなど知りもせず同僚と小隊長の二人はやれ紅は明るい色をだとか髪飾りはドレスに合わせてと楽しげに話し合っている
二人に今朝早くお見合いだと兵舎の自室から拐うように連れ出されたマーシャは、騎士団に入る前のただの農家の娘であったならば憧れたような綺麗なドレスを着せられてジャルノ公国の君主がわざわざ提供したと言う洋館の化粧室に座っていた。
(釣書きを見ないで居たから分からないけれど、一体どれだけ凄い人とお見合いさせられるんですか私はッ!?)
困惑しながらも思わず身に包む艶やかなドレスにマーシャはどうせならラフシャーン団長に見て貰いたかったなと呟いた。
(少なくとも今の格好ならラフシャーン団長の記憶に残りそうだもの)
どうせなら少しでも綺麗な形でラフシャーン団長の記憶に留まりたいと思う自分にマーシャはため息をついた。
(だなんて、叶わない恋を終わらせようとする人間の思うことじゃないですよね。)
けれどもお見合いは踏ん切りとしては良いかもしれないと一人頷くマーシャにドレッサーの向こうの小隊長が目を瞬かせた。
「もしかして釣書きを見ていないとか言わないよねマーシャ?」
頬をひきつらせる小隊長に承けるつもりがなかったのでと口ごもるマーシャに彼女は絶対にそれを相手に言っちゃダメよと肩を掴む諭しだす。
「あの人、仏頂面の癖に器用に落ち込むから!!」
一年前の告白があまり通じていなかった上に貴女に避けられまくったせいで地に最早沈む勢いなのだと小隊長の良く分からぬ声援に押され見合い相手が居る中庭にマーシャは首を傾げながら向かった。
夏至の澄んだ陽の光で朝露が煌めく中庭に降りたマーシャを待ち受けいたのは。
「――――どうして貴方が此処に。」
騎士の正装に身を包む彫りの深い褐色の端正な顔立ちに特徴的な艶やかな黒髪と揃いの肉厚な狼の耳
そしてマーシャを射竦めるような切れ長の金色の瞳をしたラフシャーンがそこにはいた。
「一年前の恩を貴女に返しに来た。」
いや恩返しと言うよりも恩の押し付けに来たようなものかとラフシャーンは戸惑いに揺れるマーシャに歩みより膝を着く。
「マーシャ・コッペリア、貴女を俺の生涯の伴侶に迎えたい。」
目の前の光景が信じられなくてマーシャは都合の良い夢じゃないですよねと声を震わせ頬を捻った。
つねっても痛いと頬を押さえたマーシャにラフシャーンは夢にされては困るなと苦笑を溢した。
「もしも貴女に一欠片でも俺に対して想う心があるなら応えてはくれないか。」
そうして差し出されたラフシャーンの手をマーシャが拒むことなど出来はしなかった。
「ラフシャーン団長、ラフシャーン団長!!」
手から伝わる確かな熱が、彼女を見上げる金色の瞳の熱がこれが夢じゃないと教えてくれたから。
「ずっとずっと一年前の夏至のあの夜から貴方が好きでした!!」
堪えきれずに溢れたマーシャの涙を拭うようにラフシャーンは彼女を抱き締めて蕩けるように切れ長の金色の瞳を細めて誓いを新たに囁いた。
「この命果つる時まで我が身と終生変わらぬ忠誠を貴女とジャルノ公国に捧げよう。」
そうしてマーシャは恋い焦がれ続けた美しい獣を手に居れたのだ。
国力の長じた大国が近隣の小国を併合することは群雄割拠の時代には良くあることだ。
逆しまに小国が大国を平らげるとなると途端に話は夢物語か机上の空論とされるのも権謀術数が飛び交う国取り盛んな世の常の倣いであった。
だがそうした世の常たる倣いを覆し大国を見事に平らげた小国が大陸の北にあるとされる。
小国の名はジャルノ公国。
そして夢物語を形にした立役者はラフシャーン・ゴルグ・マフシードという一人の傭兵であると言う。
――――北の小国ジャルノ公国が誇るチャルニピェス騎士団
国防から首都の治安維持までこなす騎士団員の朝は時告げ鳥が鳴くよりも早い。
