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星降る夜の仕立て屋へようこそ

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夜の帳がとうに降りた中でランプの光が眠そうに揺蕩う。耳を劈く静けさの中でたっぷりとした衣擦れの音だけがそこにあった。
ひとりの少年が机に向かって裁縫をしている。
一刺し、一刺し。
針を通すごとに駆け抜ける糸は蝶の鱗粉のような星屑を散らして仕上がる布へと馴染んだ。直線を縫い終わると、その繕った部分だけ月明かりに照らされた蜘蛛の巣の如くきらきらと光を弾いた。
「うぅん。よく縫えてる」
少年は生地を広げてランプの火に透かして見る。一寸の迷いもない正確な針仕事だ。少年は満足げに微笑むと腰の道具入れから新たな針と糸を取り出してさらに作業に没頭した。


少年は郊外の古い小屋に住んでいた。
花畑や田園、あとは空しか見えない小高い丘の上にポツンとある物置のようなその小屋は、看板もなければ生活感もなく、人が住んでいると言われてもにわかには信じ難い有様である。
郊外にあるからというだけではなく、あの小屋には星の魔女が住んでいる、人喰いの魔物が住んでいる、住人はとっくに死んでしまっていて今では花に埋もれた死体がある…そんな様々な噂が飛び交い近付く者はほとんどいない。
事実を知るのはその噂を乗り越えた「依頼者」のみだけだ。
「…あの、ご、ごめんください…どなたか…いらっしゃいませんか?」
よく晴れて暖かな陽気で瞼の重い昼下がり、ひとりの若い女性が震える声と手で小屋のドアをノックして声をかけた。
線の細い身体に不釣り合いなほど重みのあるレースとコルセット、たっぷりとしたパニエととにかく豪奢なドレスを身に纏っている。丁寧に結い上げた髪は明らかに自分でやったものではなく、つけられた金の髪留めからもかなりの家柄の娘であることは明らかだ。少なくとも空と花畑しかない郊外の古い小屋の前ではひどく浮いていた。
女性は返事のないドアの前でしばらく呆然と佇み、ため息をつくと踵を返した。
「やっぱり…嘘なのかしら。仕立て屋、なんて…」
呟いて丘を下ろうとする女性の背中に清廉な風が吹く。揺れる金細工の髪飾りを押さえようと手を上げて、そこに何の違和感もなく小さな紙切れを握っていることに気がついた。
「あら、やだわ。こんなもの持っていたかしら…」
なんとなく紙を広げて確認すると、どんなインクで書いたのか、青にも銀にも見えるざりざりとした光を蓄えた文字がそこには小さく刻んであった。
夜にまたおいで。
「夜に…」
何かのイタズラかもしれなかった。夜に来て、何が起こるかなどわかるはずもない。
女性は丁寧に紙を畳むとどこか高鳴る胸と紅潮した頬で丘を下った。


その日は昼間の眠気を煽る暖かさからすっかり手のひらを返した、芯まで凍る寒い夜だった。
女性は誰も従えることなく足元も覚束ない暗闇を今にも降ってきそうな星明かりだけ頼りに丘を登っている。ネグリジェにしっかりと外套を羽織った上で大きな荷物を抱えていた。
小屋の前に立ち、息を整えながらドアをノックしようとして違和感に気付く。昼間はしっかりと閉まっていたドアが開いているのだ。恐る恐る中を覗くが、外から見るよりも広いということが分かっただけで明かりもなく人の気配もない。二の足を踏む女性の背中を冷たい風が促すように押した。
意を決して中へ足を踏み入れる。ほんの小さな小屋だと思っていたが中はやはりそこそこ広い。狭い廊下のような空間は埃っぽいがミシンやボビンなど裁縫に使う道具が美術館のように所狭しと飾られている。思ったよりも視界に困らないのは突き当たりの小窓が星の明かりを着飾っているせいだった。ゆっくり、ゆっくりと穂を進めるとすぐ左手にもう一枚扉があった。
そっと気配を殺しながら扉を開ける。
その刹那。
目が眩むほどの白銀の煌めきが解き放たれたようにぶわっと一斉に走り出して放射線状に散り散りと散らかった。
