病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

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第81話・祈るしかできない時間

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「いや……行かない。行きたくないの」

琴葉の声は震えていた。
それでも、その拒絶ははっきりとしていて、誰の言葉も受けつけない。

どんなに声をかけても、首を振るばかり。
布団を掴む指先に力がこもるのを見て、母の胸が締めつけられた。

「……わかったわ。少し、休んでいなさい」

それ以上は言わず、母は静かに立ち上がる。
扉を閉める間際、もう一度だけ娘の顔を見たが、琴葉は目を伏せたままだった。

廊下に出た瞬間、母の心臓が早鐘を打つように脈を打ち始める。
胸の奥のざわめきを押さえながら、震える手でスマートフォンを取り出し、登録された名前を押す。

数回のコールのあと、落ち着いた声が応答した。

『白崎さん、どうされましたか』

「先生……ごめんなさいね。あの子、朝から熱があって。
今38度を超えているの」

一拍の間。

『……そうですか。ほかに症状は?』

「倦怠感と、喉が痛いみたい。
でも……病院には行きたくないって。
どんなに言っても、首を縦に振らないのよ」

短い沈黙のあと、受話口の向こうで小さく息を吐く音がした。

『……申し訳ありません、これから執刀に入ります。
すぐには伺えませんが、終わり次第、向かいます』

「……わかったわ。
でも、このままだと、熱が上がるんじゃないかしら」

『予備でお渡しした薬の中に、解熱剤があります
それを飲ませてください。
水分も、少しずつで構いませんので飲ませてください』

一瞬、言葉が途切れる。

『それと……』

奏一の声が、わずかに低くなった。

『万が一、急変した場合は、ためらわずに救急車を呼んでください。
その際は、必ずうちの病院に搬送をお願いしてください』

母は黙って頷いた。
電話の向こうの彼が、冷静さの裏で焦りを押し殺しているのが、はっきりと伝わってくる。

「わかったわ。……先生も、どうか気をつけて」

『ありがとうございます。終わり次第、必ず伺います』

通話が切れたあとも、耳にはその声が残っていた。
母は深く息を吐き、胸元に手を当てる。

奏一が、どれほど自分を律しているのか――
母には、痛いほど分かってしまった。

台所へ向かい、お粥の鍋に火を入れる。
弱火にかけながら、預かっていた袋から錠剤を一つ取り出した。

(どうか……これで少しでも、落ち着いてくれますように)

鍋から立ちのぼる湯気を、祈るように見つめる。
やがてお粥と薬を手に、再び琴葉の部屋へ向かった。


ドアを開けると、部屋の空気は先ほどよりも重く沈んでいる。

「琴葉、入るわね」

「……うん」

かすかな返事。
母はベッドのそばに腰を下ろし、お盆をテーブルに置く。

「少しでいいの。これ、食べられる?」

琴葉はうつむいたまま、しばらく動かなかったが、やがて小さく頷く。

スプーンでひと口。
薄味のお粥に、ほんのりと生姜の香りが混じる。
舌の上に広がる温もりに、わずかに力が戻る気がした。

「……ママ、ありがとう」

「いいのよ。……それから、これも」

母が差し出したのは、透明のグラスに入った経口補水液。

「少しずつでいいからね。一気に飲まなくていいのよ」

琴葉は喉の痛みに顔をしかめながらも、ゆっくりと口に含んだ。

最後に、母が手のひらに小さな錠剤を乗せる。

「先生から預かっていたお薬。解熱剤よ」

「……そうちゃんが?」

「ええ。これを飲んで、少し休みましょう」

奏一の名前が出た瞬間、琴葉の瞳がわずかに揺れた。
それでも、何も言わず、薬を受け取り、水で静かに飲み込む。

「いい子ね」

母の声は、柔らかかった。
琴葉はうつむいたまま、「……うん」と小さく呟く。

頬に触れた母の指先は、少し冷たくて。
その感触が、幼い頃の記憶を呼び起こすように心地よく、琴葉はそっと目を閉じた。

「眠っていいわ。……ちゃんと、見てるから」

「うん……」

布団を整え、母は静かに部屋を出る。

(どうか……このまま、落ち着いてくれますように……)

廊下の明かりの下で、母は深く息を吐いた。
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