「今日は一段と力の入った点呼だと思わないマーシャ。」
朝の澄んだ空気に木霊する騎士団員の点呼の声を聞きながら、同僚と兵舎横に併設された食堂裏で食事の仕込をするマーシャと呼ばれた小麦色の髪の少女は苦笑を溢した。
「仕方ありませんよ、なにせ久方ぶりに国境警備に出ていたラフシャーン団長が首都に戻って来て騎士団員に訓練をわざわざ着けてくれると言うのですから。」
小国ジャルノを救った英雄として知られるラフシャーンという人は騎士団に所属する全ての人間にとって憧れの存在であり。
マーシャにとっては決して忘れられない命の恩人だった。
「あら、噂をすれば厩に団長が居られるわよマーシャ。」
朝靄の中を食堂裏に程近い場所にある騎士団の厩で馬と馬具の具合を確かめている人影に、思わずマーシャは手にしていたじゃがいもを地面に落としながら立ち上がる。
白煙る靄の中にあっても目に映える夜のように艶めく黒髪に滑らかな褐色の肌を持った麗人が頭部に生えた黒く厚みのある短毛に覆われた狼の耳を動かして振り返り。
「―――――あ、」
マーシャを見て金色の瞳を細めた気がして、咄嗟に背にした食堂の裏口に身を潜ませて赤くなった顔を膝に埋めて隠すと跳び跳ねる心臓を彼女は押さえた。
「マーシャったらせっかく団長に声を掛ける機会だったのに良いの?」
背から聞こえる同僚の声に自分が団長に声をお掛けするなんておこがましいですよとマーシャは悲鳴を上げた。
「もうマーシャってば何時もそれなんだから!」
たまには騎士団の兵舎にまで団長目当てに押し掛ける街娘を見習いなさいなと発破を掛ける同僚にマーシャは小さく唸る。
(そりゃあ私だって団長とお話してみたいですよッ!?)
でもラフシャーン団長を前にすると緊張が昂って話をするどころか顔を見ることさえも出来ないのだ。
(――――だって仕方ないじゃないですか、私にとってラフシャーン団長は恩人で初恋の人なんだから!!)
今から五年前ジャルノ公国は三方を河に挟まれた肥沃な土壌を有することから長きに渡って諸外国の侵略に脅かされる立場の危うい国だった。
河向かいには軍事国家や異文化を有する貿易都市があり、何時その国々に滅ぼされても可笑しくはなかった。
事実ジャルノ公国は何度となく戦火で焼かれた歴史を持ち生々しい傷が公国の各地に刻まれている。
しかし遥か南に位置する大国アルゼンタムから一人の青年が一族郎党を率いてジャルノ公国を訪れたことにより国を取り巻いていた状況は一変することになる。
人間の身体に狼の耳を頭部に戴く獣人の青年ラフシャーン・ゴルグ・マフシード。
軍備に乏しく又度重なる戦で国力が著しく低下していたジャルノ公国の現状を知ると、彼は自分達一族を傭兵として雇わないかと公国の君主に契約を持ち掛けた。
とある事情からアルゼンタムの王家に追われる立場となった一族の受け皿を探していた彼は傭兵として雇われる代わりに公国に庇護を求めたのだ。
南の大国アルゼンタムのマフシード家と言えば北の小国であるジャルノでも話題に上がるほど優れた軍事力を保持することで名高い一族だ。
如何なる理由によりアルゼンタムから離反し王家に追われることになったのかは定かではないが、今彼らを逃せば公国を待っているのは滅びだけ。
しかしアルゼンタム王家に弓引いた一族を取り込むことで彼の大国に睨まれるのではと不安要素に考えあぐねていたジャルノ公国の君主にラフシャーンは肩を竦めたという。
「王女曰く、俺は不出来な模造品らしいからな。」
たかだか模造品にあの女が国を動かすほどの労を割くとは思えん。
その点について問題はないと確約されたことにより藁にもすがる想いでジャルノはマフシード家の代理当主ラフシャーンの要求を飲むことになる。
