病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

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第40話・どこにも行きません

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玄関のドアが静かに開き、足音を忍ばせるようにして琴葉が帰宅した。

体調が落ち着いている今は、大学までひとりで通っている。
最寄りのバス停からは一本で行けるし、講義も毎日あるわけではない。

まだ少し不安はあるけれど――
それでも、自分のことは自分でやれるように、少しずつ、慣れていかなきゃと思っていた。

「ただいま……」

部屋の空気はすでにぬるく温まっていて、キッチンからは煮物のような甘い香りが漂ってくる。
リビングには人の気配があり、資料に目を通していた奏一が顔を上げた。

「おかえりなさい。少し遅かったですね」

「うん……大学、ちょっとだけバタついてて」

ぽつりと答え、琴葉は鞄を床に置く。
その仕草は、いつもより少し重たく見えた。

「食事、温めますね」

「……ううん、大丈夫。ちょっとだけ横になってから……」

返事の声も、どこか力がない。
ふらりと歩いて、そのままソファに体を預けた琴葉は、深く息をついた。

「……今日、先生も忙しかった?」

「少しだけ、ですが。今は落ち着いています」

「そうなんだ……よかった」

目を閉じながら呟いたその言葉には、安堵よりも、かすかな寂しさが滲んでいた。
袖口を握る指先が、きゅっと強張る。

「……」

奏一が声をかけようとしたその瞬間。

「なんか……疲れちゃったな」

琴葉からぽつりとこぼれるように言葉が落ちた。

「ちゃんとやらなきゃって思ってるのに、全然追いつかなくて。なのに、周りはすごくて……みんなできてるのに、自分だけダメみたいな気がするの……」

俯いたままの声は、かすかに震えている。

「私……こんなんじゃ、先生のところにいる意味、ないのかなって思って……」

「琴葉さん」

名を呼ばれて、琴葉ははっと顔を上げた。
気づけば涙が頬を伝っていて、自分でも驚いたように目を見開く。

「……あれ、私……泣いてる……?」

「ええ。きっと、少し張り詰めすぎていたのでしょう」

奏一はソファの側に腰を下ろし、ハンカチを差し出す。

「……あなたが努力していることは、私はちゃんと見ていますよ。
つまずいたからといって、無意味になることはありません」

琴葉の胸がきゅっと締めつけられた。
慰めでも、同情でもない、ただまっすぐに伝えられたその言葉が、心の奥まで染み込んでいく。

「……ありがとう」

涙を拭いながら呟いた琴葉は、気づけば奏一の袖をそっと掴んでいた。

「……もう少しだけ、このままでも、いい?」

「ええ。どうぞ」

奏一は立ち上がらず、そのまま静かに隣にいる。
何も言わず、ただ寄り添うように――
まるで、その涙のすべてを引き受けるように。


——————

数日後。
夜の帳が下り、部屋に静寂が満ちていた。

ダイニングテーブルには資料とノートパソコン。
その傍らに、紅茶の香りが残るカップがひとつ。

奏一はそこで仕事を続けていた。
書斎よりも近くにいた方が、琴葉の様子を感じ取れる――そんな思いからだった。

ふと、寝室の方から小さなうなり声が聞こえる。
一度きりかと思ったが、数秒後、再び苦しげな声が漏れた。

「……だめ……いや……いかないで………」

異変を察し、奏一はすぐに立ち上がる。
扉を静かに開けると、ベッドの上で琴葉が身体を丸め、浅い呼吸のまま震えていた。

「……連れて…かないで……やだ……」

苦しげなその言葉に、奏一の眉がわずかに動く。

「……悪夢ですね」

ベッドの脇に膝をつき、そっと額に手を当てる。
熱はない。それでも、様子は明らかに不安定だった。

「……琴葉さん」

名前を呼びながら、その手をやさしく包み込む。
その瞬間、琴葉のまぶたがぴくりと揺れ、ゆっくりと開いた。

「……せんせ……?」

寝起きの目は焦点が合わず、夢の続きかと戸惑うような表情を浮かべていた。
けれど、握られた手のぬくもりに気づいたように、瞳がはっきりと動く。

「……あ……」

唇が震え、目尻から涙が一筋流れ落ちた。

「怖かった……また、誰かがいなくなる夢で……っ」

「ええ。聞こえていました。もう大丈夫です。夢は終わりました」

奏一の穏やかな声が、琴葉の意識を現実へと引き戻していく。

「……小さい頃、入院してたとき……よくあったの。仲良くなった子が、突然いなくなっちゃうこと」

「……」

「夜中に運ばれて、そのまま……戻ってこなくて。朝になるとベッドが空っぽで……」

震える声は、やがて涙に溶けていく。

「……いつか自分も、ああやっていなくなるんじゃないかって……ずっと怖かった」

堰を切ったようにこぼれる言葉。
恐怖は、子どもだった琴葉の心に深く根を下ろしていた。

奏一は黙って頷きながら、琴葉の手を包む力をほんの少し強めた。

「あなたが見てきた現実が、どれほど残酷だったか……理解しています」

その声は、医師としてだけではなく――
彼女の過去を理解し、受け止めようとする、ひとりの大人のものだった。

「でも、あなたは今ここにいます。目を覚まして、私の声を聞いている。
そして――私は、そばにいます」

涙で濡れた頬に手を添えると、琴葉は安心したように目を細め、ぎゅっと奏一の手を握り返す。

「……ありがとう、せんせ」

「ええ。安心してください。私はどこにも行きません」

「……そばにいてくれる?」

「もちろんです。眠れるまで、ずっと」

その言葉に、呼吸が少しずつ落ち着いていく。

「……大丈夫。もう、夢は見ませんよ」

柔らかな声が、再び夜を包み込む。

奏一は手を離さず、そのまま静かに寄り添い続けた。
琴葉が深い眠りに戻るまで、何度でも――安心だと伝えるように。
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