病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

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第84話・夜を越える鼓動

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病院の駐車場に車を停めた頃には、すでに夜の風が冷たくなっていた。
エントランスの自動ドアが静かに開き、白い光が2人を迎え入れる。

事前に連絡を受けていた看護師がすぐ駆け寄り、ストレッチャーを用意した。
その間に奏一はドアを開け、助手席の琴葉に声をかける。

「琴葉さん、着きましたよ……もう大丈夫です」

呼吸は浅く、返事はない。
彼は躊躇なくその身体を抱き上げた。

体重を感じないほど軽い。
その事実が、胸の奥を強く締めつける。

「検査室の準備はできていますか?」

「はい、整ってます。採血とエコーから入ります」

「ありがとうございます。ICUは?」

「一床、空いています」

短いやり取りの間にも、奏一の声は医師としての冷静さを取り戻していた。
けれど、その瞳の奥には、まだ消えきらない焦りの色が残っている。

ストレッチャーの上に琴葉を横たえ、自らブランケットをかける。
脈、血圧を素早く確認し、モニターを装着。

「心拍数120、血圧80の50……少し低いですね」

奏一はすぐに酸素マスクを手に取り、指示を出す。

「酸素2リットル。それと、維持液で点滴を開始してください。できるだけ早くお願いします」

頬に触れた指先に、はっきりとした熱が伝わってきた。
やはり高熱が戻っている。

(……脱水による循環低下か。それとも、心筋への負荷か)

「……すぐに検査を始めます。
可能性としては、ウイルス感染による炎症、もしくは循環負荷です。
心筋炎を完全に否定できるまでは、入院が必要になります」

看護師たちが琴葉を運んでいく。
その後ろ姿を見送った瞬間、奏一の喉の奥から、かすかな吐息が漏れた。

(……まだ、この手で救えるだろうか)

蛍光灯の白い光が廊下に滲む。
冷たい空気の中で、彼の手だけが、まだ微かに温もりを残していた。

――どうか、何も起きていませんように。

***

検査室では、看護師たちが手際よく処置を進めていた。

モニターが点灯し、規則的な波形が浮かび上がる。
心拍はやや速いものの、致命的な不整脈は見られない。

その結果を確認し、当直医が静かに報告する。

「血圧、少し戻ってきています。92の60です。
SpO₂96まで上がりました」

奏一はわずかに息を吐き、エコーのプローブを受け取った。
胸元を開き、ゲルを塗布してディスプレイを凝視する。

心室の動きはやや鈍いが、壁運動は保たれている。
弁の逆流も軽度。致命的な異常は見られない。

「……現時点では心筋炎は否定的ですね。
採血結果が出るまでは、経過観察としましょう」

「了解しました」

当直医が頷き、カルテに指示を書き込む。

「維持液のラインに、解熱剤と抗生剤を追加してください」

「わかりました」

すぐに看護師が薬剤を準備し、透明な液の中へ静かに混注する。
点滴チューブの中を通って、ゆっくりと薬液が流れていった。

その間、奏一は琴葉の髪をそっと耳にかけ直す。
医師の手つきでありながら、恋人としての指先が、無意識に動いていた。

「……そう、ちゃん……」

かすれた吐息が、彼の名を呼ぶ。

その瞬間、胸の奥で理性が軋む音がした。
答えたい衝動を押し殺し、息を詰める。
白衣の袖の下で、拳がわずかに震えた。

本当なら、すぐにでも手を握り返したい。
“ここにいます”と伝えたかった。

けれど今は。
医者としての責務が先だ。

奏一は深く息を吸い込み、琴葉の額にそっと手を当てた。

「……大丈夫ですよ。もう少しで楽になりますから」

声は穏やかだった。
だが、わずかに掠れたその響きが、抑え込んだ感情を滲ませていた。

当直医がカルテに記録を残し、報告する。

「状態は安定しています。ICUまでは必要なさそうです」

「ありがとうございます。では個室でモニター管理を。
ナースステーション隣の部屋をお願いします」

「わかりました」

ストレッチャーが再び動き出す。
廊下を進む途中、奏一は一瞬だけ視線を落とした。

ブランケットの下で、琴葉の指先がかすかに動く。
その小さな仕草に、思わず胸の奥が熱を帯びる。

――大丈夫だ、ちゃんと生きている、と。


個室の扉が静かに閉まり、モニターの緑の波形が穏やかに脈を刻み始めた。
酸素チューブが小さく揺れ、点滴の滴る音が夜の静寂に溶けていく。

奏一はゆっくりと立ち上がり、毛布を掛け直してから小さく息を吐いた。

「……よく頑張りましたね。ゆっくり休んでください」

返事はない。
けれど、彼女の呼吸が確かにそこにある。

それだけで、今夜は十分だった。
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