77 / 102
第77話・寄り添うという選択
しおりを挟む
玄関の扉を開けた瞬間、静かな家の空気が、胸の奥にゆっくりと染み込んでくる。
今日も、無事に帰ってこられた――それだけでほっとする。
「おかえり、そうちゃん」
リビングから顔を出した琴葉が、小さく笑った。
机の上には閉じたノートと参考書。
彼女の前髪が少し乱れていて、勉強していたのがすぐに分かる。
「ただいま戻りました。琴葉さん、課題は終わりましたか」
「うん。今日の分は、全部できたよ」
「それは良かった。……夕食にしましょうか」
「うん。手伝っていい?」
「はい。無理のない範囲でお願いします」
並んで立つキッチン。
包丁がまな板に当たる音と、鍋の湯が沸く音が、一定のリズムを刻む。
「ねえ、そうちゃん。これくらいの塩でいい?」
「はい、それで大丈夫です。……味見してみますか」
「うん。……おいしい。やっぱり、そうちゃんの味だね」
「そうですか。琴葉さんが食べやすいようにしているだけですよ」
「でも、落ち着く。この味付け、安心するの」
その一言に、胸の奥がわずかに熱を帯びた。
何も返さず、鍋をかき混ぜる手に、少しだけ力を込める。
――帰ってくる場所がある。
その事実が、どんな言葉よりも彼を支えてくれていた。
やがてテーブルに湯気の立つスープとおかずが並ぶ。
2人は向かい合い、静かに箸を取った。
「もうすぐ誕生日ですね」
「そういえば、そうだね。……全然実感ないけど」
「特別な日ですから。何かしたいこと、ありますか」
「うーん……そうちゃんと一緒なら、それでいいよ」
短い沈黙。
その言葉がまっすぐ心に落ちて、余計な言葉は浮かばなかった。
「……では、その日は、私に任せてください。
ゆっくり過ごしましょう」
「うん。楽しみにしてる」
その微笑みひとつで、今日という一日が報われた気がした。
それきり、会話は途切れる。
食器の触れ合う音と、湯気の向こうの静かな空気だけがそこにあった。
言葉がなくても、穏やかに満たされていく時間。
食後、片付けを終えると、2人でソファに腰を下ろす。
テレビはつけず、窓の外では風の音だけがしていた。
「……今日、何か嫌なことあった?」
琴葉がそっと尋ねてくる。
奏一は一瞬だけ手を止め、それからゆっくり首を振った。
「いいえ。少し話があっただけです。もう、済んだことですよ」
「そっか」
小さく息を吐く気配が、隣から伝わる。
それだけで、胸の奥がわずかに疼いた。
彼女には、心配をかけたくない。
「琴葉さん」
「うん?」
「疲れたときは、ちゃんと休んでくださいね。
私にできることは、全部しますから」
「……うん。ありがとう、そうちゃん」
言葉のあと、琴葉がそっと奏一の手を取った。
細くて温かな指が、迷うように絡んでくる。
それを包み込むように、奏一も指先を重ねた。
「……こうしてると、やっぱり安心する」
「ええ。私もです」
彼女が少しだけ身体を寄せ、肩に頭を預けた。
心臓の鼓動が静かに重なって、呼吸のリズムが揃っていく。
ほんの数センチの距離が、どんな言葉よりも近かった。
「ねえ、そうちゃん」
「はい」
「もう少し、このままでいい?」
「もちろん。好きなだけどうぞ」
その答えに、琴葉は小さく笑い、繋いだ手をぎゅっと握り直す。
その重みが、確かに“生きている”証のように感じられた。
「……あったかいね」
「はい。琴葉さんの手も」
頬を寄せ合うようにして、しばらくのあいだ沈黙が続く。
風の音と、時計の針の音だけが部屋を満たしていた。
やがて、会話は自然に途切れた。
けれど、手は離れない。
琴葉は何も言わず、ただ奏一の隣に身を寄せたまま、繋いだ手にそっと力を込める。
問いかけるでもなく、確かめるでもない。
ただ――ここにいる、と伝えるように。
奏一はその小さな力を受け止めながら、胸の奥に残っていたざらつきが、ゆっくりとほどけていくのを感じていた。
言葉にすれば壊れてしまいそうな感情。
父との会話で突きつけられた現実。
それらが、琴葉のぬくもりに触れるたび、少しずつ輪郭を失っていく。
「……」
何も言わないまま、奏一は小さく息を整えた。
その仕草に気づいた琴葉が、ほんの少しだけ距離を詰める。
言葉の代わりに、ただ、静かに寄り添う選択。
奏一は視線を落とし、繋いだ手を包み直した。
そこにある温もりは、守るべきものでも、救われるものでもなく、ただ、確かに“今”を生きている証。
――この時間が、形を変えても、失われませんように。
胸の奥でそう思いながら、彼はしばらく、そのぬくもりを手放さなかった。
今日も、無事に帰ってこられた――それだけでほっとする。
「おかえり、そうちゃん」
リビングから顔を出した琴葉が、小さく笑った。