今まで暗闇に慣れていた女性は急な輝きに目を白黒させながら後ずさって尻餅をつく。
白銀の光は女性を揶揄ってまとわりつくとその肌に触れて弾け飛び、髪に触れて眩い粉となり、服に触れて広がり、ひとしきり輝かしさを主張してまわった後、不意に静かに消えていった。
「は…」
声を上げることもできなかった。それだけでなく、呼吸すらも久しぶりに感じた。
霞む目の前には少しだけ開いた扉がある。向こう側で今ほど強烈ではない光が揺れるのが見える。
女性は頼りない足腰を好奇心で叱咤してなんとか立ち上がると、扉に再び手をかけ、一息に開けた。
「あ、あのっ!どなたか…!」
部屋の中には机がひとつ、大きな大きな窓がひとつ、大量の布とトルソー、そして小さな少年がひとり、紺や黒のキャンパスに無数に光る星の窓を背景に机に向かって座っていた。異様な光景に、最初、女性は少年も精巧な人形だと一瞬思った。
「…あぁ、こんばんは」
光を弾きながらピアスが揺れて精巧な人形がこちらを向く。
耿々と浮かび上がる星々に背を照らされて逆光になるはずの彼の面持ちは随分とはっきり見えた。夜が滲んで少し青みかかって見える薄い色の髪に真珠のような肌、見るからに上等ではない服を身に纏っていてもどこか儚い神々しさのある姿に目が持っていかれる。
「お昼間に来てくれた方だよね?」
「え、あ、は…はい…」
少年は立ち上がると女性の方へ距離を詰めた。間近で交差した視線の先にある瞳はカッティングの加工が施された宝石よりも美しく光を弾いていた。星を瞳で飼っている。それ以外に表すことができないほど彼の瞳は星空そのものだった。
「ごめんね。お昼間はやってないんだ。それで…」
少年が動くたびにピアスが揺れて光を反射する。高い靴を履いた女性よりも少し低いくらいの背の少年は持っている荷物に目を向けた。
「僕に頼み事があるんでしょ?見せて」
「あ、は…はい…」
「どうぞ、散らかってて悪いね」
少年はトルソーをいくつか床に退けて椅子を引っ張り出すと女性に座るように促して自分は先程まで座っていた椅子に座り直す。言われるがまま腰をかけ、手にしていた大きな荷物を少年との間に置くと布を解いた。
中には昼間着ていた豪奢で重たいたっぷりとしたドレスが入っていた。
「こちらへは、魔法の仕立て屋があると伺って来ました。貴方がその仕立て屋さんでしょうか?」
「仕立て屋というほどちゃんとしたものではないけどね。確かに僕がその噂の正体だろう。よく来たね。」
馬鹿にされても仕方がないという覚悟で話を切り出した女性は少年が朗らかに笑いながらあっさりと認めたことで拍子抜けした。正直なところ、こんな若さでどんな修行を積んだことがあるのか怪しい少年に服が縫えるわけがないと心のどこかでは思っていた。その上、魔法のという部分が最も馬鹿らしいと思ってもいた。ただ、少年はその部分を否定しなかった。
「…わたくし、今度とある殿方に嫁ぐことが決まりまして…こちらがその婚姻の日に着るようにと贈られたドレスですわ」
多少の懐疑心を残しながらも話を進めた女性に少年は特に気にした様子もなくドレスに視線を落とす。実際に手に取って触り、広げ、しばらく沈黙した後苦笑しながらそっと戻した。
「…なんというか…ごめんね、言葉を…選べなくて。その、かなりひどい、ね…」
女性は怒るでも落ち込むでもなく、ただ静かに頷く。
「えぇ。ただ見た目が豪華なだけで、本当に…悪趣味ですの」
女性は自分でもドレスを広げると胸元や袖にふんだんにあしらわれたレースを指でなぞる。
使われている素材自体は一級品で悪いものではない。これだけ惜しみなく使えるなら余程の金持ちだろう。ただ、成金が富を見せびらかせるために作らせたと思われても仕方がない悪趣味な重たさは、目を伏せる女性の繊細な優しい美しさにそぐわなず誰が着るかを全く無視したデザインだった。少なくとも婚姻のために女性を想って誂えられたとは考えにくい。
