病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

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第78話・答えのない問い

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午後の陽がゆっくりと傾き、白いカーテンの縁が淡い橙に染まりはじめたころ。
テーブルの上のスマートフォンが、小さく震えた。

画面に表示された名前――「母」。

一瞬だけ指が止まる。
けれど、深呼吸ひとつして、琴葉は通話ボタンを押した。

「……もしもし」

『琴葉? いま、少し話せる?』

「うん。どうしたの?」

母の声は、いつもと変わらず穏やかだった。
けれど、その奥に、ほんのわずか――
決意のような硬さが混じっているのを、琴葉は感じ取っていた。

『院長先生とね、少しお話をしたの。
そろそろ、話が進みそうよ。あなたたちのこと』

「……え?」

耳の奥で、鼓動が一度だけ強く打った。

“あなたたちのこと”
その言葉の意味を、頭が理解するまでに、ほんの数秒かかる。

母は、間を置かずに続けた。

『病院の経営のこともあるし、あなたの体のこともね。
お互いに悪い話ではないのよ。
遠野先生も、あなたを大切にしてくれてるでしょう?
今なら、いろんな意味で安心できるって話なの』

静かで、やさしい声。
けれど、その奥に滲んでいるのは、焦りと祈りだった。

――“少しでも長く生きてほしい”。
両親の願いは、ただそれだけなのだ。

「……そう、なんだ」

返した声は、自分でも驚くほど小さかった。

嬉しくないわけじゃない。
奏一と過ごす時間は、何より大切だ。
でも――胸の奥で、何かが静かに引っかかる。

(私は、何もできていない)

朝起きれば、食事は用意されていて。
洗濯も掃除も、薬の管理も、すべて彼が整えてくれる。
この家での穏やかな生活は、彼の支えの上に成り立っていた。

『先生はきっと、あなたを幸せにしてくれるわ』

“幸せ”
その言葉が、胸の奥で、きしりと音を立てた。

母は優しい。
けれどその優しさは、時に現実の冷たさを覆い隠す。

結婚が決まれば、病院は安定する。
娘の命も、守られる。
それが親にとっての愛であり、“取引”。

(……そうちゃんは、もう十分すぎるほど私を幸せにしてくれている。
でも、それを返せてないのは、私の方だ)

このまま、何もできないままで結婚してもいいのだろうか。
支えられるだけの自分で、彼の隣に立っていいのだろうか。

通話を終えたあと、静まり返った部屋で琴葉はスマートフォンを伏せたまま、差し込む光をじっと見つめていた。

***

机の上にノートを開いたまま、しばらく何もできなかった。

「……結婚、か」

呟いた声は、ほとんど音にならない。
言葉が現実味を帯びるほど、胸の奥が静かに沈んでいく。

彼の家で暮らすようになってから、もうすぐ1年。
生活は穏やかで、優しくて、確かに幸せだった。
けれど、その幸せに“甘えている”気がしてならない。

夕食の支度を手伝おうとして、体調を崩した日。
寝込んだ自分の手を握りながら、奏一が小さく笑って言った。

――「無理はしないでください。あなたがここにいてくれるだけで十分です」

その優しさが、嬉しいほどに、怖くなる。

(いつか、そうちゃんの負担になってしまうんじゃないか)
(嫌われたら、どうしよう)

そんな考えが浮かぶたびに、息が苦しくなる。

最近は、綾花や真奈と話していても、どこか心が遠かった。

彼女たちは彼氏と喧嘩したり仲直りしたり――
ぶつかりながらも、対等に支え合っているように見える。

(でも、私は……)

言葉にすれば、きっと涙がこぼれる。
だから、口には出せなかった。

自分は、恋人なのか。
それとも、ただ守られる存在なのか。
――患者、なのか。

答えは出ないまま、心だけが、静かに揺れていた。
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