結果的にその判断はジャルノ公国を救うことへと繋がった。
ラフシャーン率いる傭兵マフシード一族は少ない兵力を効率的に活用する術に長けており、また老若男女問わず一騎当千に値する強者達だったのだ。
戦に出れば負けなしと目覚ましい成果を挙げるラフシャーンは一方で度重なる戦により失われた騎士団員の補充を行って騎士団の再編成と強化に乗り出した。
しかし騎士団の欠員補充と再編成は困難を極めることになる。
国中からかき集められた人員は殆どが親兄弟等の親族や夫を戦に取られたか村を焼け出されて行く宛を失った農家や商家の女達だったからだ。
彼女達は騎士団に入りさえすれば当座の暮らしが保証されるだろうという一縷の希望にすがるように地方から集まって来たのだ。
小麦色の髪を持つ少女マーシャ・コッペリアもまた多くの女達と同様の理由で騎士団に入団を決意した一人である。
マーシャが初めてその人を見たのは騎士団の入団申請を行っていた仮設兵舎だった。
人員の少ない騎士団故に団長自らも立ち働き、ひっきりなしにやって来る入団希望者を相手にしていたのだ。
(獣人の方なんて初めて見た。)
金髪碧眼の多いジャルノの人々と異なりラフシャーンは夜のような艶のある黒髪に東方の血が流れているのか褐色の彫りの深い端正な顔立ちに狼の獣人特有の特徴的な耳を頭部に持っていた。
マーシャは眉間に刻まれた峡谷のような皺と獲物を品定めするような険しい金色の切れ長の瞳さえなければ百人中百人が振り返る美貌なのにと人の垣根越しにラフシャーンを見ていると不意に金色の瞳と視線があったような気がして慌ててその場で俯いた。
どういう訳かラフシャーンの視線は暫くの間マーシャの頭上に留まり適正を見るためにと面談が行われる別室に彼女が向かうまで視線が途絶えることはなかった。
マーシャが初めに抱いたラフシャーンの印象はなんだか凄いけど怖い人と言う色気もなにもないものだった。
なにはともあれジャルノから集まった人員三千名とラフシャーンが率いるマフシードに連なる一族約五千名を合わせチャルニピェス騎士団は発足するに至る。
適正を見て幾つかの部隊に振り分けられたマーシャ達はそれで晴れて騎士団員になった訳だが、剣よりも鍬か算盤を握っていたような彼女達の訓練はラフシャーンに取って決して容易ではなかった筈だ
だがラフシャーンは落胆することなく身分や性別の差違は関係ないと言うように根気強く身体の捌き方から剣の運び方など戦のイロハを騎士団員に別け隔てなく教えた。
木剣の素振りさえも覚束なかったマーシャ達を彼は指導し続け二年の月日が経つ頃にはジャルノ公国の国境を一万の兵力で侵した烏の紋章翻る隣国ヴァローナ帝国を相手に勝利を勝ち得るまでにマーシャ達を変えてみせた。
そして更に二年が経つ頃には明日をも知れぬ小国だったジャルノ公国は決して陥せぬ独立国として近隣諸国に広く知られるまで成長を遂げる。
それに伴ってラフシャーンは正式に傭兵から騎士に叙勲され自身が鍛え上げた騎士団を連れて前線を駆け回るようになった彼は何時しか救国の英雄と国内外問わず呼ばれるようになった。
叙勲された時も救国の英雄と呼ばれた時も相変わらず眉間に刻まれた峡谷の深さは変わらずらしく、仏頂面で日々成すべきことを成すだけだと生真面目にラフシャーンが溢していたと同僚から聞き及びマーシャはお堅い人なんだなぁと初めて好意らしい好意を持った。
そんなラフシャーンに自分が死地から救われることになるとは思いもせずにお近づきになりたいわとはしゃぐ同僚にマーシャはものずきだなぁと苦笑を溢した。
しかしそれは忘れもしない、一年前の酷く空が青かった夏至の頃。
ラフシャーンと彼が率いる騎士団に大敗を既したヴァローナ帝国が雪辱を晴らさんと開戦の布告なくジャルノに攻め行って来たことで彼女の運命は転がりだす。
