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第37話・「よく頑張りました」のあとで
検査入院の初日。
朝から続いた検査は、夕方になってようやくすべてが終わった。
生まれた時から何度も繰り返してきた検査内容。
慣れているはずなのに、身体は正直で、琴葉は個室に戻るとベッドの端に腰を下ろし、小さく息をついた。
「お疲れさまでした。今日の検査は、これですべて終了です」
淡々と、それでいてどこか柔らかい声音で、奏一が言う。
カルテを手に白衣姿で立つ彼の目は、いつもと変わらぬ静けさを湛えていた。
「……ふー。なんか、疲れた」
ぽつりと漏らした本音に、琴葉自身も苦笑する。
身体はぐったりしているし、検査結果が出るまでは気持ちも落ち着かない。
「そうですね。朝から休みなく検査続きでしたから。今夜は、しっかり休んでください」
「うん……そうする」
答えながらベッドに背を預けると、シーツのひんやりとした感触が心地よく、思わず力が抜けた。
「では、私はこの後仕事に戻ります。何かあればナースコールで呼んでください」
「……うん」
ひとつ頷くと、奏一はカルテを閉じ、静かに踵を返す。
――けれど、ドアの前でその足がふと止まった。
背を向けたまま、少しだけ振り返るようにして言う。
「検査、よく頑張りましたね。お疲れ様でした」
それだけ。
特別な言葉でもない、ありふれた労いのはずなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
バタン、とドアが閉まる音がして、病室には静けさが戻った。
けれど、その言葉だけが残って、余韻のように心に沁みている。
(……先生、あんな優しい言い方もするんだ)
無表情で、冷静で、感情をあまり表に出さない人。
そう思っていたのに――少しずつ、その印象が変わってきている気がする。
頬が、わずかに熱を帯びた。
布団を胸元まで引き上げ、深く息を吐く。
疲れているはずなのに、不思議と心は落ち着いていた。
“先生が、見てくれている”
その事実が、これほど安心をくれるなんて。
不安も疲労も、いつの間にか輪郭を失い、やがて琴葉は穏やかな眠気に身を委ねていった。
深夜。
病棟の廊下には、しんとした静寂が満ちていた。
ナースステーションの明かりだけがぼんやり灯る中、白衣姿の奏一は、迷うことなく一つの病室へと向かう。
ドアを開ける音を最小限に抑え、静かに中へ入る。
個室の照明は落とされ、窓の外では街の灯りが淡く滲んでいた。
その中で、ベッドに横たわる琴葉の寝顔が、かすかな光に照らされている。
規則正しく上下する胸。
すぅすぅと聞こえる、穏やかな寝息。
日中よりもどこか幼く見えるその表情に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
(……ちゃんと、眠れている)
夕食はしっかり食べ、処方された薬も問題なく服用したと報告は受けている。
それでも――
「……自分の目で、確かめたかったんです」
ぽつりと、誰に聞かせるでもなく呟いた。
主治医としての立場ではなく、遠野奏一として。
最近の琴葉は、目に見えて変わってきていた。
最初の頃の、警戒に満ちた瞳。
尖った言葉。張りつめた態度。
それらが少しずつ和らぎ、今では笑顔を見せることも増えた。
――彼女が笑うたび、救われているのは、きっと自分の方だ。
ベッドの傍に近づき、そっと手を伸ばす。
眠る琴葉の頭に、指先を軽く触れさせる。
髪を乱さぬよう、ほんの一瞬だけ。
祈るような気持ちを、その動作に込める。
(……どうか、このまま穏やかな時間が続きますように)
長くは叶えられない願いだと、どこかでわかっている。
それでも、願わずにはいられなかった。
名残惜しさを胸に残しながら、奏一は手を引き、病室を後にする。
閉じられた扉の向こうで、琴葉は変わらぬ寝息を立てていた。
朝から続いた検査は、夕方になってようやくすべてが終わった。
生まれた時から何度も繰り返してきた検査内容。
慣れているはずなのに、身体は正直で、琴葉は個室に戻るとベッドの端に腰を下ろし、小さく息をついた。
「お疲れさまでした。今日の検査は、これですべて終了です」
淡々と、それでいてどこか柔らかい声音で、奏一が言う。
カルテを手に白衣姿で立つ彼の目は、いつもと変わらぬ静けさを湛えていた。
「……ふー。なんか、疲れた」
ぽつりと漏らした本音に、琴葉自身も苦笑する。
身体はぐったりしているし、検査結果が出るまでは気持ちも落ち着かない。
「そうですね。朝から休みなく検査続きでしたから。今夜は、しっかり休んでください」
「うん……そうする」
答えながらベッドに背を預けると、シーツのひんやりとした感触が心地よく、思わず力が抜けた。
「では、私はこの後仕事に戻ります。何かあればナースコールで呼んでください」
「……うん」
ひとつ頷くと、奏一はカルテを閉じ、静かに踵を返す。
――けれど、ドアの前でその足がふと止まった。
背を向けたまま、少しだけ振り返るようにして言う。
「検査、よく頑張りましたね。お疲れ様でした」
それだけ。
特別な言葉でもない、ありふれた労いのはずなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
バタン、とドアが閉まる音がして、病室には静けさが戻った。
けれど、その言葉だけが残って、余韻のように心に沁みている。
(……先生、あんな優しい言い方もするんだ)
無表情で、冷静で、感情をあまり表に出さない人。
そう思っていたのに――少しずつ、その印象が変わってきている気がする。
頬が、わずかに熱を帯びた。
布団を胸元まで引き上げ、深く息を吐く。
疲れているはずなのに、不思議と心は落ち着いていた。
“先生が、見てくれている”
その事実が、これほど安心をくれるなんて。
不安も疲労も、いつの間にか輪郭を失い、やがて琴葉は穏やかな眠気に身を委ねていった。
深夜。
病棟の廊下には、しんとした静寂が満ちていた。
ナースステーションの明かりだけがぼんやり灯る中、白衣姿の奏一は、迷うことなく一つの病室へと向かう。
ドアを開ける音を最小限に抑え、静かに中へ入る。
個室の照明は落とされ、窓の外では街の灯りが淡く滲んでいた。
その中で、ベッドに横たわる琴葉の寝顔が、かすかな光に照らされている。
規則正しく上下する胸。
すぅすぅと聞こえる、穏やかな寝息。
日中よりもどこか幼く見えるその表情に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
(……ちゃんと、眠れている)
夕食はしっかり食べ、処方された薬も問題なく服用したと報告は受けている。
それでも――
「……自分の目で、確かめたかったんです」
ぽつりと、誰に聞かせるでもなく呟いた。
主治医としての立場ではなく、遠野奏一として。
最近の琴葉は、目に見えて変わってきていた。
最初の頃の、警戒に満ちた瞳。
尖った言葉。張りつめた態度。
それらが少しずつ和らぎ、今では笑顔を見せることも増えた。
――彼女が笑うたび、救われているのは、きっと自分の方だ。
ベッドの傍に近づき、そっと手を伸ばす。
眠る琴葉の頭に、指先を軽く触れさせる。
髪を乱さぬよう、ほんの一瞬だけ。
祈るような気持ちを、その動作に込める。
(……どうか、このまま穏やかな時間が続きますように)
長くは叶えられない願いだと、どこかでわかっている。
それでも、願わずにはいられなかった。
名残惜しさを胸に残しながら、奏一は手を引き、病室を後にする。
閉じられた扉の向こうで、琴葉は変わらぬ寝息を立てていた。
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