病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

文字の大きさ
85 / 102

第85話・言葉より先に、手があった

しおりを挟む
モニターの電子音が、一定のリズムで夜を刻んでいた。
静かな病室。
時計の針は、午前2時を少し過ぎたところで止まってしまったかのように見えた。

酸素マスク越しの呼吸が、かすかに曇る。
喉の奥は乾き、腕には針の違和感が残っていた。

――病院だ。

ゆっくりと目を開けた琴葉は、ぼんやりと天井を見上げる。

頭はまだ霞がかかっているようで、意識が完全には戻らない。

けれど。

手の甲に触れている“ぬくもり”だけは、はっきりと分かった。

誰かが、自分の手を握っている。
温かな掌。
指先が微かに動くたびに、「生きている」という感覚が静かに伝わってくる。

そっと視線を横に向けると、ベッドの傍らの椅子に、奏一がいた。
白衣の上にジャケットを羽織り、背を少し丸めて眠っている。

枕元のライトに照らされた横顔は、いつもの冷静さをどこかに置き忘れたようで、ただ穏やかに、琴葉の手を包み込んでいた。

胸の奥が、じんと熱を帯びていく。
息を吸い込んだ瞬間、酸素マスクが小さく鳴った。

そのわずかな音に反応するように、奏一のまつ毛が震える。

「……琴葉さん?」

低く、少し掠れた声。
目を開けた彼が、ゆっくりと姿勢を正した。

「……起こして、しまいましたか」

酸素マスクを外そうとした琴葉の手を、彼は静かに押さえた。

「外さないでください。まだ体力が戻っていません」

「……ここ、病院……だよね」

「はい。入院されています。今は落ち着いていますよ」

彼の声が、やさしく波のように響く。
医師としての冷静さを纏いながらも、言葉の端々には抑えきれない安堵が滲んでいた。

「……どうして…? 私、行かないって言ったのに……」

責める響きではなく、ただ戸惑いを含んだ小さな問い。
奏一は一瞬だけ目を伏せ、彼女の手を包み直す。

「……命に関わる状態でした。
拒まれても、行かないという選択は、私にはありません」

短く言葉を切り、もう一度、穏やかに微笑む。

「でも、もう大丈夫です。
熱も下がってきています。……よく頑張りましたね」

その言葉が、胸の奥まで静かに沁みていく。
泣きたいはずなのに、涙は出なかった。
代わりに、酸素マスクの内側が熱で曇る。

「……ごめんね、そうちゃん」

「謝らなくていいですよ」

彼の親指が、握った手の甲をそっと撫でる。
その仕草が、どんな言葉よりも強く心を揺らした。

「……もう少し眠ってください。朝になったら、改めて話しましょう」

「……うん……」

まぶたが再び重くなる。
眠りに落ちる直前、小さな声が零れた。

「……ありがとう」

返事はなかった。
ただ、彼の指先がわずかに力をこめた。

それだけで、琴葉は深い眠りへと沈んでいった。

***

翌朝。
カーテンの隙間から、淡い朝の光が差し込んでいる。
点滴の滴が、一定のリズムで静かに響いていた。

トレイの上には、お粥がほとんどそのまま残っている。
スプーンで2口ほどすくった跡だけが、わずかに光っていた。

「……食べられませんでしたか」

低く、穏やかな声。
ただ琴葉の体を案じる気配だけがそこにあった。

「……うん」

掠れた声で答えると、奏一は静かに椅子へ腰を下ろす。

「……お母さまから伺いました。
ここ数日、あまり食事に手がついていなかったと」

その言葉に、琴葉の肩がわずかに揺れた。

「体調を崩したのは、その影響もあるかもしれません。
エネルギーが不足すると、熱や倦怠感は強く出ます」

淡々とした説明。
けれど、そこには隠しきれない憂いが滲んでいる。

「……どうして、食べられなかったんですか」

壊れものに触れるような、やさしい問いかけ。
琴葉は唇を噛み、俯いたまま答えなかった。

沈黙が、ゆっくりと流れる。
点滴の滴る音だけが、静かに部屋を満たしていた。

奏一はそっと手を伸ばし、冷えた指先を包み込む。

「……琴葉さん。どうか、教えてもらえませんか」

押しつけるような響きはひとつもない。
ただ、そこにあるのは心の底からの願いだけ。

琴葉は小さく唇を震わせ、それでも口をきゅっと結んだまま、しばらく黙っていた。

けれど、握られた手の温もりが、ゆっくりと胸の奥の氷を溶かしていく。

「………そうちゃんの…味じゃなかったから」

息と一緒に零れ落ちたような、小さな声。
けれど、その一言には、抑え込んできた想いのすべてが滲んでいた。

奏一は目を細め、その手を離さず、静かに頷く。

「……そうでしたか」

それだけの言葉。
それでも琴葉には、それが救いにも、痛みにも感じられた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

身を引いたのに、皇帝からの溺愛が止まりません ~秘された珠の還る場所~

ささゆき細雪
恋愛
五年前、内乱の混乱のなかで姿を消した最愛の妃・白瑤華(はくようか)。 彼女を失った皇帝・景玄耀(けいげんよう)は、その後ただ一人を想い続けながら執務に追われていた。そんなある日、書類に彼女の名前を発見し、居ても立っても居られなくなる。 ――死んだはずの彼女が、生きている? 同姓同名かもしれないが確かめずにいられなくなった彼は地方巡察を決行。そこで、彼によく似た幼子とともに彼女と再会、地方官吏として働く瑤華と、珠児(しゅじ)を見て、皇帝は決意する――もう二度と、逃がさないと。 「今さら、逃げ道があると思うなよ」 瑤華を玄耀は責めずに、待ちの姿勢で包み込み、囲い込んでいく。 秘された皇子と、選び直した愛。 三人で食卓を囲む幸福が、国をも動かすことになるなんて――?    * * * 後宮から逃げ出して身を引いたのに、皇帝の溺愛は止まらない――これはそんな、中華風異世界ロマンス。

御曹司とお試し結婚 〜3ヶ月後に離婚します!!〜

鳴宮鶉子
恋愛
御曹司とお試し結婚 〜3ヶ月後に離婚します!!〜

虚弱姫はコワモテ将軍の筋肉に触りたい

隙間ちほ
恋愛
◼︎無骨な英雄×病弱な筋肉フェチ姫 ◼︎辺境伯の末娘エルナは、領軍の英雄マテウスとの結婚が決まった。政略結婚――のはずが、実は姫は将軍の熱烈なファン。姫がノリノリで嫁ぐ一方、当のマテウスは「か弱い姫君に嫌われている」と思い込み、距離を取ってしまう……。 ◼︎筋肉と鼻血とすれ違いラブコメ。 ◼︎超高速展開、サクッと読めます。

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

君は恋人、でもまだ家族じゃない

山田森湖
恋愛
あらすじ 同棲して3年。 毎朝コーヒーを淹れて、彼の寝ぼけた声に微笑んで、 一緒に暮らす当たり前の幸せを噛みしめる——そのはずだった。 彼女は彼を愛している。 彼も自分を愛してくれていると信じている。 それでも、胸の奥には消えない不安がある。 「私たちは、このまま“恋人”で止まってしまうの?」 結婚の話になると、彼はいつも曖昧に笑ってごまかす。 最初は理由をつけていたのに、今では何も言わなくなった。 周囲の友人は次々と結婚し、家族を持ち始めている。 幸せそうな写真を見るたび、彼女の心には “言えない言葉”だけが増えていく。 愛している。 でも、それだけでは前に進めない。 同棲という甘い日常の裏で、 少しずつ、確かにズレ始めているふたりの未来。 このまま時間に流されるだけの恋なのか、 それとも、家族へと歩き出せる恋なのか——。 彼の寝息を聞きながら、 彼女は初めて「涙が出そうな夜」を迎えていた。

多分悪役令嬢ですが、うっかりヒーローを餌付けして執着されています

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【美味しそう……? こ、これは誰にもあげませんから!】 23歳、ブラック企業で働いている社畜OLの私。この日も帰宅は深夜過ぎ。泥のように眠りに着き、目覚めれば綺羅びやかな部屋にいた。しかも私は意地悪な貴族令嬢のようで使用人たちはビクビクしている。ひょっとして私って……悪役令嬢? テンプレ通りなら、将来破滅してしまうかも! そこで、細くても長く生きるために、目立たず空気のように生きようと決めた。それなのに、ひょんな出来事からヒーロー? に執着される羽目に……。 お願いですから、私に構わないで下さい! ※ 他サイトでも投稿中

最弱白竜ですが、なぜか学園最強の銀竜に番認定されました

めめめ
恋愛
竜の血を引く者だけが貴族になれるこの世界で、白竜は最も格の低い竜の証。 白竜の男爵令嬢リーゼロッテは、特待生として国内最高峰の王立竜騎学園に入学する。待っていたのは上位貴族からの蔑みと、学園を支配する四人の御曹司「四竜」。 その筆頭、銀竜公爵家の嫡男ルシアンに初日から啖呵を切ったリーゼは、いじめと嫉妬の嵐に巻き込まれていく。 それでも彼女は媚びない、逃げない、折れない。 やがてルシアンはリーゼから目が離せなくなり―― 白竜の少女が、学園と王国の運命を変える。 身分差×竜×学園ラブファンタジー、開幕。

さようなら、私を「枯れた花」と呼んだ貴方。~辺境で英雄を救って聖女と呼ばれたので、没落した元婚約者の謝罪は受け付けません~

有賀冬馬
恋愛
「お前のような見栄えの悪い女は、俺の隣にふさわしくない」 婚約者アレクに捨てられ、辺境へ追いやられたセレナ。 けれど、彼女が森で拾ったのは、アレクなど足元にも及ばないほど強くて優しい、呪われた英雄ライアンだった。 セレナの薬草が奇跡を起こし、王都を救う特効薬となったとき、かつて自分を捨てた男との再会が訪れる。 「やり直そう」と縋り付くアレクに、セレナは最愛の人と寄り添いながら静かに微笑む。 ――あなたが捨てたのは、ただの影ではなく、あなたの未来そのものだったのですよ。

処理中です...