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第76話・譲れない一線
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4月下旬ー。
午後の外来がひと段落したころ、奏一は看護師長に呼び止められた。
「院長先生が、少しお話があるそうです」
静まり返った廊下を歩き、重厚な扉をノックする。
「奏一です」
返ってきた声は、無駄のない低音だった。
「入りなさい」
院長室に足を踏み入れた瞬間、ほのかに漂うコーヒーの香りと古い書類の匂いが混ざり合う。
窓際のカーテンは半分だけ開かれ、午後の光がデスクの端を照らしていた。
「忙しいところ悪いな」
白髪の混じった男――奏一の父が、眼鏡越しに書類から目を上げた。
「座りなさい」
促されるまま椅子に腰を下ろすも、胸の奥にうっすらとした緊張が走る。
父がわざわざ呼び出すときは、決まって“病院の外の話”だ。
「白崎家の件だ」
予想していた言葉に、奏一はわずかに息を整えた。
「娘も、もう20歳になるだろう。
そろそろ正式に、話をまとめたほうがいい。
向こうも、支援を続ける以上、形を整えたいと言っている」
「……つまり、入籍を急げと?」
「そうだ」
感情の起伏はない。
ただ、事実を述べるだけの口調だった。
「お前ももう若くはない。40を目前にして、まだ腰を据えられんのか」
わずかに喉が動く。
だが奏一は表情を崩さず、静かに問い返した。
「琴葉さんの体調のこともあります。もう少し、落ち着いてからでも――」
「落ち着く? そんな日が来るのか?」
父の声が、淡々と胸を突いた。
「彼女は病弱で、将来も定かではない。
だからこそ“今”形を整えておくべきなんだ」
奏一の指先が、机の縁をかすかに叩いた。
「……まるで、彼女が駒のような言い方ですね」
「駒だろう」
父は目を細め、ためらいなく言い切った。
「病院を守るための一手だ。白崎家の支援があってこそ、この病院は回っている。
金も、人も、評判も——彼らの名があってこそだ」
その瞬間、奏一の声がわずかに低くなる。
「……父さん」
「なんだ」
「俺は、彼女を“取引”に使うつもりはない」
静かな怒り。
今まで丁寧に保っていた「私」が、いつの間にか「俺」に変わっていた。
「恋だの愛だのと言っている場合じゃない」
父の声は鋼のように硬い。
「俺がどうなろうと構わない。
だが、彼女をこの病院の思惑に巻き込むつもりはない」
父の視線が鋭くなる。
「感情で動くな。これは責務だ。
お前が誰をどう想っていようと、お前の立場は変わらない」
「立場で人の心を縛るような生き方を、俺は選ばない」
声は穏やかだった。
けれど、その穏やかさの奥には明確な拒絶がある。
「――白崎家との結びつきが病院を救う」
「だとしてもだ」
奏一は短く頷いた。
「俺は彼女を“病院との取引”のために、妻にはしない」
父の指が机を叩く音が響いた。
静かな室内に、それだけがやけに重く響く。
「……お前は昔から頑固だな」
「似たんですよ、父さんに」
短く言い返して立ち上がる。
「話は以上ですね」
「――まだ終わっていない」
「私の中では、終わりました」
「奏一!」
呼び止める声を背に、扉へ向かう。
「……これ以上は、業務に支障が出ますので」
そう言い残し、扉に手をかける。
父が何かを言いかけた気配がしたが、もう振り返らなかった。
廊下に出た瞬間、深く息を吐く。
胸の奥が、まだざらついていた。
どれだけ立場で縛られても、彼女だけは守る。
それだけは、絶対に譲らない。
遠くでナースコールが鳴り、すれ違う看護師たちの声が交錯する。
いつもの日常。
けれど、さっきまでの会話の残響が、耳の奥に残っている。
――入籍を急げ。
――病院を守るために。
父の言葉は正しい。
理屈も、その責任の重さも、誰より理解している。
この病院を動かしていくには、白崎家の支援がなければ成り立たない。
それを、頭ではわかっている。
――それでも。
彼女はまだ学生だ。
笑い方も、拗ね方も、まだどこか幼い。
けれど、あの笑顔を見るたびに思う。
どうして、こんなにも生きることをまっすぐに受け止められるのか。
あの笑顔が、自分を支えてきた。
仕事の疲れも、父との衝突も、一瞬でどうでもよくなるほどに。
だからこそ、壊したくない。
大人の都合で、人生を縛りたくない。
未来がどれだけ短くても、彼女が「生きている」と感じられる時間を、そのままにしておきたい。
せっかく、笑ってくれるようになったのに。
せっかく、自分のそばにいてくれるようになったのに。
自分の歩幅をゆっくりと緩め、窓際に立ち止まる。
午後の陽が廊下の床に淡く射し、車椅子の患者が、ゆっくりと光の中を通り過ぎていった。
――守りたい。
それだけは、誰に何を言われても変わらない。
静かな決意が胸の奥で形を取る。
今はまだ、誰にも言わない。
けれど、必ず自分の手で彼女を幸せにしてみせる。
どんな理屈より、それが自分の生きる理由だ。
白衣の裾を整え、再び歩き出す。
明るい声と足音の混じる廊下に、さっきまでの重苦しい空気は、もうなかった。
午後の外来がひと段落したころ、奏一は看護師長に呼び止められた。
「院長先生が、少しお話があるそうです」
静まり返った廊下を歩き、重厚な扉をノックする。
「奏一です」
返ってきた声は、無駄のない低音だった。
「入りなさい」
院長室に足を踏み入れた瞬間、ほのかに漂うコーヒーの香りと古い書類の匂いが混ざり合う。
窓際のカーテンは半分だけ開かれ、午後の光がデスクの端を照らしていた。
「忙しいところ悪いな」
白髪の混じった男――奏一の父が、眼鏡越しに書類から目を上げた。
「座りなさい」
促されるまま椅子に腰を下ろすも、胸の奥にうっすらとした緊張が走る。
父がわざわざ呼び出すときは、決まって“病院の外の話”だ。
「白崎家の件だ」
予想していた言葉に、奏一はわずかに息を整えた。
「娘も、もう20歳になるだろう。
そろそろ正式に、話をまとめたほうがいい。
向こうも、支援を続ける以上、形を整えたいと言っている」
「……つまり、入籍を急げと?」
「そうだ」
感情の起伏はない。
ただ、事実を述べるだけの口調だった。
「お前ももう若くはない。40を目前にして、まだ腰を据えられんのか」
わずかに喉が動く。
だが奏一は表情を崩さず、静かに問い返した。
「琴葉さんの体調のこともあります。もう少し、落ち着いてからでも――」
「落ち着く? そんな日が来るのか?」
父の声が、淡々と胸を突いた。
「彼女は病弱で、将来も定かではない。
だからこそ“今”形を整えておくべきなんだ」
奏一の指先が、机の縁をかすかに叩いた。
「……まるで、彼女が駒のような言い方ですね」
「駒だろう」
父は目を細め、ためらいなく言い切った。
「病院を守るための一手だ。白崎家の支援があってこそ、この病院は回っている。
金も、人も、評判も——彼らの名があってこそだ」
その瞬間、奏一の声がわずかに低くなる。
「……父さん」
「なんだ」
「俺は、彼女を“取引”に使うつもりはない」
静かな怒り。
今まで丁寧に保っていた「私」が、いつの間にか「俺」に変わっていた。
「恋だの愛だのと言っている場合じゃない」
父の声は鋼のように硬い。
「俺がどうなろうと構わない。
だが、彼女をこの病院の思惑に巻き込むつもりはない」
父の視線が鋭くなる。
「感情で動くな。これは責務だ。
お前が誰をどう想っていようと、お前の立場は変わらない」
「立場で人の心を縛るような生き方を、俺は選ばない」
声は穏やかだった。
けれど、その穏やかさの奥には明確な拒絶がある。
「――白崎家との結びつきが病院を救う」
「だとしてもだ」
奏一は短く頷いた。
「俺は彼女を“病院との取引”のために、妻にはしない」
父の指が机を叩く音が響いた。
静かな室内に、それだけがやけに重く響く。
「……お前は昔から頑固だな」
「似たんですよ、父さんに」
短く言い返して立ち上がる。
「話は以上ですね」
「――まだ終わっていない」
「私の中では、終わりました」
「奏一!」
呼び止める声を背に、扉へ向かう。
「……これ以上は、業務に支障が出ますので」
そう言い残し、扉に手をかける。
父が何かを言いかけた気配がしたが、もう振り返らなかった。
廊下に出た瞬間、深く息を吐く。
胸の奥が、まだざらついていた。
どれだけ立場で縛られても、彼女だけは守る。
それだけは、絶対に譲らない。
遠くでナースコールが鳴り、すれ違う看護師たちの声が交錯する。
いつもの日常。
けれど、さっきまでの会話の残響が、耳の奥に残っている。
――入籍を急げ。
――病院を守るために。
父の言葉は正しい。
理屈も、その責任の重さも、誰より理解している。
この病院を動かしていくには、白崎家の支援がなければ成り立たない。
それを、頭ではわかっている。
――それでも。
彼女はまだ学生だ。
笑い方も、拗ね方も、まだどこか幼い。
けれど、あの笑顔を見るたびに思う。
どうして、こんなにも生きることをまっすぐに受け止められるのか。
あの笑顔が、自分を支えてきた。
仕事の疲れも、父との衝突も、一瞬でどうでもよくなるほどに。
だからこそ、壊したくない。
大人の都合で、人生を縛りたくない。
未来がどれだけ短くても、彼女が「生きている」と感じられる時間を、そのままにしておきたい。
せっかく、笑ってくれるようになったのに。
せっかく、自分のそばにいてくれるようになったのに。
自分の歩幅をゆっくりと緩め、窓際に立ち止まる。
午後の陽が廊下の床に淡く射し、車椅子の患者が、ゆっくりと光の中を通り過ぎていった。
――守りたい。
それだけは、誰に何を言われても変わらない。
静かな決意が胸の奥で形を取る。
今はまだ、誰にも言わない。
けれど、必ず自分の手で彼女を幸せにしてみせる。
どんな理屈より、それが自分の生きる理由だ。
白衣の裾を整え、再び歩き出す。
明るい声と足音の混じる廊下に、さっきまでの重苦しい空気は、もうなかった。
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