国境警備を担っていた小隊の伝令が死に体でジャルノ公国の首都ザフトに持ち帰った報せを聞くやラフシャーンは直ぐ様チャルニピェス騎士団を引き連れて前線へと向かった。
そこで待ち受けていたのはおびただしい数のヴァローナの軍勢。
国境で待ち受けいた凡そ五万の兵士を有するヴァローナに対してマーシャ達ジャルノ公国チャルニピェス騎士団の総数は予備騎士を入れて僅か八千名に届くか否か。
「足りないな。」
今度こそジャルノ公国は大国に敗れると誰しもが脳裏に最悪の結末を過らせる中。
しかしラフシャーン団長は壮絶な笑みを湛えて笑っていた。
「――――我が騎士団を討ち滅ぼすには些か数が足りぬぞヴァローナ帝国!!」
押し寄せるヴァローナ帝国の兵を前に騎士団の中央から悠然と馬を進ませると息を飲む騎士達に彼は高らかに告げたのだ。
「あまり見くびってくれるなよ。」
俺はたかが五万の兵に敗けるような柔な鍛え方を諸君らに施してはしていない。
「俺が鍛えた騎士団を甘く見られては困るな、例えそれが諸君ら騎士団の者達でもだ。」
我が騎士団を甘く見たツケをその身でヴァローナには払って貰おうじゃないか。
気焔を背より立ち上らせながらラフシャーンは空気を震わし咆哮を戦場に轟かす。
「さあ、チャルニピェス騎士団の淑女諸君。」
ラフシャーンの金色の瞳にあるのは絶対的な勝利の確信と自身が鍛え上げたマーシャ達騎士団への揺るぐ事のない信頼。
風塵に黒髪を軍旗のように靡かせて救国の英雄は獰猛に笑う。
「此度も勝ちに行くとしようか。」
先陣を疾風の如く駆け抜けるラフシャーンの背中をマーシャ達はただ夢中で剣を掲げて追い掛けた。
その時にはもう彼女達の頭を占めていた敗色の気配は微塵もありはしなかった。
前を行くラフシャーンの姿がヴァローナの兵士らの波が呑みこんだ刹那に響き渡ったのは大地を割るような轟音。
一拍の間の後に宙を舞ったヴァローナの兵士達は何が起こったのか判然としないまま地に叩きつけられて息の根を止めた。
まるで旋風のように地面は抉られ数百にも及ぶ兵士が宙を舞い打ち倒されていく。
「これは全部ラフシャーン団長が?」
かつて子供の頃に誰しもが憧れ胸を焦がした英雄譚の一幕のように狼の獣人としての本性を現すが如く裂けた瞳孔で数千先の敵将を睨み付けながら腕の一薙ぎ爪の一掻きで地を割るラフシャーンの姿にマーシャ達は目を見開いた。
疾駆する美しい獣の雄姿にマーシャ達は後に続けとばかりに勝鬨の声を口々に挙げた。
戦いは夜にまで縺れ込み辺りを塗り潰すような闇が広がる中でマーシャは味方を見失い一人途方に暮れていた。
(小隊長に方向音痴なんだから一人になるなって言われてたのに。)
乱戦の最中で気がつけば前線から弾かれていたらしく、幾ら見渡しても味方の姿は何処にもなかったのだ。
(そう言えばこういう時は確か星の位置で方角を見るってラフシャーン団長が訓練の時に言ってたような。)
日が暮れたことも相俟って居場所すら判別着かないとマーシャは疲労を訴える体を無理矢理動かしてとりあえずはと前に進んだ。
じっとりと滲んだ汗で服が肌に張り付く感覚にマーシャは忘れていた夏の暑さを思いだし小さく身震いをした。
「――――ッ良かった、向こうに明かりが見える。」
一刻も早く仲間の下に向かわなければと焦りで逸る思考は星の位置から割り出した方角とは真逆の位置に見えた篝火の光を。
「ヴェローナの、国旗?」
味方のそれとマーシャに見誤まらせた。
やっと仲間と合流出来ると篝火に無警戒に近づいたマーシャの腕を、まるで赤く火で熱された焼き鏝を突如押し付けられたような激烈な痛みが走り抜け彼女は悲鳴を咄嗟に押し殺した。
(間抜けにも程があるわよ、マーシャッ!!)
