病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

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第87話・理性の向こう側

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しばらくの間、病室には琴葉の嗚咽だけが、かすかな水音のように響いていた。

奏一は黙ったまま立ち上がり、サイドテーブルに置かれた箱からティッシュを取る。
そのまま、そっと琴葉の頬に触れた。

「……泣かないでください」

囁くような声は、いつもより少し掠れている。
慰めではなく、祈りのような響きだった。

けれど、琴葉の涙は止まらない。
細い肩が震え、息を吸うたびに体がわずかに揺れる。

次の瞬間、奏一は迷いなく腕を伸ばした。
軽い身体を抱き寄せ、胸の奥までその温もりを受け止める。

「……っ、そうちゃん……」

掠れた声が胸元で震える。
彼女の指先が、縋るように白衣を掴んだ。

「もう、何も言わなくていいです」

耳元で落とされたその言葉に、琴葉の涙がいっそう溢れる。

「全部、わかりましたから」

その声は穏やかだった。
責めることも、弁解もない。
ただ抱きしめながら、奏一は静かに息を整える。

「……ずっと、気づけなくて申し訳ありませんでした」

小さく呟くと、頬に触れた髪の隙間から、微かな吐息が伝わった。

しばらくの間、2人の間に言葉はなかった。
モニターの規則的な電子音が、まるで心臓の鼓動のように静かに響き続ける。

やがて、奏一が抱き寄せたまま口を開く。

「……あの日のことを、少し話してもいいですか」

声はいつものように穏やかで、けれど微かに揺れていた。

「白崎のお宅で“卒業してからにしましょう”と話した日……
本当は、あの場で“今すぐにでも”と言いたかったんです」

琴葉の身体が、腕の中で小さく強張る。

「でも、言えませんでした。
言ってしまえば、あなたの時間を、私が奪ってしまう気がしたからです」

彼は腕の力を少しだけ緩め、琴葉の頬を包むように手を添えた。

「大学生活がやっと落ち着いて、友達ができて、楽しそうに笑うようになったあなたを、私は間近で見ていました。
その笑顔を、“結婚”という言葉で曇らせたくなかったんです」

「……そうちゃん……」

「結婚すれば、名字が変わり、周囲の見る目が変わる。
それだけで、琴葉さんの世界の形を変えてしまう可能性もあるんです。
あなたの未来を、私の手で狭めたくなかった」

一度、息を整える。
その瞳に、理性では覆いきれない熱が一瞬浮かんだ。

「……でも、本音を言えば、やはり今すぐにでも、あなたを自分のものにしたいと思っています。
どこにも行かせたくない。
琴葉さんが誰かに笑いかけるだけで、胸が痛くなります」

静かな声だったが、確かに震えていた。

「琴葉さんを守りたいと思うのと同じくらい、触れて、確かめて、隣にいてほしいと思っています。
……そんな矛盾を抱えたまま、あの日、“卒業してから”なんて言葉を選んでしまったんです」

そっと、指先で涙を拭う。

「本当は、縛りたくなかったのに……
結果的に、一番大切な人を傷つけてしまいました」

額を触れ合わせ、息を重ねるように、彼は囁いた。

「……申し訳ありませんでした」

琴葉の涙は、まだ止まらない。
それでも、怯えるように言葉を探す。

「……ねぇ、そうちゃん。
もし……もし私がいなかったら、そうちゃんは、もっと楽なんじゃないかって、思うときがあるの」

その一言に、奏一の呼吸がわずかに乱れた。

「私が病気じゃなかったら、忙しいそうちゃんの足を引っ張ることもないのにって。
――私ばっかり、好きなんじゃないかって」

彼女のかすれた声が、点滴の音に紛れて静かに落ちていく。
しばらくの沈黙のあと、奏一はゆっくりと息を吸った。

「……琴葉さん」

低く、しかし確かな声。

「あなたがいなかったら、私は“楽”にはなりません。
……“空っぽ”になります」

その言葉に、琴葉の瞳が揺れる。

「私は、自分の気持ちを抑えることで、あなたを守れると思っていました。
年齢のことも、立場のことも、全部理由にして。
でも、本当は――怖かったんです」

彼は手を伸ばし、琴葉の頬に触れる。
冷たくなった涙を、指先でそっと拭った。

「あなたに触れたいと思うたびに、“こんなことを考えてはいけない”と自分に言い聞かせてきました。
私なんかが、あなたの世界に踏み込んではいけないと」

声がかすかに震える。
長く理性で覆い隠してきた想いが、静かに滲み出ていた。
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