病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

文字の大きさ
71 / 102

第71話・静かな祝いのかたち

しおりを挟む
昼食を終えたあと、片づけを手伝おうと立ち上がった琴葉の手を、奏一がそっと止めた。

「後は私がやります。琴葉さんは支度を」

「でも……」

「大丈夫です。眠気がくる前に、やれることを済ませておきたいので」

穏やかにそう言われ、琴葉は小さく笑ってうなずいた。

室内には、エアコンの低い駆動音と、ポットの湯がわずかに揺れる音だけが響いている。
当直明けの奏一の声は、いつもより少し低く、柔らかい。
その響きに包まれていると、冬の午後の空気までもが、やさしく感じられた。

髪を整え、コートを羽織る。
鏡に映る自分の姿に小さく息をついた、そのとき――

「準備、できましたか?」

背後から声がして、琴葉は振り返った。

「うん。行こう」

外に出ると、冬の風が頬をかすめる。

車に乗り込むと、シートヒーターがじんわりと背中を温めてくれる。
助手席の琴葉は、膝の上で指を重ねながら、運転席の横顔をそっと見上げた。

「そうちゃん、眠くない?」

「少しだけ。でも、今日は私も一緒に行きたかったんです。
振袖の話は、琴葉さんにとって大切なことですから」

「……ありがとう」

その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
多くを語らなくても、ちゃんと想ってくれている――それが伝わってきた。

信号が赤に変わり、車が止まる。
窓の外には、柔らかな陽に照らされた並木道。
葉を落とした枝の影が、歩道に細い線を落としていた。

「ママ、すごく楽しみにしてるみたいなの」

「そうですか。私もおばあさまの振袖を見られるのが楽しみです」

「ふふ、そうちゃんが似合うって言ってくれたら、それで十分かも」

「きっと似合いますよ。想像できます」

ハンドルを握る手が、ほんのわずかに緩む。
短い微笑が、奏一の横顔に浮かんだ。

琴葉もつられて笑う。
エアコンの静かな風が、髪をやわらかく揺らした。

そして、車はゆっくりと白崎家の門前へと入っていく。

「着きました」

「……うん」

門の向こうでは、母が玄関先に立ち、手を振っていた。

「おかえり、琴葉」

「ただいま、ママ」

その隣で、奏一が軽く頭を下げる。
穏やかな微笑を浮かべるその姿に、母の表情も自然とやわらいだ。


玄関を上がり、リビングに入ると、ほのかにお茶の香りが漂っていた。
温かい湯気の立つ湯のみが4人分、テーブルに並べられている。

「当直明けなのに来てもらって、ごめんなさいね」

母の言葉に、奏一は静かに首を振った。

「いえ。こちらこそ、急にお邪魔してしまって」

「そんなこと、気にしなくていいんですよ、いつもお世話になってるのは、こちらなんですから」

その穏やかな声に、場の空気がすっと和らぐ。
琴葉は湯のみを受け取り、少し照れたように笑った。

「それでね、今日は振袖のことで……」

母は桐箱を運んできて、丁寧に蓋を開ける。
中から現れたのは、艶やかな深紅の古典柄の振袖だった。

「これが……おばあちゃんの?」

「そう。私も20歳のときに着たの。ずっと大切にしまってたのよ」

琴葉は思わず息をのむ。
指先に触れた絹の生地は、しっとりと手になじんだ。

落ち着いた深紅に、金糸で縫い取られた鶴と牡丹の模様。
時を重ねた分の重みと、品のある輝きがあった。

「すごい……。こんなに綺麗なんだね」

「少し古いけど、お直しすればまだ着られるわ。小物は、今風に替えた方がいいかもしれないけど」

奏一が頷く。

「赤は琴葉さんに似合います。
ただ、帯や小物で少し柔らかさを足した方が、今の琴葉さんには合いそうです」

「うん……確かに」

琴葉は、自分の姿を思い浮かべながら、小さく笑った。

「でも、淡い色の振袖も可愛いよね。カタログで見たんだけど、くすみピンクとか水色とか……」

「そうね」

母も頷く。

「いつもの呉服店に相談してみようと思ってるの。小物だけでもいいし、振袖から一式見てもいいかもしれないわね」

「ご相談なら、私もご一緒します」

奏一が自然に口を開く。

「体調のこともありますし……
振袖の相談は、どうしても時間がかかるでしょう。
試着もありますし、琴葉さんには少し負担になるかもしれません。
私も一緒にいた方が安心かと思います」

「そうちゃん……ありがと」

琴葉の声が、わずかに震えた。
その様子を見て、母はやさしい目を向ける。

父が一つ頷いて、静かに口を開いた。

「式には出ない代わりに、写真できちんと残す、という話だったな。
10月か11月なら、気候も落ち着いているし、体への負担も少ないだろう。
知り合いに写真館をやっている人がいるから、
その時期で一度、相談してみようと思っている」

「秋……いいですね」

奏一がうなずく。

「季節的にも安心ですし、屋内でも自然光を使えるなら、写真も柔らかく仕上がるでしょう」

「じゃあ……秋に振袖を着て、写真を撮るってことで決まりだね」

琴葉の声が、少し弾んだ。
その笑顔は、どこか誇らしく、少女らしい。

「ええ。楽しみね」

母の言葉に、「そうだな」と、父も目を細めた。

その光景を見つめながら、奏一は胸の奥に、あたたかなものが広がるのを感じていた。

“当たり前の未来”が、彼女にとってどれほど尊いものかを知っているからこそ。

静かなリビングに、湯のみが置かれる小さな音が響く。
その音が、不思議と心を満たしていった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

