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第74話・受け継いだ色に、春を添えて
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3月初旬。
まだ風は冷たいけれど、陽の光には春の気配が混じりはじめていた。
奏一はハンドルを握り、助手席で小さく息をつく琴葉に視線を向ける。
「寒くないですか?」
「うん、大丈夫。でも……やっぱりちょっと緊張するね」
「今日は小物合わせですからね。
恐らく、想像よりも選ぶものが多いですよ」
「そうなんだ……」
琴葉は窓の外を見つめる。
街路樹には小さな蕾が並び、道端の花壇には早咲きのパンジーが色を添えていた。
「でも楽しみ。おばあちゃんの振袖、やっと完成したんだもん」
「ええ。今日も無理せず、ゆっくり決めていきましょう」
奏一の言葉に、琴葉は小さくうなずく。
信号が青に変わり、車は静かに動き出した。
やがて、老舗の呉服店の暖簾が見えてくる。
白崎家が代々世話になってきた店だ。
入口の前にはすでに母の姿があった。
「先生、こんにちは。今日もお忙しいところありがとうございます」
母が笑顔で迎える。
「お世話になっております、とんでもありません。本日もよろしくお願いいたします」
奏一はそう返し、車を降りる琴葉の肩に、さりげなく手を添えた。
その仕草に、母は一瞬だけ柔らかく目を細める。
「さ、入りましょう。お店の方もお待ちくださってるわ」
店内に入ると、畳の香と白木のぬくもりが迎えてくれる。
「白崎さま、お待ちしておりました」
迎えに出たのは、先日も対応してくれた店主。
白髪をきちんとまとめ、気品と温かさを兼ね備えた笑顔で出迎える。
「先日はありがとうございました。お直しが終わったと伺いまして」
母が挨拶をすると、店主は柔らかく頷いた。
「ええ、とても丁寧に仕上がりましたよ。
どうぞ、奥の畳のお部屋へお入りくださいませ」
案内された座敷には、深紅の振袖が広げられていた。
絹の光沢が灯りを受け、牡丹や鶴の金糸が静かに揺らめく。
古典の気品と温かみを併せ持つ一枚――
時を越え、再び袖を通されるその姿は、まるで受け継がれた想いそのもののようだった。
「……すごく、きれい」
琴葉は思わず小さく息を呑む。
「おばあちゃんが選んだものだからね」
母の声には少し懐かしさが滲む。
店主も穏やかに微笑んだ。
「この深紅は、昔から祝いの席で好まれてきた色でして。
若い方が袖を通されると、不思議と新しい表情を見せるのですよ」
その言葉に、奏一は思わず琴葉を見る。
柔らかな光の中で振袖を見つめる彼女は、たしかに、新しい息吹を宿していた。
「それでは、本日はこのお着物に合わせて、帯や小物を整えてまいりましょう」
店主の合図で、いくつかの箱が運ばれてくる。
帯揚げ、帯締め、草履、バッグ――
絹や金糸の光沢が、畳の上に静かに並べられていった。
「こちらは、今の若い方にも人気の組み合わせでございます。
淡い藤色を挿しますと、赤がぐっと柔らかく見えますよ」
「まぁ、素敵ね」
母がそう言って、琴葉の肩に視線を落とす。
「どう思う? 琴葉」
「うん……可愛い。
でも、こっちの白い帯揚げも、きれいだね」
「ええ、白を入れると上品にまとまりますね」
店主がそう言い、白い帯揚げを振袖の上にそっと重ねた。
深紅の絹に、雪のような白が添えられる。
空気が、一瞬で澄むような美しさだった。
「……これ、好きかも」
琴葉の頬に、淡い熱が灯る。
母は嬉しそうに目を細め、ちらりと奏一を見る。
「先生は、どう思われますか?」
奏一は少し間を置いてから、静かに微笑んだ。
「とても、琴葉さんらしいと思います。
赤がきれいに映えて……柔らかい印象になりますね」
その声音は穏やかで、どこか胸の奥からにじみ出るようだった。
琴葉が顔を上げて笑う。
それだけで、座敷の空気がふっと和らぐ。
「では、帯締めはこちらで合わせてみましょうか」
白に金糸をあしらったもの。
淡い桜色。
深緑を差し色にしたもの――。
琴葉はそのひとつひとつを見比べながら、
母や店主の助言に耳を傾け、慎重に手を伸ばしていく。
「こっちかな……ううん、でも……」
「焦らなくていいのよ」
母が笑って肩に手を置く。
「こんなに似合う色が多いんだもの。迷うのも楽しいわよね」
「うん……そうだね」
奏一は言葉を挟まず、ただ静かにその光景を見つめていた。
鏡の中の琴葉は、絹の色に囲まれながら、春先の陽だまりのような表情をしている。
ふと、ずっと昔の記憶が脳裏をよぎる。
白い病室で、幼い彼女が泣く子の手を握っていた、あの日の光景。
(あの時の子が、いまここにいる)
