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第79話・隣に立つ資格
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5月上旬。
白崎家のリビングには、穏やかな午後の日差しが差し込んでいた。
テーブルの上には温かな紅茶が並び、母が焼いたクッキーの甘い香りがふわりと漂っている。
重たい話をする雰囲気ではない。
この日はあくまで“入籍の日取りを軽く決めるだけ”のつもりだった。
「もう2人とも落ち着いてるし、そろそろ日にちを決めてもいいんじゃないかしら」
母がやわらかく切り出すと、父も静かに頷いた。
「そうだな。急ぐ必要はないが、区切りは大事だ」
(……いよいよ、なんだ)
胸の奥で、小さく息をのむ。
母から電話をもらったときは少し戸惑ったけれど、今は――隣にいる彼の存在が、心を落ち着かせてくれていた。
奏一となら大丈夫。
そう、信じていた。
「……そうちゃんは、いつがいいと思う?」
ほんの少し緊張を含んだ声で、琴葉が尋ねる。
自然と家族の視線が奏一へと集まった。
彼は一拍だけ間を置き、ゆっくりと息を吐く。
「……申し訳ありません。
入籍は、琴葉さんが大学を卒業されてからにしたいと考えています」
その言葉と同時に、空気が静かに止まった。
母が一瞬、驚いたように瞬きをする。
「え……? そうなの? てっきり、琴葉の誕生日前後かと思ってたわ」
奏一はゆっくりと頷き、父と母をまっすぐに見据えた。
「はい。もちろん、気持ちの上ではすぐにでも……。
ですが、琴葉さんには学生としての時間を、大切にしてほしいんです。
勉強も、友人関係も、ようやく自分のペースで楽しめるようになりましたから」
その声には、迷いのない温度があった。
「少し前にも、ご友人の方と買い物に出かけられて。
帰ってきたときの表情が、本当に嬉しそうでした。
私はその笑顔を見て、安心したんです。
だからこそ、焦って形にするより、今の“日常”を守るほうが琴葉さんにとって幸せだと思いました」
「……まあ。そう言われると確かにそうね」
母が頬を緩める。
「最近、本当に楽しそうだったもの。
家に帰ってきても、よく笑うようになって」
父も「遠野先生がそう仰るなら、焦ることはないな。学業優先、それが一番だ」と頷いた。
――けれど。
琴葉だけが、何も言えずにいた。
テーブルの上の紅茶が、ゆっくりと冷めていく。
母の笑顔も、奏一の言葉も、どこか遠くに霞んでいった。
(……どうして?)
胸の奥に冷たい痛みが広がっていく。
(……私は、“今すぐじゃなくてもいい存在”なの…… ?)
紅茶の表面に揺れる光が、かすかに震える。
その揺らぎが、そのまま胸の内に落ちてくるようだった。
リビングには、話し合いが一区切りついたあとの、穏やかな空気だけがある。
「じゃあ、入籍は卒業してから、ってことで決まりね」
母が明るくまとめた。
「はい。ありがとうございます」
奏一が静かに頭を下げると、父も「では、そのように院長先生にも伝えておこう」と笑っう。
――それで、すべてが丸く収まった。
そう思われるはずだった。
琴葉は俯いたまま、冷めかけた紅茶を見つめていた。
カップを持とうとする指先が、かすかに震えている。
(……違う。そうちゃんが、私を大切に思ってくれているのは、ちゃんと分かってる)
(分かっているのに――
どうして、こんなに胸が痛むんだろう)
(私は、いつも体調を崩して、そのたびに忙しいそうちゃんの時間を奪っている)
(支えられてばかりで、“隣に立つ資格”があるのか、分からなくなる)
(だから――“今はまだ”って言われたのかもしれない)
(選ばれなかった、なんて思いたくない。
でも……“今”じゃないって言われたことが、こんなに痛いなんて)
もう誰の言葉も耳に入らなかった。
部屋の中の音が遠のき、鼓動の音がやけに大きく響く。
「琴葉?」
母の呼びかけに、彼女はわずかに顔を上げる。
「大丈夫? 顔色が……」
「……うん、大丈夫。少し、休んでくるね」
そう言って立ち上がった声は、はっきりと震えていた。
止める間もなく、琴葉は階段を上がり、自室のドアを閉める。
乾いた音が、静かな家の中に響いた。
母はしばらく立ち尽くしたあと、困ったように微笑みを作り、奏一を見る。
「……ごめんなさいね。あの子、少し疲れたのかもしれないわ」
「……いえ」
奏一は小さく首を振った。
唇がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。
「琴葉さん。……大丈夫ですか?」
呼びかけに、返事はない。
沈黙だけが、重く返ってきた。
それが拒絶のように感じられて、胸が痛む。
それでも、彼は踏み込まなかった。
今、無理に追えば、もっと彼女を追い詰めてしまう――
そう思ってしまったからだ。
「……では、今日はこれで失礼します」
奏一は父母に頭を下げ、玄関へ向かう。
扉を開けると、夕暮れの風が冷たく頬を撫でた。
振り返れば、階段の上に灯る明かり。
そこにいるはずの彼女の影は、見えなかった。
(守るつもりで……また、置き去りにしてしまったのか)
胸の内でそう呟き、奏一は静かにドアを閉めた。
白崎家のリビングには、穏やかな午後の日差しが差し込んでいた。
テーブルの上には温かな紅茶が並び、母が焼いたクッキーの甘い香りがふわりと漂っている。
重たい話をする雰囲気ではない。
この日はあくまで“入籍の日取りを軽く決めるだけ”のつもりだった。
「もう2人とも落ち着いてるし、そろそろ日にちを決めてもいいんじゃないかしら」
母がやわらかく切り出すと、父も静かに頷いた。
「そうだな。急ぐ必要はないが、区切りは大事だ」
(……いよいよ、なんだ)
胸の奥で、小さく息をのむ。
母から電話をもらったときは少し戸惑ったけれど、今は――隣にいる彼の存在が、心を落ち着かせてくれていた。
奏一となら大丈夫。
そう、信じていた。
「……そうちゃんは、いつがいいと思う?」
ほんの少し緊張を含んだ声で、琴葉が尋ねる。
自然と家族の視線が奏一へと集まった。
彼は一拍だけ間を置き、ゆっくりと息を吐く。
「……申し訳ありません。
入籍は、琴葉さんが大学を卒業されてからにしたいと考えています」
その言葉と同時に、空気が静かに止まった。
母が一瞬、驚いたように瞬きをする。
「え……? そうなの? てっきり、琴葉の誕生日前後かと思ってたわ」
奏一はゆっくりと頷き、父と母をまっすぐに見据えた。
「はい。もちろん、気持ちの上ではすぐにでも……。
ですが、琴葉さんには学生としての時間を、大切にしてほしいんです。
勉強も、友人関係も、ようやく自分のペースで楽しめるようになりましたから」
その声には、迷いのない温度があった。
「少し前にも、ご友人の方と買い物に出かけられて。
帰ってきたときの表情が、本当に嬉しそうでした。
私はその笑顔を見て、安心したんです。
だからこそ、焦って形にするより、今の“日常”を守るほうが琴葉さんにとって幸せだと思いました」
「……まあ。そう言われると確かにそうね」
母が頬を緩める。
「最近、本当に楽しそうだったもの。
家に帰ってきても、よく笑うようになって」
父も「遠野先生がそう仰るなら、焦ることはないな。学業優先、それが一番だ」と頷いた。
――けれど。
琴葉だけが、何も言えずにいた。
テーブルの上の紅茶が、ゆっくりと冷めていく。
母の笑顔も、奏一の言葉も、どこか遠くに霞んでいった。
(……どうして?)
胸の奥に冷たい痛みが広がっていく。
(……私は、“今すぐじゃなくてもいい存在”なの…… ?)
紅茶の表面に揺れる光が、かすかに震える。
その揺らぎが、そのまま胸の内に落ちてくるようだった。
リビングには、話し合いが一区切りついたあとの、穏やかな空気だけがある。
「じゃあ、入籍は卒業してから、ってことで決まりね」
母が明るくまとめた。
「はい。ありがとうございます」
奏一が静かに頭を下げると、父も「では、そのように院長先生にも伝えておこう」と笑っう。
――それで、すべてが丸く収まった。
そう思われるはずだった。
琴葉は俯いたまま、冷めかけた紅茶を見つめていた。
カップを持とうとする指先が、かすかに震えている。
(……違う。そうちゃんが、私を大切に思ってくれているのは、ちゃんと分かってる)
(分かっているのに――
どうして、こんなに胸が痛むんだろう)
(私は、いつも体調を崩して、そのたびに忙しいそうちゃんの時間を奪っている)
(支えられてばかりで、“隣に立つ資格”があるのか、分からなくなる)
(だから――“今はまだ”って言われたのかもしれない)
(選ばれなかった、なんて思いたくない。
でも……“今”じゃないって言われたことが、こんなに痛いなんて)
もう誰の言葉も耳に入らなかった。
部屋の中の音が遠のき、鼓動の音がやけに大きく響く。
「琴葉?」
母の呼びかけに、彼女はわずかに顔を上げる。
「大丈夫? 顔色が……」
「……うん、大丈夫。少し、休んでくるね」
そう言って立ち上がった声は、はっきりと震えていた。
止める間もなく、琴葉は階段を上がり、自室のドアを閉める。
乾いた音が、静かな家の中に響いた。
母はしばらく立ち尽くしたあと、困ったように微笑みを作り、奏一を見る。
「……ごめんなさいね。あの子、少し疲れたのかもしれないわ」
「……いえ」
奏一は小さく首を振った。
唇がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。
「琴葉さん。……大丈夫ですか?」
呼びかけに、返事はない。
沈黙だけが、重く返ってきた。
それが拒絶のように感じられて、胸が痛む。
それでも、彼は踏み込まなかった。
今、無理に追えば、もっと彼女を追い詰めてしまう――
そう思ってしまったからだ。
「……では、今日はこれで失礼します」
奏一は父母に頭を下げ、玄関へ向かう。
扉を開けると、夕暮れの風が冷たく頬を撫でた。
振り返れば、階段の上に灯る明かり。
そこにいるはずの彼女の影は、見えなかった。
(守るつもりで……また、置き去りにしてしまったのか)
胸の内でそう呟き、奏一は静かにドアを閉めた。
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