机の上には閉じたノートと参考書。
彼女の前髪が少し乱れていて、勉強していたのがすぐに分かる。
「ただいま戻りました。琴葉さん、課題は終わりましたか」
「うん。今日の分は、全部できたよ」
「それは良かった。……夕食にしましょうか」
「うん。手伝っていい?」
「はい。無理のない範囲でお願いします」
並んで立つキッチン。
包丁がまな板に当たる音と、鍋の湯が沸く音が、一定のリズムを刻む。
「ねえ、そうちゃん。これくらいの塩でいい?」
「はい、それで大丈夫です。……味見してみますか」
「うん。……おいしい。やっぱり、そうちゃんの味だね」
「そうですか。琴葉さんが食べやすいようにしているだけですよ」
「でも、落ち着く。この味付け、安心するの」
その一言に、胸の奥がわずかに熱を帯びた。
何も返さず、鍋をかき混ぜる手に、少しだけ力を込める。
――帰ってくる場所がある。
その事実が、どんな言葉よりも彼を支えてくれていた。
やがてテーブルに湯気の立つスープとおかずが並ぶ。
2人は向かい合い、静かに箸を取った。
「もうすぐ誕生日ですね」
「そういえば、そうだね。……全然実感ないけど」
「特別な日ですから。何かしたいこと、ありますか」
「うーん……そうちゃんと一緒なら、それでいいよ」
短い沈黙。
その言葉がまっすぐ心に落ちて、余計な言葉は浮かばなかった。
「……では、その日は、私に任せてください。
ゆっくり過ごしましょう」
「うん。楽しみにしてる」
その微笑みひとつで、今日という一日が報われた気がした。
それきり、会話は途切れる。
食器の触れ合う音と、湯気の向こうの静かな空気だけがそこにあった。
言葉がなくても、穏やかに満たされていく時間。
食後、片付けを終えると、2人でソファに腰を下ろす。
テレビはつけず、窓の外では風の音だけがしていた。
「……今日、何か嫌なことあった?」
琴葉がそっと尋ねてくる。
奏一は一瞬だけ手を止め、それからゆっくり首を振った。
「いいえ。少し話があっただけです。もう、済んだことですよ」
「そっか」
小さく息を吐く気配が、隣から伝わる。
それだけで、胸の奥がわずかに疼いた。
彼女には、心配をかけたくない。
「琴葉さん」
「うん?」
「疲れたときは、ちゃんと休んでくださいね。
私にできることは、全部しますから」
「……うん。ありがとう、そうちゃん」
言葉のあと、琴葉がそっと奏一の手を取った。
細くて温かな指が、迷うように絡んでくる。
それを包み込むように、奏一も指先を重ねた。
「……こうしてると、やっぱり安心する」
「ええ。私もです」
彼女が少しだけ身体を寄せ、肩に頭を預けた。
心臓の鼓動が静かに重なって、呼吸のリズムが揃っていく。
ほんの数センチの距離が、どんな言葉よりも近かった。
「ねえ、そうちゃん」
「はい」
「もう少し、このままでいい?」
「もちろん。好きなだけどうぞ」
その答えに、琴葉は小さく笑い、繋いだ手をぎゅっと握り直す。
その重みが、確かに“生きている”証のように感じられた。
「……あったかいね」
「はい。琴葉さんの手も」
頬を寄せ合うようにして、しばらくのあいだ沈黙が続く。
風の音と、時計の針の音だけが部屋を満たしていた。
やがて、会話は自然に途切れた。
けれど、手は離れない。
琴葉は何も言わず、ただ奏一の隣に身を寄せたまま、繋いだ手にそっと力を込める。
問いかけるでもなく、確かめるでもない。
ただ――ここにいる、と伝えるように。
奏一はその小さな力を受け止めながら、胸の奥に残っていたざらつきが、ゆっくりとほどけていくのを感じていた。
言葉にすれば壊れてしまいそうな感情。
父との会話で突きつけられた現実。
それらが、琴葉のぬくもりに触れるたび、少しずつ輪郭を失っていく。
「……」
何も言わないまま、奏一は小さく息を整えた。
その仕草に気づいた琴葉が、ほんの少しだけ距離を詰める。
言葉の代わりに、ただ、静かに寄り添う選択。
奏一は視線を落とし、繋いだ手を包み直した。
そこにある温もりは、守るべきものでも、救われるものでもなく、ただ、確かに“今”を生きている証。
――この時間が、形を変えても、失われませんように。
胸の奥でそう思いながら、彼はしばらく、そのぬくもりを手放さなかった。
26
あなたにおすすめの小説
身を引いたのに、皇帝からの溺愛が止まりません ~秘された珠の還る場所~
ささゆき細雪
恋愛
五年前、内乱の混乱のなかで姿を消した最愛の妃・白瑤華(はくようか)。
彼女を失った皇帝・景玄耀(けいげんよう)は、その後ただ一人を想い続けながら執務に追われていた。そんなある日、書類に彼女の名前を発見し、居ても立っても居られなくなる。
――死んだはずの彼女が、生きている?
