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第85話・言葉より先に、手があった
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モニターの電子音が、一定のリズムで夜を刻んでいた。
静かな病室。
時計の針は、午前2時を少し過ぎたところで止まってしまったかのように見えた。
酸素マスク越しの呼吸が、かすかに曇る。
喉の奥は乾き、腕には針の違和感が残っていた。
――病院だ。
ゆっくりと目を開けた琴葉は、ぼんやりと天井を見上げる。
頭はまだ霞がかかっているようで、意識が完全には戻らない。
けれど。
手の甲に触れている“ぬくもり”だけは、はっきりと分かった。
誰かが、自分の手を握っている。
温かな掌。
指先が微かに動くたびに、「生きている」という感覚が静かに伝わってくる。
そっと視線を横に向けると、ベッドの傍らの椅子に、奏一がいた。
白衣の上にジャケットを羽織り、背を少し丸めて眠っている。
枕元のライトに照らされた横顔は、いつもの冷静さをどこかに置き忘れたようで、ただ穏やかに、琴葉の手を包み込んでいた。
胸の奥が、じんと熱を帯びていく。
息を吸い込んだ瞬間、酸素マスクが小さく鳴った。
そのわずかな音に反応するように、奏一のまつ毛が震える。
「……琴葉さん?」
低く、少し掠れた声。
目を開けた彼が、ゆっくりと姿勢を正した。
「……起こして、しまいましたか」
酸素マスクを外そうとした琴葉の手を、彼は静かに押さえた。
「外さないでください。まだ体力が戻っていません」
「……ここ、病院……だよね」
「はい。入院されています。今は落ち着いていますよ」
彼の声が、やさしく波のように響く。
医師としての冷静さを纏いながらも、言葉の端々には抑えきれない安堵が滲んでいた。
「……どうして…? 私、行かないって言ったのに……」
責める響きではなく、ただ戸惑いを含んだ小さな問い。
奏一は一瞬だけ目を伏せ、彼女の手を包み直す。
「……命に関わる状態でした。
拒まれても、行かないという選択は、私にはありません」
短く言葉を切り、もう一度、穏やかに微笑む。
「でも、もう大丈夫です。
熱も下がってきています。……よく頑張りましたね」
その言葉が、胸の奥まで静かに沁みていく。
泣きたいはずなのに、涙は出なかった。
代わりに、酸素マスクの内側が熱で曇る。
「……ごめんね、そうちゃん」
「謝らなくていいですよ」
彼の親指が、握った手の甲をそっと撫でる。
その仕草が、どんな言葉よりも強く心を揺らした。
「……もう少し眠ってください。朝になったら、改めて話しましょう」
「……うん……」
まぶたが再び重くなる。
眠りに落ちる直前、小さな声が零れた。
「……ありがとう」
返事はなかった。
ただ、彼の指先がわずかに力をこめた。
それだけで、琴葉は深い眠りへと沈んでいった。
***
翌朝。
カーテンの隙間から、淡い朝の光が差し込んでいる。
点滴の滴が、一定のリズムで静かに響いていた。
トレイの上には、お粥がほとんどそのまま残っている。
スプーンで2口ほどすくった跡だけが、わずかに光っていた。
「……食べられませんでしたか」
低く、穏やかな声。
ただ琴葉の体を案じる気配だけがそこにあった。
「……うん」
掠れた声で答えると、奏一は静かに椅子へ腰を下ろす。
「……お母さまから伺いました。
ここ数日、あまり食事に手がついていなかったと」
その言葉に、琴葉の肩がわずかに揺れた。
「体調を崩したのは、その影響もあるかもしれません。
エネルギーが不足すると、熱や倦怠感は強く出ます」
淡々とした説明。
けれど、そこには隠しきれない憂いが滲んでいる。
「……どうして、食べられなかったんですか」
壊れものに触れるような、やさしい問いかけ。
琴葉は唇を噛み、俯いたまま答えなかった。
沈黙が、ゆっくりと流れる。
点滴の滴る音だけが、静かに部屋を満たしていた。
奏一はそっと手を伸ばし、冷えた指先を包み込む。
「……琴葉さん。どうか、教えてもらえませんか」
押しつけるような響きはひとつもない。
ただ、そこにあるのは心の底からの願いだけ。
琴葉は小さく唇を震わせ、それでも口をきゅっと結んだまま、しばらく黙っていた。
けれど、握られた手の温もりが、ゆっくりと胸の奥の氷を溶かしていく。
「………そうちゃんの…味じゃなかったから」
息と一緒に零れ落ちたような、小さな声。
けれど、その一言には、抑え込んできた想いのすべてが滲んでいた。
奏一は目を細め、その手を離さず、静かに頷く。
「……そうでしたか」
それだけの言葉。
それでも琴葉には、それが救いにも、痛みにも感じられた。
静かな病室。
時計の針は、午前2時を少し過ぎたところで止まってしまったかのように見えた。
酸素マスク越しの呼吸が、かすかに曇る。
喉の奥は乾き、腕には針の違和感が残っていた。
――病院だ。
ゆっくりと目を開けた琴葉は、ぼんやりと天井を見上げる。
頭はまだ霞がかかっているようで、意識が完全には戻らない。
けれど。
手の甲に触れている“ぬくもり”だけは、はっきりと分かった。
誰かが、自分の手を握っている。
温かな掌。
指先が微かに動くたびに、「生きている」という感覚が静かに伝わってくる。
そっと視線を横に向けると、ベッドの傍らの椅子に、奏一がいた。
白衣の上にジャケットを羽織り、背を少し丸めて眠っている。
枕元のライトに照らされた横顔は、いつもの冷静さをどこかに置き忘れたようで、ただ穏やかに、琴葉の手を包み込んでいた。
胸の奥が、じんと熱を帯びていく。
息を吸い込んだ瞬間、酸素マスクが小さく鳴った。
そのわずかな音に反応するように、奏一のまつ毛が震える。
「……琴葉さん?」
低く、少し掠れた声。
目を開けた彼が、ゆっくりと姿勢を正した。
「……起こして、しまいましたか」
酸素マスクを外そうとした琴葉の手を、彼は静かに押さえた。
「外さないでください。まだ体力が戻っていません」
「……ここ、病院……だよね」
「はい。入院されています。今は落ち着いていますよ」
彼の声が、やさしく波のように響く。
医師としての冷静さを纏いながらも、言葉の端々には抑えきれない安堵が滲んでいた。
「……どうして…? 私、行かないって言ったのに……」
責める響きではなく、ただ戸惑いを含んだ小さな問い。
奏一は一瞬だけ目を伏せ、彼女の手を包み直す。
「……命に関わる状態でした。
拒まれても、行かないという選択は、私にはありません」
短く言葉を切り、もう一度、穏やかに微笑む。
「でも、もう大丈夫です。
熱も下がってきています。……よく頑張りましたね」
その言葉が、胸の奥まで静かに沁みていく。
泣きたいはずなのに、涙は出なかった。
代わりに、酸素マスクの内側が熱で曇る。
「……ごめんね、そうちゃん」
「謝らなくていいですよ」
彼の親指が、握った手の甲をそっと撫でる。
その仕草が、どんな言葉よりも強く心を揺らした。
「……もう少し眠ってください。朝になったら、改めて話しましょう」
「……うん……」
まぶたが再び重くなる。
眠りに落ちる直前、小さな声が零れた。
「……ありがとう」
返事はなかった。
ただ、彼の指先がわずかに力をこめた。
それだけで、琴葉は深い眠りへと沈んでいった。
***
翌朝。
カーテンの隙間から、淡い朝の光が差し込んでいる。
点滴の滴が、一定のリズムで静かに響いていた。
トレイの上には、お粥がほとんどそのまま残っている。
スプーンで2口ほどすくった跡だけが、わずかに光っていた。
「……食べられませんでしたか」
低く、穏やかな声。
ただ琴葉の体を案じる気配だけがそこにあった。
「……うん」
掠れた声で答えると、奏一は静かに椅子へ腰を下ろす。
「……お母さまから伺いました。
ここ数日、あまり食事に手がついていなかったと」
その言葉に、琴葉の肩がわずかに揺れた。
「体調を崩したのは、その影響もあるかもしれません。
エネルギーが不足すると、熱や倦怠感は強く出ます」
淡々とした説明。
けれど、そこには隠しきれない憂いが滲んでいる。
「……どうして、食べられなかったんですか」
壊れものに触れるような、やさしい問いかけ。
琴葉は唇を噛み、俯いたまま答えなかった。
沈黙が、ゆっくりと流れる。
点滴の滴る音だけが、静かに部屋を満たしていた。
奏一はそっと手を伸ばし、冷えた指先を包み込む。
「……琴葉さん。どうか、教えてもらえませんか」
押しつけるような響きはひとつもない。
ただ、そこにあるのは心の底からの願いだけ。
琴葉は小さく唇を震わせ、それでも口をきゅっと結んだまま、しばらく黙っていた。
けれど、握られた手の温もりが、ゆっくりと胸の奥の氷を溶かしていく。
「………そうちゃんの…味じゃなかったから」
息と一緒に零れ落ちたような、小さな声。
けれど、その一言には、抑え込んできた想いのすべてが滲んでいた。
奏一は目を細め、その手を離さず、静かに頷く。
「……そうでしたか」
それだけの言葉。
それでも琴葉には、それが救いにも、痛みにも感じられた。
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