瞬間篝火を中心に地を炎が走り辺りを煌々と照らし出したことで、自分が何時の間にかヴァローナの兵士らに囲まれていたことをマーシャは悟り焦燥に歯噛みする。
腕を掠めた矢には毒が塗られていたのか、痺れに震える腕を押さえて噴き出すように脂汗が滲む中で呼吸すら痛みで奪う有り様に否が応にも死を突き付けて来る。
(やだ、や、逃げなきゃいけないのに!!)
四方から引き絞る矢羽の音は迫り来る死神の衣擦れの音のように思えて粟立つ肌と濃密な殺意の気配にマーシャは死を覚悟した。
美しい獣が夜闇裂いてヴェローナの包囲を薙ぎ払うまでは。
「――――ッ無事か、マーシャ・コッペリア!!」
しなやかな獣の肢体を想起させる細身の鍛えられた体躯はマーシャが夢中で追い掛けたその人のそれ。
「ラフシャーン団長!!」
(助けに、ラフシャーン団長が助けに来てくれた!!)
泣き出しそうな彼女の様子に目を微かに見張りラフシャーンはマーシャを抱き抱えると彼の出現で包囲を狭めたヴァローナの兵士の頭上高くに飛び上がり夜の闇に紛れるように駆け出した。
「俺の肩に確り掴まっていろ、これより戦場を離脱するッ!!」
風を切り目で追うことも不可能なほどの速さで戦場を駆け抜けるラフシャーンの背中には本来ならマーシャを襲う筈だった猛毒の矢が無数突き出ていた。
やがて戦場から離れた森の中程にある廃村でラフシャーンは彼女を腕から降ろすと苦し気に顔を歪めて地面に膝を着き荒く息を吐く。
「ラフシャーン団長ッ!!」
咄嗟に受け止めたラフシャーンの体は燃えていると錯覚するほど熱く明らかに矢から受けた毒が彼を体内から蝕んでいた。
(私が、私が戦場で仲間からはぐれさえしなければッ!!)