同姓同名かもしれないが確かめずにいられなくなった彼は地方巡察を決行。そこで、彼によく似た幼子とともに彼女と再会、地方官吏として働く瑤華と、珠児(しゅじ)を見て、皇帝は決意する――もう二度と、逃がさないと。
「今さら、逃げ道があると思うなよ」
瑤華を玄耀は責めずに、待ちの姿勢で包み込み、囲い込んでいく。
秘された皇子と、選び直した愛。
三人で食卓を囲む幸福が、国をも動かすことになるなんて――?
* * *
後宮から逃げ出して身を引いたのに、皇帝の溺愛は止まらない――これはそんな、中華風異世界ロマンス。
虚弱姫はコワモテ将軍の筋肉に触りたい
隙間ちほ
恋愛
◼︎無骨な英雄×病弱な筋肉フェチ姫
◼︎辺境伯の末娘エルナは、領軍の英雄マテウスとの結婚が決まった。政略結婚――のはずが、実は姫は将軍の熱烈なファン。姫がノリノリで嫁ぐ一方、当のマテウスは「か弱い姫君に嫌われている」と思い込み、距離を取ってしまう……。
◼︎筋肉と鼻血とすれ違いラブコメ。
◼︎超高速展開、サクッと読めます。
ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています
紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、
ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。
「もう君は、僕の管理下だよ」
退院と同時に退職手続きは完了。
住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。
外出制限、健康管理、過保護な独占欲。
甘くて危険な“保護生活”の中で、
私は少しずつ彼に心を奪われていく――。
元社畜OL×執着気味の溺愛社長
囲い込み同棲ラブストーリー。
君は恋人、でもまだ家族じゃない
山田森湖
恋愛
あらすじ
同棲して3年。
毎朝コーヒーを淹れて、彼の寝ぼけた声に微笑んで、
一緒に暮らす当たり前の幸せを噛みしめる——そのはずだった。
彼女は彼を愛している。
彼も自分を愛してくれていると信じている。
それでも、胸の奥には消えない不安がある。
「私たちは、このまま“恋人”で止まってしまうの?」
結婚の話になると、彼はいつも曖昧に笑ってごまかす。
最初は理由をつけていたのに、今では何も言わなくなった。
周囲の友人は次々と結婚し、家族を持ち始めている。
幸せそうな写真を見るたび、彼女の心には
“言えない言葉”だけが増えていく。
愛している。
でも、それだけでは前に進めない。
同棲という甘い日常の裏で、
少しずつ、確かにズレ始めているふたりの未来。
このまま時間に流されるだけの恋なのか、
それとも、家族へと歩き出せる恋なのか——。
彼の寝息を聞きながら、
彼女は初めて「涙が出そうな夜」を迎えていた。
多分悪役令嬢ですが、うっかりヒーローを餌付けして執着されています
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【美味しそう……? こ、これは誰にもあげませんから!】
23歳、ブラック企業で働いている社畜OLの私。この日も帰宅は深夜過ぎ。泥のように眠りに着き、目覚めれば綺羅びやかな部屋にいた。しかも私は意地悪な貴族令嬢のようで使用人たちはビクビクしている。ひょっとして私って……悪役令嬢? テンプレ通りなら、将来破滅してしまうかも!
そこで、細くても長く生きるために、目立たず空気のように生きようと決めた。それなのに、ひょんな出来事からヒーロー? に執着される羽目に……。
お願いですから、私に構わないで下さい!
※ 他サイトでも投稿中
最弱白竜ですが、なぜか学園最強の銀竜に番認定されました
めめめ
恋愛
竜の血を引く者だけが貴族になれるこの世界で、白竜は最も格の低い竜の証。
白竜の男爵令嬢リーゼロッテは、特待生として国内最高峰の王立竜騎学園に入学する。待っていたのは上位貴族からの蔑みと、学園を支配する四人の御曹司「四竜」。
その筆頭、銀竜公爵家の嫡男ルシアンに初日から啖呵を切ったリーゼは、いじめと嫉妬の嵐に巻き込まれていく。
それでも彼女は媚びない、逃げない、折れない。
やがてルシアンはリーゼから目が離せなくなり――
白竜の少女が、学園と王国の運命を変える。
身分差×竜×学園ラブファンタジー、開幕。
さようなら、私を「枯れた花」と呼んだ貴方。~辺境で英雄を救って聖女と呼ばれたので、没落した元婚約者の謝罪は受け付けません~
有賀冬馬
恋愛
「お前のような見栄えの悪い女は、俺の隣にふさわしくない」
婚約者アレクに捨てられ、辺境へ追いやられたセレナ。
けれど、彼女が森で拾ったのは、アレクなど足元にも及ばないほど強くて優しい、呪われた英雄ライアンだった。
セレナの薬草が奇跡を起こし、王都を救う特効薬となったとき、かつて自分を捨てた男との再会が訪れる。
「やり直そう」と縋り付くアレクに、セレナは最愛の人と寄り添いながら静かに微笑む。
――あなたが捨てたのは、ただの影ではなく、あなたの未来そのものだったのですよ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる