病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

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第80話・まだ、大丈夫だと思っていた

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時計の針が、規則正しく時を刻んでいた。
昼と夜の境目が曖昧なまま、時間だけが静かに過ぎていく。

カーテンを閉め切った薄暗い部屋。
ベッドの上で、琴葉は小さく身を丸めていた。

何もする気になれない。
昨日の出来事が、何度も何度も頭の中で繰り返される。

(……卒業してから、って言われた)
(やっぱり、私は……)

その言葉だけが、脳裏に焼き付いて離れない。

ドアの外から母の声がした。

「琴葉、ごはんにしましょう? お腹、空いたでしょう」

「……いらない」

そう答えると、廊下は静かになった。
やがて、ドアの隙間から湯気の混じった匂いが漂ってくる。

味噌汁や煮物。
いつもなら心が落ち着くはずの匂いなのに、今日は胸の奥がきゅっと締めつけられた。

箸を持っても、喉が拒むように動かない。

(……そうちゃんの味じゃない)

何度か口に運んだものの、味がわからなかった。
結局、半分も食べられずに箸を置く。

机の上で、スマートフォンの画面が淡く光っている。
通知に表示された名前を見ただけで、指先が震えた。

『体調はどうですか。無理をしていませんか。』

読むだけで、喉の奥が詰まる。
返したいのに、指が動かない。

「ごめんなさい」も、「大丈夫」も、今はどちらも怖かった。

画面を伏せ、布団に顔を埋める。
滲んだ涙が、枕を静かに濡らしていた。


翌朝。
母が心配そうにドアをノックした。

「琴葉、少しは食べた? 昨日からほとんど口にしてないわ」

「……食べる気がしないの」

「体調が悪いの?」

「ううん、違う……ただ、食べても味がしない」

母はしばらく黙り込み、「お昼にはおかゆを作るわね」とだけ言って階段を下りていった。

昼下がり。
カーテンの向こうで光が揺れている。

琴葉は天井を見つめたまま、ベッドから起き上がれずにいた。
朝から何もしていないのに、体が重い。
胸の奥が、どくん、と鈍く脈を打つ。

(……少し、力が入らないかも)

昨日からほとんど食べていない。
空腹はあるのに、喉の奥に鉛のような重さが残っていた。

机の上には、母が置いていったおかゆ。
湯気はもう、ほとんど消えている。

「……やっぱり、味がしない」

スプーンを動かして、2、3口。
それ以上は受けつけなかった。


夕方になり、再び母の声。

「琴葉? 少し顔、見せてくれる?」

ゆっくり上体を起こし、返事をする。

「……うん」

母は琴葉の顔を見て、眉を寄せた。

「顔色、悪いわね。熱は?」

「ないよ」

「本当に?」

「うん……平気」

母はそっと額に手を当てる。
熱はない。けれど、血の気が薄い。
唇の色が少し白いのを見て、心の奥で小さな警鐘が鳴った。

「……明日、病院に行きましょう。念の為に」

「嫌」

「どうして?」

「行きたくない」

短い拒絶。
理由があることは分かっていても、母はそれ以上踏み込まなかった。

「……わかったわ。今日は早く休んで。でも、少しでも苦しくなったらすぐ呼んでね」

「うん」

母はもう一度だけ娘の顔を見て、静かにドアを閉めた。


そして、夜。
家の中がすっかり静まり返ったころ。

琴葉は布団の中で、さらに身を縮めていた。
体の芯がじんわりと熱を帯び、喉の奥がひりつく。

(……少し、熱っぽいかも)

本当なら、母を呼ぶべきだった。
けれど声が出ない。

“病院に行けば、そうちゃんに会う”
その考えが浮かんだ瞬間、胸が締めつけられた。

(……嫌だ。顔、見られない)

そう思い、喉の渇きも放置したまま、目を閉じる。
瞼の裏が熱くなり、涙がこぼれた。

(……ごめんね、そうちゃん)

やがて意識は曖昧になり、眠りと熱の境目へと沈んでいった。

***

翌朝。
カーテンの隙間から差し込む光が、やけに眩しい。
体が重く、喉が焼けるように痛んだ。

母が部屋に入ってきて、はっと息を呑む。

「……琴葉、顔が赤いわ。熱、あるでしょう?」

体温計の数字を見た瞬間、母の表情が変わる。

「38度……!」

「……大丈夫。すぐ下がるから」

「大丈夫じゃないわ。病院に行くわよ」

「絶対、嫌!」

布団を握りしめ、琴葉は首を振る。
掠れた声なのに、その拒絶だけははっきりしていた。

「どうしてそんなに嫌がるの? 怖いの?」

「……そうちゃんに……会いたくない」

母は言葉を失い、しばらく娘を見つめたあと、静かに言った。

「……わかったわ。理由は、あとでいい。
でもね、命に関わることなの。今だけは、お願い」

琴葉は答えなかった。
涙を溜めたまま、小さく首を横に振るだけだった。
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