私のせいだと自分自身を責め唇を噛み締めた彼女に気づき緩慢にラフシャーンは顔を上げ、マーシャ・コッペリアと彼女を呼んだ。
「戦場は冷静な思考を失わせるもの。」
貴女が気に病むことは何一つありはしない。
責めるとしたら部下の不在に直ぐに気づかなかった上官たる俺こそが真に責められなければならないだろう。
「良くぞ一人死地に臨みながら生き抜いた。」
此処から半刻程東に歩いた先で騎士団が陣幕を張っている。
「すまないが此処から先は貴女だけで行ってくれ。」
「団長は、ラフシャーン団長はどうするんですかッ!?」
肩に手を掛け立ち上がり離れようとする団長の手を掴むマーシャに負傷した身では足手まといになるだけだと廃屋に凭れ掛かり身振りで先に行けと伝え目を閉ざすラフシャーンから。
マーシャは迷った末に背を向け勢い良く転がるように駆け出した。
森を駆けてから半刻ほど経った頃、比較的原型を留めている廃屋の一室でマーシャはラフシャーンの傍らで薬草を煎じていた。
苦味のある薬草の匂いで意識を取り戻したのか寝台からラフシャーンが微かに呻きながら起き上がる。
「――――どうして逃げなかった。」
応急手当の為か布を引き裂いて作られたと思しき包帯が巻かれた上半身にラフシャーンは惑うようにマーシャに言葉を掛ける。
「団長を射抜いた矢に塗られていた毒はジャルノでは鳥落としと言われるもので身体に回るのが酷く早いんです。」
解毒するのが遅ければ遅いほど後遺症が残るので早めに解毒する必要があったと言い切ったマーシャにラフシャーンは良く矢に塗られた毒がそれだと分かったなと首を傾げながら寝台の背凭れに半身体を預ける。
「私は農家の出身で小さい頃に猟師だった父に教えて貰ったことがあるんです。」
見分け方は独特の花のような甘い香りで少量なら強心剤や香水にもなることからジャルノや近隣の国では割りと良く使われる身近な毒だとマーシャはラフシャーンの体から取り出した鏃を手渡した。
「確かに、花の匂いがするな。」
目をすがめるようにして鏃を眺めるラフシャーンにマーシャは頷く
「団長は多量に毒を摂取してしまったので助けを呼ぶよりも先に解毒しないといけないと思ったんです。」
幸いなことにこの廃村がある森には解毒に使える薬草が多数群生していましたからと告げたマーシャにラフシャーンは疑問を溢す。
「君が敢えて廃村に踏み留まった理由は理解したが、俺は意識を失っていた筈だ。」
医療器具が見られないとあれば解毒薬は経口摂取に限られる。
ラフシャーンはどうやって解毒薬を飲ませたと言い掛け服の裾を掴み顔を赤面させたマーシャに気づき頭部の耳を忙しなく動かしながらまさかと目を見開いた。
「どうやら貴女には返しようもない程の恩を受けてしまったようだ。」
顔を片手で覆い狼狽するラフシャーンにマーシャは首を振った。
「い、いえ、あの私こそなんとか解毒しないといけないと思って後先考えずに行動してしまい申し訳ありませんでした!!」
「寧ろ俺の方こそ謝罪をしなければならない、貴女には何の非もありはしないのだから。」
そうは言うが依然としてふるふると震える黒い被毛に覆われた厚みのある耳がマーシャにラフシャーンが酷く動揺していることを如実に伝えてくる。
しかしややあってラフシャーンは居ずまいを正すとマーシャに深く頭を垂れた。
「貴女から受けた恩はこの身を持って必ず報いよう。」
躊躇うことなく誓いを彼女に述べる彼にマーシャは慌てて自分がしたことは団長がわざわざ誓いを立てるほどの大それたことじゃないと左右に勢い良く顔を振り。
「危ないマーシャ!」
首を振りすぎて目を回し体勢を崩したマーシャをラフシャーンが慌てて抱き留めると二人は存外に近い顔の距離に揃って顔を赤くしてギクシャクと間合いを取る。
「軽微とは言え貴女も毒を受けたんだ。」
どうかあまり無茶はしてくれるなと頭上から降るラフシャーンの声にマーシャは心臓を跳ね上げた。
「あ、ありがとうございます団長。」
流れる気まずい空気にマーシャが何かを言わなければと口を開くよりも先に音を立てたものがあった。
どこか物悲しい音を立てて空腹を強く訴えるお腹にマーシャは羞恥で身悶えた。
(よりにもよってこんな時にお腹を鳴らすなんて私のお馬鹿ッ!!)