「もしかして思い入れのある誰かのお下がり…とかかな?」
少年が気を遣って女性に笑いかける。女性は無言で首を振ると悲しげに笑い返した。
「…嫁ぎ先の殿方には、他に意中の相手がおりまして。こちらはその方から、お祝い…だそうで…つまりは嫌がらせなんです。殿方はその方にほの字ですから…祝いの品を無碍にするな、と」
ドレスを触る手に力がこもる。
婚姻の際に着ろと渡されたドレスを喜んで開けた時の絶望と悲しさが生々しく脳裏を駆ける。確かに恋愛結婚ではなかった。親の決めた結婚だった。それでも、主人となる旦那様と二人で幸せになりたかった。
お前が幸せになることなどできないと最初に釘を刺され、打ち込まれた心がひどく痛んだ。
「あぁ…それで」
少年が憐れむようにドレスを撫でる。
女性は勢いよく顔を上げると、真っ直ぐに少年を見つめた。
「しかし、わたくしそんなことでめげはしませんわ!幸せは自分で掴むものですもの。そのためにまず、このドレスをどうにかしたいと思って参りましたのよ」
女性の勢いに少年はやや気押されて仰け反る。
「ど…どうにか」
「そうですわ!魔法の仕立て屋さん、このドレスをわたくしのもの・・・・・・・にしてくださいませんか」
女性の瞳には窓から見える星の塊が反射している。気弱そうに見えて豪胆な女性だ。
少年は女性の瞳の中をしばらく食い入るように見つめると、不敵に笑ってドレスを持ち上げ立ち上がった。
「いいよ!星たちも貴女のことが好きなようだ!僕がこのドレス、あなたのもの・・・・・・にして差し上げよう!」
少年が宣言した瞬間、窓の外で幾千もの星々が燦然と輝く雨のように降り注いだ。少年の姿も心なしか淡い光を纏っている。
「婚姻の日はいつ?」
「あ、えっと…それが…もう、5日後でして…」
見たことのない量の流星群に見惚れていた女性は、椅子に腰掛け直して背を向け机に張り付いた少年の声でハッと我に返る。
「どこの仕立て屋でもこのドレスは作り直せないと断られ続け、藁にもすがる思いで噂に…ですから、時間が…」
「いや、十分だよ。今日も明日も満点の星空の予定だ。明日の夜には仕上がるさ」
少年は腰につけていた裁縫道具から針と糸、鋏などを取り出してもう作業を始めていた。
「…明日の夜、夜明けの前にまた来てくれるかな?」
背を向けたまま少年は小さく尋ねる。
女性はひとつ返事をすると、星が降り注ぐ夜空の下を夢見心地で小屋を後にした。


昨日に比べてさらに冷え込み空気の透き通った夜である。少年の言った通り今日も星がよく見えていた。
夜が明ける前にはまだ時間がありそうだったが、期待と不安で女性は小屋の前にもう到着していた。
「早かったかしら…?」
小屋の扉は開いておらず、軽くノックしてみるも応答はない。
ただドレスを失くしてしまったとあっては婚姻自体も取り消しになるかもしれない。不安に駆られた女性は小屋の裏手に回り込んで窓があった花畑の方へ進んだ。
窓はカーテンもなく、中が丸見えになっていた。ランプの灯りが暖かく揺れて影を映し出している。
少年は相変わらず窓を右手に机に向かって縫い物をしていた。昨日は夜が溶け込んで青っぽく見えた髪は今日はランプに照らされてどこか橙がかっている。昼間に太陽の元で見たらきっと白いのだろう。だから光の色を取り込んでいるのだ。
なんとなく見てはいけないもののような気がして女性は見つからないようにこっそりと覗き込む。少年の手元ははっきりと見えるわけではないが、暗がりの中で一筋の糸がキラキラと粉のように光を撒きながら布に織り込まれていっていた。今までに見たことがない光の粒に目が釘付けとなる。
しばらく眺めていると、不意に少年はひとつ大きく伸びをすると立ち上がった。
驚いた女性は見つかったかと窓から離れるが、少年は外の様子を見ることはない。今まで縫っていたものを近くの背の高いトルソーに被せ、丁寧に着せた。
「う、わぁ…」
そっと窓を覗き直した女性の目に映ったのはトルソーが着た彼女のドレスだった。
