病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

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第72話・祖母の振袖に、今を重ねて

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それから2週間後の午後――。
大学の講義が早く終わった琴葉は、母と駅前で待ち合わせ、そこから奏一の車に乗り込んだ。

「ママ、なんだか楽しそうだね」

「そうね。成人式の支度なんて、母親にとっても一大イベントだもの」

後部座席の母が笑い、助手席の琴葉もつられて微笑む。

「寒くないですか?」

ハンドルを握る奏一が、隣に座る琴葉に視線を向ける。

「ううん、大丈夫。暖かいよ」

「琴葉……少し緊張してるんじゃない?」

母が柔らかく言うと、琴葉は小さく息をついた。

「……うん、ちょっとだけ。だって、振袖を選ぶなんて初めてだもん」

窓の外に視線を向けたまま、指先を膝の上で重ねる。
その表情には、わくわくと、ほんの少しの緊張が入り混じっていた。

***

呉服店の大きな暖簾をくぐると、絹と新しい畳が混ざった、どこか懐かしい香りが漂ってきた。

奥から年配の女性店主が姿を現す。

「白崎様、いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました」

「ご無沙汰しております。今日は娘の振袖を見せていただけたらと思って」

「それはおめでたいことですね。お嬢様がもう20歳だなんて、月日が経つのは早いこと……ささっ、どうぞこちらへ」

案内された一角には、赤、桃、淡い水色、白地に金彩――
色とりどりの振袖が丁寧に並べられていた。

「わあ……きれい……」

思わず、声が漏れる。
琴葉の目が、きらりと輝いた。

「どれが好き?」と母が尋ねる。

「うーん……やっぱり淡いのも好きだし、おばあちゃんの赤いのも素敵だったし……迷うね」

「では、お祖母様のお着物とは別に、最近人気のお色もいくつか見てみましょうか」

店主が手際よく反物を広げていく。

淡い桜色。
くすみパープル。
明るいイエロー。
白地に控えめな金の模様。

そのたびに袖を通し、鏡の前に立つ。

「……可愛い」

思わず漏れた言葉は、どれも本音だった。
けれど、鏡の中の自分を見つめながら、胸の奥に小さな迷いが残る。

――どれも素敵なのに、決めきれない。

「似合ってるわよ、琴葉」

母の声に頷きながらも、琴葉はそっと息をついた。
数着目を終えた頃、知らないうちに肩に力が入っていたことに気づく。

「少し、休みましょうか」

母の声に、琴葉は素直に頷いた。

椅子に腰を下ろすと、体の奥から、じわりと疲れが浮かび上がってくる。
奏一は何も言わず、差し出された湯のみをそっと受け取り、琴葉の手元に置いた。

その仕草だけで、「無理はしなくていい」という気持ちが伝わってくる。

「では……最後にこちらを」

店主がそう言って、店の奥からもう一枚着物が静かに運ばれてきた。

「こちらが、お祖母様の振袖ですね」

広げられた瞬間、空気がふっと引き締まる。

深紅の生地に金糸の鶴と牡丹。
数十年の時を経てもなお、艶を失わない深い紅が広がっていた。

「お直しすれば、まだまだ綺麗にお召しいただけますよ」

店主の穏やかな声。

琴葉はゆっくりと近づき、その振袖にそっと触れた。
指先に伝わる絹の感触が、驚くほど温かい。

「……羽織ってみても、いいですか?」

「もちろんです」

再び鏡の前に立ち、振袖を身にまとう。
その瞬間、空気が静かに変わった。

絹の重みが、体にしっとりと馴染む。
鏡の中で、赤が花のように広がり――
そこに映っていたのは、“少女”ではなく、“ひとりの女性”だった。

「……どう?」

母の問いに、琴葉は小さく頷く。

「なんか……あったかい。包まれてるみたい」

赤が頬を染める。
それは色ではなく、祖母や母が重ねてきた“時間の温もり”そのもののように思えた。

隣で見守っていた奏一が、静かに口を開く。

「本当に、よく似合っています」

低く、穏やかな声。
それは誉め言葉というより、確信に近かった。

琴葉の胸の奥で、何かがゆっくりと熱を帯びる。

――この着物を着て、生きてきた証を、受け継ぎたい。

鏡の中の自分を、まっすぐに見つめる。

「……うん。この赤にする」

その言葉に、母が一瞬目を見開き、すぐにやわらかく笑った。

「そう。きっとおばあちゃんも、喜ぶわ」

「……うん」

袖口をぎゅっと握ると、さらりと絹が鳴る。
まるで、祖母の掌が背中を押してくれるようだった。

奏一は何も言わず、静かに頷く。
その眼差しには、誇らしさと、どこか切ない温もりが宿っていた。

店主が丁寧に包みを整えながら微笑む。

「今日はここまでにして、小物は、また後日ゆっくり合わせましょう。お直しが終わりましたら、ご連絡いたしますね」

店主の言葉に、母が頷く。

「ありがとうございます」

琴葉も深く頭を下げた。

振袖を見つめたまま、琴葉は静かに息を吸う。
その赤は、冬の陽射しを閉じ込めたように温かかった。

店を出るころには、冬の日差しが少し傾き始めていた。
白い息が揺れる中、琴葉はふと手を胸に当て、微笑む。

「ねぇ、そうちゃん」

「はい」

「あの着物……いつか、誰かに受け継げたらいいな」

「そうですね。――きっと、叶いますよ」

その言葉は、冬の光に溶けて、やさしく響いた。
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