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第88話・生きる理由
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「でも、それは間違いでした」
静かに、けれどはっきりとした声。
「私はあなたを“負担”だと思ったことなんて、一度もありません。
むしろ――あなたがいるから、私は生きていけるんです」
奏一の手が琴葉の手を包み、その指先を強く握った。
「私にとって琴葉さんは、守る理由であり……
生き方そのものです」
ほんの少し間を置いて、彼は穏やかに微笑む。
「だから、もう遠慮しないでください。
好きだと言ってくれることも、頼ってくれることも、全部、私にとっては幸せなんです」
その静かな声には、ようやく理性の鎧を脱いだ人間の温度が宿っていた。
「……琴葉さん」
呼吸をひとつ整え、奏一は問いかける。
「なぜ、私が心臓外科医になったか――わかりますか?」
唐突な問いに、琴葉は目を瞬かせる。
弱々しく首を傾げ、かすれた声で答えた。
「……わかんない」
彼はわずかに笑い、その手をそっと琴葉の頬に添える。
「……あなたの命を、守れる場所にいたかったからです」
琴葉の瞳が大きく揺れた。
「昔、研修医だった頃……あなたのカルテを見たことがありました。
少し珍しい先天性心疾患だと、先輩に教えられて」
淡々とした口調。
けれど、その言葉の一つ一つに、重みがあった。
「病名だけを見れば、とても重い。
それなのに、病棟で見かけたあなたは……よく笑っていた。
自分の身体のことなんて、何も知らないみたいに」
琴葉は息を呑む。
自分には、まったく覚えのない記憶。
「その時、思ったんです。
琴葉さんが成長して、本当に苦しくなったとき。
そしてここに運ばれてきたとき……」
彼の指先が、わずかに力をこめた。
「あなたの心臓の鼓動を、この手で守りたいと思いました。
……そのために、私は心臓外科医になろうと決めたんです」
わずかに震える指先が、その覚悟の重さを物語っていた。
「……ですから」
奏一は、琴葉の手を包み直す。
「……私は、琴葉さんの病気を“重荷”だと思ったことは一度もありません。
それは――あなたが、あなたである証だから」
一度、静かに息を吐く。
「この身体で生まれて、この心で生きている。
だからこそ、私は琴葉さんを愛しています」
そして、彼は低く続けた。
「……もしあなたがこの世からいなくなったら……私はもう、医者でいる意味を見失ってしまうでしょう」
その声は穏やかで、けれどどこか切なく張り詰めている。
「あなたが笑ってくれるなら、どんなに忙しくても、寝る時間がなくても、私は幸せです。
……琴葉さんが苦しむ姿を見るほうが、何よりも怖い」
琴葉の瞳に、また涙が溜まる。
けれどそれは、もう悲しみの涙ではなかった。
「……そうちゃん……そんなの、ずるいよ……」
嗚咽混じりの声が震れる。
「そんなこと言われたら、もう……好きが止まらなくなる」
奏一は小さく笑い、そっと彼女の額に口づけた。
「止めなくていいですよ」
「……え?」
「私の想いも、もう止まりませんから」
低く、あたたかな声。
奏一はそのまま、琴葉の涙を拭いながら囁く。
「琴葉さん、何度でも言います。
あなたは生きていてくれるだけで、いいんです。
あなたが隣にいてくれることが、私にとっての“生きる理由”です」
琴葉の頬を伝う涙は、止まることはなかった。
けれどその表情には、さっきまでの不安や怯えはなく、こぼれる涙の奥に、確かな安堵が滲んでいた。
***
しばらくのあいだ、2人は何も言わずに手を握り合っていた。
点滴の滴る音だけが、静かに時を刻む。
やがて、奏一が穏やかに口を開いた。
「……もう泣かないでください。体力を使ってしまいますから」
微笑を浮かべたその声は、医者のものではなく、恋人としての彼そのものだった。
「今後は、焦らず少しずつ食べられるようにしましょうね」
「……うん」
小さく返す声は、少しだけ掠れている。
それでも、その響きはどこか柔らかかった。
少し間を置いて、琴葉が照れくさそうに笑う。
「そうちゃんのご飯、食べたいな」
「え?」
「……そうちゃんの作るご飯がいい」
その一言に、奏一の目元がふっと緩む。
「……では、退院したらすぐに作りましょう。
琴葉さんの好きなものを、たくさん」
「約束だよ?」
「はい。必ず」
握られた手の温度が、少し強くなる。
病室の窓から差し込む朝の光が、ゆっくりと2人の手を包み込んだ。
外では、春の風がやわらかく木々を揺らしている。
穏やかな時間の中で、琴葉はようやく、安心したように微笑んだ。
「……ねぇ、そうちゃん」
「はい」
「大好き」
「……ええ。私もです」
そうして、ふたりの間に落ちた沈黙は、もう痛みではなく――安らぎだった。
静かに、けれどはっきりとした声。
「私はあなたを“負担”だと思ったことなんて、一度もありません。
むしろ――あなたがいるから、私は生きていけるんです」
奏一の手が琴葉の手を包み、その指先を強く握った。
「私にとって琴葉さんは、守る理由であり……
生き方そのものです」
ほんの少し間を置いて、彼は穏やかに微笑む。
「だから、もう遠慮しないでください。
好きだと言ってくれることも、頼ってくれることも、全部、私にとっては幸せなんです」
その静かな声には、ようやく理性の鎧を脱いだ人間の温度が宿っていた。
「……琴葉さん」
呼吸をひとつ整え、奏一は問いかける。
「なぜ、私が心臓外科医になったか――わかりますか?」
唐突な問いに、琴葉は目を瞬かせる。
弱々しく首を傾げ、かすれた声で答えた。
「……わかんない」
彼はわずかに笑い、その手をそっと琴葉の頬に添える。
「……あなたの命を、守れる場所にいたかったからです」
琴葉の瞳が大きく揺れた。
「昔、研修医だった頃……あなたのカルテを見たことがありました。
少し珍しい先天性心疾患だと、先輩に教えられて」
淡々とした口調。
けれど、その言葉の一つ一つに、重みがあった。
「病名だけを見れば、とても重い。
それなのに、病棟で見かけたあなたは……よく笑っていた。
自分の身体のことなんて、何も知らないみたいに」
琴葉は息を呑む。
自分には、まったく覚えのない記憶。
「その時、思ったんです。
琴葉さんが成長して、本当に苦しくなったとき。
そしてここに運ばれてきたとき……」
彼の指先が、わずかに力をこめた。
「あなたの心臓の鼓動を、この手で守りたいと思いました。
……そのために、私は心臓外科医になろうと決めたんです」
わずかに震える指先が、その覚悟の重さを物語っていた。
「……ですから」
奏一は、琴葉の手を包み直す。
「……私は、琴葉さんの病気を“重荷”だと思ったことは一度もありません。
それは――あなたが、あなたである証だから」
一度、静かに息を吐く。
「この身体で生まれて、この心で生きている。
だからこそ、私は琴葉さんを愛しています」
そして、彼は低く続けた。
「……もしあなたがこの世からいなくなったら……私はもう、医者でいる意味を見失ってしまうでしょう」
その声は穏やかで、けれどどこか切なく張り詰めている。
「あなたが笑ってくれるなら、どんなに忙しくても、寝る時間がなくても、私は幸せです。
……琴葉さんが苦しむ姿を見るほうが、何よりも怖い」
琴葉の瞳に、また涙が溜まる。
けれどそれは、もう悲しみの涙ではなかった。
「……そうちゃん……そんなの、ずるいよ……」
嗚咽混じりの声が震れる。
「そんなこと言われたら、もう……好きが止まらなくなる」
奏一は小さく笑い、そっと彼女の額に口づけた。
「止めなくていいですよ」
「……え?」
「私の想いも、もう止まりませんから」
低く、あたたかな声。
奏一はそのまま、琴葉の涙を拭いながら囁く。
「琴葉さん、何度でも言います。
あなたは生きていてくれるだけで、いいんです。
あなたが隣にいてくれることが、私にとっての“生きる理由”です」
琴葉の頬を伝う涙は、止まることはなかった。
けれどその表情には、さっきまでの不安や怯えはなく、こぼれる涙の奥に、確かな安堵が滲んでいた。
***
しばらくのあいだ、2人は何も言わずに手を握り合っていた。
点滴の滴る音だけが、静かに時を刻む。
やがて、奏一が穏やかに口を開いた。
「……もう泣かないでください。体力を使ってしまいますから」
微笑を浮かべたその声は、医者のものではなく、恋人としての彼そのものだった。
「今後は、焦らず少しずつ食べられるようにしましょうね」
「……うん」
小さく返す声は、少しだけ掠れている。
それでも、その響きはどこか柔らかかった。
少し間を置いて、琴葉が照れくさそうに笑う。
「そうちゃんのご飯、食べたいな」
「え?」
「……そうちゃんの作るご飯がいい」
その一言に、奏一の目元がふっと緩む。
「……では、退院したらすぐに作りましょう。
琴葉さんの好きなものを、たくさん」
「約束だよ?」
「はい。必ず」
握られた手の温度が、少し強くなる。
病室の窓から差し込む朝の光が、ゆっくりと2人の手を包み込んだ。
外では、春の風がやわらかく木々を揺らしている。
穏やかな時間の中で、琴葉はようやく、安心したように微笑んだ。
「……ねぇ、そうちゃん」
「はい」
「大好き」
「……ええ。私もです」
そうして、ふたりの間に落ちた沈黙は、もう痛みではなく――安らぎだった。
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