形はそのままに、無駄だったレースや成金めいた装飾はすっかり取り払われて新たに繊細なカギ編みのレースをまとわせてある。シンプルになったはずがより一層華やかに感じるのはなくした装飾の代わりに緻密かつ主張が激しくないよう施された刺繍のおかげだろう。同じドレスだとわかるが同じドレスとは思えない、遠目で見ても声が出るほど美しい仕上がりだ。
女性はここにきて腑に落ちた。なるほど、これは魔法と言われても仕方がない。あの繊細なレースは街のどこを探しても類似品は売っていないだろう。あの刺繍も、街一番の腕利きに頼んでも数ヶ月はかかる代物だ。それを一晩で作り上げたのだから魔法か何かと疑われても仕方がない。そして、あんなものが世に知れ渡ったら全ての仕立て屋は丸潰れだ。寡占状態になってしまい、少年も忙殺されてしまうからこそ看板も広告もないのだ。
女性が一人で納得していると、少年は一周まわってドレス確認した後にトルソーごと担ぎ上げて窓の方へ歩んできた。女性は慌てて扉の方へ移動し、小屋の陰から身を乗り出して様子を伺う。
少年はトルソーを窓のすぐ近くにある台に乗せ、自身は窓を超えて外に出た。ドレスは風に靡いて窓からはみ出すスカートの部分しか見えない。少年はトルソーと一緒に星を眺めているようだった。
「…星を見ているだけ?もう声をかけてもいいかしら…」
奇妙な行動に耐えかね、もしかしたら自分を待っているのかも…と女性が一歩踏み出して少年に声をかけようとした瞬間、少年が大きく伸びをして天を高く仰いだ。
「さぁ、仕上げにしようか」
少年は手を挙げて何かを招くように空を呼んだ。視線と手の先を追って顔をあげ、そこで女性は硬直した。
燦然と煌めく無数の星たちが一斉に流れたと思うと空から光の粒となって雨の如く降り注ぎ花畑へと飛び込んできたのだ。白み始めた地平線から逃げ出すように星々は思い思いに欠片を弾かせ踊り、白銀の星屑を撒き散らして飛び跳ね、海の波間を反射する陽の光よりも明るく花畑へ色とりどりに舞い降りる。星が降りそうな夜とはよく言ったものだが実際に降り注ぐ星はもちろん見たことがなく、この世の光景とは思えなかった。
星の光は夜明けに負けることなく一層輝きを増し戯れながら花畑を堪能する。煌めきに染まった星色の髪と瞳で少年は両手を大きく広げると途切れることのない幾千の星々に微笑んだ。
「仕上げだ!頼んだよ!」
星々は少年を、ドレスを目掛けて駆け抜ける。眩しいほどの白銀は絡まり合いながらドレスを覆いスカートから舐めるように鱗粉を散らして撫で上げた。
星屑の粉が触れたところから刺繍が浮かび上がる。
細かい刺繍は婚礼の花であり花嫁のための花である荘厳なカサブランカをモチーフとしたものだ。
一枚一枚の花弁や葉っぱが星に触れるたび瑞々しく輝き、今そこで咲いているかのように息づく。
刺繍の糸と星が反応して生命と輝きを与えている様子は魔法をかけているという表現以外にふさわしい言葉はない。女性は隠れることも呼吸も忘れ、ただそこに立って涙ぐみながら美しい魔法を見ていた。
美術館で絵を眺めているのと同じような、永遠とも思える時間だった。
太陽の光が徐々に明るさを増していくことで現実にふと引き戻された。
水平線から風とともに顔を出した強烈な光に照らされた星が役目を終えて蒸発し消えていく。
ドレスを完全に覆い尽くした星々は次々に弾け飛び、消えていき、とうとう最後のひとつとなってしまった。
「じゃあ君にしよう」
少年は最後のひとつのに手を伸ばし、腰の裁縫道具から針と糸を取り出すとその星をドレスの胸元に縫い付けた。風に吹かれた髪が白銀を散らしながら一刺し、一刺し、丁寧に縫い付ける。星はどこか誇らしげに震えると不思議な色と輝きを湛えた宝石に変化して動かなくなった。
先程までの輝きと光景は夢だったのかもしれない。そう思うほど静かな夜明けだ。
「…見世物じゃないんだけどね」
呆然と立ち尽くす女性に少年が声をかける。飛び上がって驚いた女性は慌てて小屋の陰に身を隠すも、もう遅かった。