絶対ラフシャーン団長に呆れられていると涙目で服を掴むマーシャの耳に、けれども飛び込んで来たのは柔かい笑い声だった。
「無作法な腹ですまないマーシャ。」
何分朝から飲まず食わずで来たものだから情緒もなく腹を鳴らしてしまったと告げるラフシャーンに、今のは私がと顔を上げたマーシャに彼は口元に指を人差し置き密やかに微笑んだ。
「俺には愛らしい人を見て腹を空かせる悪い狼の性があるんだ。」
だからそうあまり無防備にされていると空腹に耐えかねて君を頭から食べてしまうかもしれないな。
悪戯っぽく深みのある金色の瞳で彼女を見詰めるラフシャーンに寸の間マーシャは言葉を見失った。
寝台横の窓辺から差し込む月明かりに照らされ顔の片側を影に隠したラフシャーンの金色の瞳には羞恥とは違う熱で顔を赤く染めたマーシャが呆然と彼を見詰めていた。
「団長、も冗談を口にするんですね。」
マーシャが絞り出した言葉にラフシャーンは冗談だと思うならそう思えば良いと金色の瞳で彼女を射竦める。
「ただこれだけは覚えておいてくれ。」
貴女が消えたと小隊長から聞かされた時は心臓が潰える思いをしたことだけは。
マーシャの頬に触れ額を合わせると苦し気に吐息を溢したラフシャーンに彼女は息をすることさえも出来ないほどの息苦しさに胸が襲われた。
「ヴァローナの敵兵に囲まれ血を流す貴女を見て思考が焼き切れる音を聞き、一人残らず首を刈り取らなければ気がすまない程の衝動に襲われたことを。」
耳を掠める声音に肩を跳ねらせマーシャはラフシャーンを見上げ震える息を溢す。
「···今夜は、ここまでだな。」
微かに濡れた切れ長の金色の瞳がふと近づき、外から二人を探す騎士団の声を聞き咎め吐息と熱だけを胸に残しマーシャから離れた。
それからずっと一年前の夏至のあの夜からマーシャの胸に灯った熱は消えないまま残り続けている。
「マーシャッ!!」
貴女ったらじゃがいもをどれだけ剥けば気が済むのよッ!?
その声で漸く意識を浮上させたマーシャが慌てて周りを見れば裸に剥かれたじゃがいもが無惨にも山となって散らばっていた。
「やっぱりマーシャにはショックよね。」
「ショックってなんのことですか?」
大量のじゃがいもをどうしようかと悩むマーシャに同僚は聞いてなかったのとエプロンで手を拭うとラフシャーン団長がお見合いすることよと腰を伸ばしながら口にする。
「ラ、フシャーン団長がお見合いを?」
その言葉にマーシャは金槌で頭部を叩かれるような衝撃に襲われた
「本当は騎士に叙勲された時に打診があったんだけど随分と返事を引き延ばしていたみたいよ。」
言い方は悪いけれど元は傭兵であるラフシャーン団長をジャルノに縛り付ける為に手頃な娘と縁付けてしまいたらしいわ。
「ってそう言えば貴女もお見合いを小隊長に薦められてたわよね」
先輩の声が頭の中で反響して上手く聞こえない。
(ラフシャーン団長がお見合いする。)
それだけのことが酷く残酷なことのようにマーシャの胸を鉛のように重くさせた。
酷い顔色だからと兵舎の自室に返されたマーシャはベッドに顔を埋めて縮こまりながら繰り返しラフシャーンのことを考えていた。
枕元には兵舎に戻る時に直属の上司である小隊長から手渡されたマーシャのお見合いの釣書が開かれずに置かれている。
それはなんだが見込みのない恋に対する最終勧告のようで笑いたくもないのに笑いが込み上げて来る。
(分かっていたことじゃないマーシャ!!)