この光景を見られることが、どんな勲章よりも価値のあることだと――
奏一は、心の底から思っていた。
まだ風は冷たいけれど、陽の光には春の気配が混じりはじめていた。
奏一はハンドルを握り、助手席で小さく息をつく琴葉に視線を向ける。
「寒くないですか?」
「うん、大丈夫。でも……やっぱりちょっと緊張するね」
「今日は小物合わせですからね。
恐らく、想像よりも選ぶものが多いですよ」
「そうなんだ……」
琴葉は窓の外を見つめる。
街路樹には小さな蕾が並び、道端の花壇には早咲きのパンジーが色を添えていた。
「でも楽しみ。おばあちゃんの振袖、やっと完成したんだもん」
「ええ。今日も無理せず、ゆっくり決めていきましょう」
奏一の言葉に、琴葉は小さくうなずく。
信号が青に変わり、車は静かに動き出した。
やがて、老舗の呉服店の暖簾が見えてくる。
白崎家が代々世話になってきた店だ。
入口の前にはすでに母の姿があった。
「先生、こんにちは。今日もお忙しいところありがとうございます」
母が笑顔で迎える。
「お世話になっております、とんでもありません。本日もよろしくお願いいたします」
奏一はそう返し、車を降りる琴葉の肩に、さりげなく手を添えた。
その仕草に、母は一瞬だけ柔らかく目を細める。
「さ、入りましょう。お店の方もお待ちくださってるわ」
店内に入ると、畳の香と白木のぬくもりが迎えてくれる。
「白崎さま、お待ちしておりました」
迎えに出たのは、先日も対応してくれた店主。
白髪をきちんとまとめ、気品と温かさを兼ね備えた笑顔で出迎える。
「先日はありがとうございました。お直しが終わったと伺いまして」
母が挨拶をすると、店主は柔らかく頷いた。
「ええ、とても丁寧に仕上がりましたよ。
どうぞ、奥の畳のお部屋へお入りくださいませ」
案内された座敷には、深紅の振袖が広げられていた。
絹の光沢が灯りを受け、牡丹や鶴の金糸が静かに揺らめく。
古典の気品と温かみを併せ持つ一枚――
時を越え、再び袖を通されるその姿は、まるで受け継がれた想いそのもののようだった。
「……すごく、きれい」
琴葉は思わず小さく息を呑む。
「おばあちゃんが選んだものだからね」
母の声には少し懐かしさが滲む。
店主も穏やかに微笑んだ。
「この深紅は、昔から祝いの席で好まれてきた色でして。
若い方が袖を通されると、不思議と新しい表情を見せるのですよ」
その言葉に、奏一は思わず琴葉を見る。
柔らかな光の中で振袖を見つめる彼女は、たしかに、新しい息吹を宿していた。
「それでは、本日はこのお着物に合わせて、帯や小物を整えてまいりましょう」
店主の合図で、いくつかの箱が運ばれてくる。
帯揚げ、帯締め、草履、バッグ――
絹や金糸の光沢が、畳の上に静かに並べられていった。
「こちらは、今の若い方にも人気の組み合わせでございます。
淡い藤色を挿しますと、赤がぐっと柔らかく見えますよ」
「まぁ、素敵ね」
母がそう言って、琴葉の肩に視線を落とす。
「どう思う? 琴葉」
「うん……可愛い。
でも、こっちの白い帯揚げも、きれいだね」
「ええ、白を入れると上品にまとまりますね」
店主がそう言い、白い帯揚げを振袖の上にそっと重ねた。
深紅の絹に、雪のような白が添えられる。
空気が、一瞬で澄むような美しさだった。
「……これ、好きかも」
琴葉の頬に、淡い熱が灯る。
母は嬉しそうに目を細め、ちらりと奏一を見る。
「先生は、どう思われますか?」
奏一は少し間を置いてから、静かに微笑んだ。
「とても、琴葉さんらしいと思います。
赤がきれいに映えて……柔らかい印象になりますね」
その声音は穏やかで、どこか胸の奥からにじみ出るようだった。
琴葉が顔を上げて笑う。
それだけで、座敷の空気がふっと和らぐ。
「では、帯締めはこちらで合わせてみましょうか」
白に金糸をあしらったもの。
淡い桜色。
深緑を差し色にしたもの――。
琴葉はそのひとつひとつを見比べながら、
母や店主の助言に耳を傾け、慎重に手を伸ばしていく。
「こっちかな……ううん、でも……」
「焦らなくていいのよ」
母が笑って肩に手を置く。
「こんなに似合う色が多いんだもの。迷うのも楽しいわよね」
「うん……そうだね」
奏一は言葉を挟まず、ただ静かにその光景を見つめていた。
鏡の中の琴葉は、絹の色に囲まれながら、春先の陽だまりのような表情をしている。
ふと、ずっと昔の記憶が脳裏をよぎる。
白い病室で、幼い彼女が泣く子の手を握っていた、あの日の光景。
(あの時の子が、いまここにいる)
この光景を見られることが、どんな勲章よりも価値のあることだと――
奏一は、心の底から思っていた。
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