「あ、あの、す、すみません…見るつもりは…その、綺麗だったから…」
「まぁ、構わないよ。貴女のドレスだから」
少年は窓から手を伸ばしてドレスを引き寄せると全てを取り出して広げる。
息づいたカサブランカの花の刺繍が動くたびにキラキラと光を放ち、繊細なカギ編みのレースも部屋で見たときより一層目を引く美しさになっていた。
恐る恐る手を出す女性に苦笑して少年はドレスを渡す。
「着てみてよ。…僕の魔法はそこでやっと完成だ」
女性はドレスを受け取ると小屋の陰へ行き急ぎドレスを着た。ひとりで、しかも外で着替えたことなど知られればなんて破廉恥な娘だとひどく怒られるだろう。それでもそんな些細なことを気にする余裕はない。袖を通してスカートを広げ、恥ずかしそうに女性は少年の前に足を踏み出した。
「うん。よく似合ってるよ」
少年はいつの間にか大きな姿見を持っていた。花畑と夜明けの日の中でドレスを身に纏う姿が鏡に映し出される。
あんなにも綺麗なドレスを着こなせるかという心配は全くの杞憂だった。初めから女性のために作られたかのようなしっくりとした馴染み具合で繊細な模様が浮くこともない。華奢なレースは女性の優しく柔和な雰囲気をさらに引き出し白い肢体をより白く見せた。流れるようなボディラインを邪魔する悪趣味な飾りもない。ドレスはシンプルでありながらも強烈に目を惹き、主役はこの女性だと魂に訴え叫んでいた。自分が未だかつてこんなにも美しかったことはない。
「…こんな…、」
「まだだよ」
涙ぐみながら礼を言おうとする女性を少年は制する。
少年の目線の先には完全に顔を出した太陽があった。
「ほら、もっとこっちに来て」
「え、ええ」
少年に手を取られて女性は遮るものが何もない花畑の中心まで歩んでいく。太陽の下で光をいっぱいに浴びてドレスは裾からさらに光を纏った。刺繍は花畑と太陽の色を取り込み暖かく色づき、妖艶な美しさだったドレスは日の光で明るい幸せをたっぷり含んだ美しさへと変貌する。
それは、女性が欲しいと願った幸せの予兆だ。
「うん、幸せな婚礼にぴったりだ」
暑そうに太陽に炙られ笑う少年の笑顔がぼんやりと歪む。
「…ありがとう、ございました…こんな…こんな綺麗なドレス、わたくし…!」
大粒の雫を花畑に吸い込ませる女性に少年は目を細め、手を取ると甲に優しくキスを落とす。
暖かな風が花畑を撫でて摘んだ花弁を高く巻き上げた。
「誰よりも綺麗だよ。お幸せにね」
女性は体裁もなく顔をくしゃくしゃにしながら何度も何度もお礼を述べた。


「こんばんは」
次に女性が小屋を訪ねたのはそれから両手ほどの日数がすぎた真夜中のことである。
相変わらず夜空の星の展覧会を背に針仕事をしていた少年は女性に気付くと顔をあげてにっこりと笑った。
「あぁ、もう来ないかと思っていたよ。式は終わったんじゃないの?」
「えぇ、おかげさまで…」
女性は華奢で美しいドレスを身を纏い、以前とは少し雰囲気が違うようだった。
促されるまま前にも座った椅子に再度腰掛けて少年に向き合う。
「あのドレスで婚姻の式へと出席したのです。そうしたら…」
女性は式で起きたことを少年に話す。
少年のドレスで式に出席すると会場は想像以上の花嫁の美しさに湧き上がり陰口は一変して祝福の言葉に変わった。夫となる婚約者は式の場ですら意中の人と腕を組んで歩いていたが、現れた女性に目を奪われその場ですぐに謝罪しプロポーズをやり直した。
意中の相手は捨てられたことが悔しく嫌がらせをしてきたが、全て夫が守ったという話だ。
「はぁ、随分と調子のいいことだね」
「でもわたくし、幸せですわ」
女性は本当に幸せそうに笑う。着ているドレスは飾りが少なく地味なものだが、質のいい絹と繊細な技術で仕立てられた女性のために贈られたであろうものである。美しさを引き立てるよく似合うドレスを見た少年は少しだけ笑顔を見せるとため息をひとつついて裁縫に向き直った。
「で、もう用はないんじゃない?今日は何をしに?」
「決まっております。お代がまだですわ!こちらをどうか」
女性は重量のある麻の袋を少年の裁縫机に置く。その上に精巧な作りの金の懐中時計を差し出した。
「これでも足りないとは思うのですが、まずわたくしが払えるのはこれくらいで…不足分は後日お持ちしますわ」
少年は置かれたものを一瞥すると金時計を手にして中を確認する。古いものだが良い作りだ。並大抵ではない職人が作った純金の時計である。
「…受け取れないな。そもそも、僕は金銭は受け取らないよ。一応…趣味の範囲なんでね」
「そんな…!受け取ってください、わたくしの人生を変えていただいたものです。払えないなど…」
女性は麻袋を握りしめて俯く。
しばらく気まずい静寂が時を支配する。
少年はそっと女性の顔を伺う。困ったような泣きそうな顔をして俯く女性に根負けして大きくため息をついた。
「街では星の形の砂糖菓子が有名だそうだね」
「え?えぇ。今回の式でも配りましたわ。星型の砂糖菓子…」
「それを買ってきておくれよ。綺麗で甘いものに目がないんだけど、お昼は寝ていてね。店の時間が合わないんだ」
星型の砂糖菓子というのは今街で流行しているお菓子屋が生み出した色とりどりのお菓子である。小さく見た目が星のように美しく加工されていて、祝いの場で配らたりちょっとした手土産にしたりするのに選ばれる晴れの日のお菓子だ。
「それは構いませんが…そんなもので!わたくしの気が晴れるとでも!」
一瞬虚をつかれた女性はすぐに怒りの形相で麻袋を押し付ける。
困らせたいわけではないが技術にお金を払えないのは許せなかった。
「あ~わかったわかった!じゃあ、もうひとつもらうよ!貴女の名前を僕にくれるかい?」
「名前…?」
女性は怪訝そうに首を傾げる。少年はゆっくりと立ち上がり棚から瓶を取り出すと女性に手渡した。
「僕は名前から星を生み出してるんだ。貴女の名前をくれる?それでいい」
「は、はぁ…」
納得ができないまま女性は瓶を受け取る。そこに入れろとでも言わんばかりの少年の身振りを見ながら女性は瓶に顔を寄せた。
「では…名前を差し上げますわ。わたくしの名前はリュヌ・ソムノレ…きゃっ」
女性が名前を告げた瞬間、瓶の中にまばゆい光を吸った海辺の砂のようなものが勢いよくざらざらと湧き出て満ちた。
少年は一瞬目を見開くとすぐに瓶を受け取って中身を確かめる。
「これは驚いた…微睡む月か、なんて素敵な名前だ」
瓶の中の砂は宇宙全ての銀河の粒を集めたかのように光を放っている。女性は全く意味のわからず、光栄ですとだけ呟いた。
「ありがとう。十分なほどもらったよ。この砂でまた新しい星が生まれるんだ。リュヌ・ソムノレ、貴女の名前の星だ」
少年は満面の笑みを浮かべる。女性はまた夜を吸って輝くその笑顔を眩しく見つめてつられたように笑った。
少年が窓辺に瓶を置いてうっとりと眺めるのを横目に女性は空を覆い尽くす星を見上げる。先日の光景は脳裏に焼き付いて忘れることができない。この先も星空を見るたびにあの美しい星の降る夜を思い出すのだろう。ふと、あの夜と同じく今この瞬間も忘れるには惜しいと感じた。
「貴方のお名前は?魔法使いさん」
空を見上げたままの女性の問いかけに、少年は瓶の蓋を閉めると棚に戻して女性の近くへ寄る。耳元に顔を寄せるといたずらっ子のような笑顔で小さく囁いた。
「僕の名はシエル・エトワール。星の降る夜の魔法使いさ。内緒だよ」
空の星が一際輝いて流れる。これで忘れることはない。女性は少年の名を今日の夜の名前にして胸にしまい込んだ。
ふたりは目を合わせ、同時に笑った。


夜の帳がとうに降りた中でランプの光が眠そうに揺蕩う。静けさの中で衣擦れに混じってかり、かりという固いものを齧る音が響く。
ひとりの少年が机に向かって綺麗な砂糖菓子を食べながら裁縫をしている。
一刺し、一刺し。
その日も魔法をかけながら、少年は服を仕立てた。
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