ラフシャーン団長が彼女には決して手の届かないところにいる人である事ぐらい。
(それでも私はラフシャーン団長を好きになってしまった。)
あの一年前の夜からずっとマーシャはラフシャーンを陰ながら想い続け来たのだ。
(この恋が叶うだなんて。)
そんな大それたことは思ってなんかいなかったけれど想うだけなら許されるんじゃないかと遠くから見えるラフシャーンを目で追っては胸を高鳴らせた。
けれどもし本当にラフシャーン団長がお見合いをし誰かと結ばれるのならば――――
(それも、もうやめなきゃいけない。)
「ならばせめて後一度だけ勇気を出してラフシャーン団長に会いに行こう。」
会ってそれからこの恋に終止符を打とう。
(だから少しだけ、あと少しだけはラフシャーン団長を想って泣くことを許して下さい。)
けれど現実は非常だと和気藹々と自分を飾り立てる同僚と小隊長にマーシャは複雑な面差しで見詰める。
マーシャが悲壮な思いでラフシャーンへの片想いに終止符を打つと意気込んだことなど知りもせず同僚と小隊長の二人はやれ紅は明るい色をだとか髪飾りはドレスに合わせてと楽しげに話し合っている
二人に今朝早くお見合いだと兵舎の自室から拐うように連れ出されたマーシャは、騎士団に入る前のただの農家の娘であったならば憧れたような綺麗なドレスを着せられてジャルノ公国の君主がわざわざ提供したと言う洋館の化粧室に座っていた。
(釣書きを見ないで居たから分からないけれど、一体どれだけ凄い人とお見合いさせられるんですか私はッ!?)
困惑しながらも思わず身に包む艶やかなドレスにマーシャはどうせならラフシャーン団長に見て貰いたかったなと呟いた。
(少なくとも今の格好ならラフシャーン団長の記憶に残りそうだもの)
どうせなら少しでも綺麗な形でラフシャーン団長の記憶に留まりたいと思う自分にマーシャはため息をついた。
(だなんて、叶わない恋を終わらせようとする人間の思うことじゃないですよね。)
けれどもお見合いは踏ん切りとしては良いかもしれないと一人頷くマーシャにドレッサーの向こうの小隊長が目を瞬かせた。
「もしかして釣書きを見ていないとか言わないよねマーシャ?」
頬をひきつらせる小隊長に承けるつもりがなかったのでと口ごもるマーシャに彼女は絶対にそれを相手に言っちゃダメよと肩を掴む諭しだす。
「あの人、仏頂面の癖に器用に落ち込むから!!」
一年前の告白があまり通じていなかった上に貴女に避けられまくったせいで地に最早沈む勢いなのだと小隊長の良く分からぬ声援に押され見合い相手が居る中庭にマーシャは首を傾げながら向かった。
夏至の澄んだ陽の光で朝露が煌めく中庭に降りたマーシャを待ち受けいたのは。
「――――どうして貴方が此処に。」
騎士の正装に身を包む彫りの深い褐色の端正な顔立ちに特徴的な艶やかな黒髪と揃いの肉厚な狼の耳
そしてマーシャを射竦めるような切れ長の金色の瞳をしたラフシャーンがそこにはいた。
「一年前の恩を貴女に返しに来た。」
いや恩返しと言うよりも恩の押し付けに来たようなものかとラフシャーンは戸惑いに揺れるマーシャに歩みより膝を着く。
「マーシャ・コッペリア、貴女を俺の生涯の伴侶に迎えたい。」
目の前の光景が信じられなくてマーシャは都合の良い夢じゃないですよねと声を震わせ頬を捻った。
つねっても痛いと頬を押さえたマーシャにラフシャーンは夢にされては困るなと苦笑を溢した。
「もしも貴女に一欠片でも俺に対して想う心があるなら応えてはくれないか。」
そうして差し出されたラフシャーンの手をマーシャが拒むことなど出来はしなかった。
「ラフシャーン団長、ラフシャーン団長!!」
手から伝わる確かな熱が、彼女を見上げる金色の瞳の熱がこれが夢じゃないと教えてくれたから。
「ずっとずっと一年前の夏至のあの夜から貴方が好きでした!!」
堪えきれずに溢れたマーシャの涙を拭うようにラフシャーンは彼女を抱き締めて蕩けるように切れ長の金色の瞳を細めて誓いを新たに囁いた。
「この命果つる時まで我が身と終生変わらぬ忠誠を貴女とジャルノ公国に捧げよう。」
そうしてマーシャは恋い焦がれ続けた美しい獣を手に居れたのだ。
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