身を引いたのに、皇帝からの溺愛が止まりません ~秘された珠の還る場所~

ささゆき細雪
恋愛
五年前、内乱の混乱のなかで姿を消した最愛の妃・白瑤華(はくようか)。 彼女を失った皇帝・景玄耀(けいげんよう)は、その後ただ一人を想い続けながら執務に追われていた。そんなある日、書類に彼女の名前を発見し、居ても立っても居られなくなる。 ――死んだはずの彼女が、生きている? 同姓同名かもしれないが確かめずにいられなくなった彼は地方巡察を決行。そこで、彼によく似た幼子とともに彼女と再会、地方官吏として働く瑤華と、珠児(しゅじ)を見て、皇帝は決意する――もう二度と、逃がさないと。 「今さら、逃げ道があると思うなよ」 瑤華を玄耀は責めずに、待ちの姿勢で包み込み、囲い込んでいく。 秘された皇子と、選び直した愛。 三人で食卓を囲む幸福が、国をも動かすことになるなんて――?    * * * 後宮から逃げ出して身を引いたのに、皇帝の溺愛は止まらない――これはそんな、中華風異世界ロマンス。

御曹司とお試し結婚 〜3ヶ月後に離婚します!!〜

鳴宮鶉子
恋愛
御曹司とお試し結婚 〜3ヶ月後に離婚します!!〜

虚弱姫はコワモテ将軍の筋肉に触りたい

隙間ちほ
恋愛
◼︎無骨な英雄×病弱な筋肉フェチ姫 ◼︎辺境伯の末娘エルナは、領軍の英雄マテウスとの結婚が決まった。政略結婚――のはずが、実は姫は将軍の熱烈なファン。姫がノリノリで嫁ぐ一方、当のマテウスは「か弱い姫君に嫌われている」と思い込み、距離を取ってしまう……。 ◼︎筋肉と鼻血とすれ違いラブコメ。 ◼︎超高速展開、サクッと読めます。

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

君は恋人、でもまだ家族じゃない

山田森湖
恋愛
あらすじ 同棲して3年。 毎朝コーヒーを淹れて、彼の寝ぼけた声に微笑んで、 一緒に暮らす当たり前の幸せを噛みしめる——そのはずだった。 彼女は彼を愛している。 彼も自分を愛してくれていると信じている。 それでも、胸の奥には消えない不安がある。 「私たちは、このまま“恋人”で止まってしまうの?」 結婚の話になると、彼はいつも曖昧に笑ってごまかす。 最初は理由をつけていたのに、今では何も言わなくなった。 周囲の友人は次々と結婚し、家族を持ち始めている。 幸せそうな写真を見るたび、彼女の心には “言えない言葉”だけが増えていく。 愛している。 でも、それだけでは前に進めない。 同棲という甘い日常の裏で、 少しずつ、確かにズレ始めているふたりの未来。 このまま時間に流されるだけの恋なのか、 それとも、家族へと歩き出せる恋なのか——。 彼の寝息を聞きながら、 彼女は初めて「涙が出そうな夜」を迎えていた。

多分悪役令嬢ですが、うっかりヒーローを餌付けして執着されています

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【美味しそう……? こ、これは誰にもあげませんから!】 23歳、ブラック企業で働いている社畜OLの私。この日も帰宅は深夜過ぎ。泥のように眠りに着き、目覚めれば綺羅びやかな部屋にいた。しかも私は意地悪な貴族令嬢のようで使用人たちはビクビクしている。ひょっとして私って……悪役令嬢? テンプレ通りなら、将来破滅してしまうかも! そこで、細くても長く生きるために、目立たず空気のように生きようと決めた。それなのに、ひょんな出来事からヒーロー? に執着される羽目に……。 お願いですから、私に構わないで下さい! ※ 他サイトでも投稿中

最弱白竜ですが、なぜか学園最強の銀竜に番認定されました

めめめ
恋愛
竜の血を引く者だけが貴族になれるこの世界で、白竜は最も格の低い竜の証。 白竜の男爵令嬢リーゼロッテは、特待生として国内最高峰の王立竜騎学園に入学する。待っていたのは上位貴族からの蔑みと、学園を支配する四人の御曹司「四竜」。 その筆頭、銀竜公爵家の嫡男ルシアンに初日から啖呵を切ったリーゼは、いじめと嫉妬の嵐に巻き込まれていく。 それでも彼女は媚びない、逃げない、折れない。 やがてルシアンはリーゼから目が離せなくなり―― 白竜の少女が、学園と王国の運命を変える。 身分差×竜×学園ラブファンタジー、開幕。

さようなら、私を「枯れた花」と呼んだ貴方。~辺境で英雄を救って聖女と呼ばれたので、没落した元婚約者の謝罪は受け付けません~

有賀冬馬
恋愛
「お前のような見栄えの悪い女は、俺の隣にふさわしくない」 婚約者アレクに捨てられ、辺境へ追いやられたセレナ。 けれど、彼女が森で拾ったのは、アレクなど足元にも及ばないほど強くて優しい、呪われた英雄ライアンだった。 セレナの薬草が奇跡を起こし、王都を救う特効薬となったとき、かつて自分を捨てた男との再会が訪れる。 「やり直そう」と縋り付くアレクに、セレナは最愛の人と寄り添いながら静かに微笑む。 ――あなたが捨てたのは、ただの影ではなく、あなたの未来そのものだったのですよ。

処理中です...