病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

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第82話・夕暮れに、手を重ねて

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部屋の時計が、ゆっくりと時を刻んでいた。
薬の効果と高熱のせいで、琴葉は朝からほとんど眠り続けている。

母は1時間おきにそっとドアを開け、呼吸のリズムと額の熱を確かめた。

額にはひんやりとしたジェルシートが貼られている。
体温の上昇を少しでも抑えようと、シートが温まるたびに新しいものへと替えていた。

胸の上下は穏やかで、今のところ急変はないように見える。
それでも、安心などできるはずがなかった。

(このまま……このまま何事もありませんように)

そう祈りながら、リビングの時計を見上げたその時だった。

――携帯が震える。
ディスプレイに表示された名前は、「遠野奏一」。

「……先生」

「白崎さん、今お時間よろしいですか」

受話口の向こうの声は、わずかにかすれていた。
長時間の手術を終えた直後なのだと、その声音だけで分かる。

『琴葉さんの容体は、いかがですか』

「……大きな変化はありません。
いまは眠っています。熱はありますが、落ち着いているように見えます」

『そうですか……ありがとうございます』

短く息を吐く音がした。
張り詰めていた糸が、ほんの少しだけ緩むのが伝わってくる。

『すぐに向かいます。……あと20分ほどで着くと思います』

「分かりました。気をつけていらしてください」

通話が切れたあと、母は小さく息を吐き、リビングのカーテンを閉めた。
窓の外では、夕暮れの光が街を橙色に染めている。

その頃、病院の駐車場を出た1台の車が、夕焼けの道を抜けて走っていた。

ハンドルを握る奏一の手には、長時間グローブをしていた名残が残っている。
まだ完全には抜けない疲労を押し殺し、ただ一つの願いだけを胸に抱いていた。

***

やがて、玄関のドアが静かに閉まる音がした。
母に案内され、奏一は無言で頷くと、落ち着いた足取りで2階の廊下を進む。

部屋の前に立ち、ノックを一度。
返事はない。
母の視線に小さく頷き、そっとドアノブを回した。

カーテンの隙間から、夕方の光が差し込んでいる。
ベッドの上では、琴葉が眠っていた。

頬はわずかに赤く、額には冷却シート。
その表情は静かで、どこか幼い。

奏一は音を立てぬように近づき、まず脈と呼吸を確認した。
胸の上下は一定で、酸素の取り込みにも問題はない。
心拍のリズムも穏やかだった。

(……ひとまず、大丈夫そうだ)

胸ポケットから小さな懐中ライトを取り出し、瞳孔反応を確認する。
口唇の色も異常はない。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。

額の冷却シートを指先でつまみ、そっと剥がす。
ぬるくなったジェルが指に触れ、その下の肌から、まだ熱の残る温もりが伝わった。

新しいものを貼ろうとして――ふと、手が止まる。

その代わりに、彼はゆっくりと自分の掌を琴葉の額へ当てた。

ひんやりとした指先が、火照った肌に触れる。
その瞬間、琴葉のまつ毛がかすかに震えた。

「……ん……ママ……?」

掠れた声がこぼれる。
薄く開いた瞳が、焦点を探すように揺れた。

「いいえ」

低く、静かで、それでも優しい声。

「……そう……ちゃ……?」

視界の中の影が彼だと分かった瞬間、琴葉の瞳にかすかな光が戻る。

「驚かせてしまいましたね」

奏一は眉を緩め、枕元のペットボトルを手に取った。

「喉、渇いていませんか。少しだけ飲めそうですか」

小さく頷くのを見て、キャップを開け、ストローを差し込む。
支えられながら、1口、2口。
冷たい水が喉を通り、呼吸がわずかに整った。

「……ごめん、ね」

か細い声。
その言葉に、奏一は静かに首を振る。

「謝らないでください。
今は、体を休めることだけ考えて」

「……でも、そうちゃん、忙しいのに……」

「琴葉さんの方が大事です」

短く、それだけを言った。

目の前の彼は、白衣ではなく私服姿。
それでも“先生”の顔をしていて、同時に、恋人としての表情も隠しきれていなかった。

「熱は少しありますが、呼吸は安定しています。
……もう少し、眠りましょう」

頷いた琴葉の瞼がゆっくりと閉じる。
その頭を支えながら、奏一は再び額に手を当てた。
掌の下から、確かな鼓動が伝わってくる。

(……どうか、もうこれ以上苦しまないでほしい)

夕陽が沈み、部屋の中に静けさが戻る。
彼はそっと椅子を引き寄せ、そのまま琴葉の傍に座り続けた。
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