病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

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第89話・隣にいる、という日常

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数日後。

点滴も外れ、琴葉の顔色はようやく血の気を取り戻していた。
まだ完全に体力は戻っていないが、熱は下がり、検査結果も良好。

「これで、退院できますね」

奏一の穏やかな声に、琴葉はぱっと顔を上げる。

「うん! やっと……!」

久しぶりに見せたその笑顔に、頬がほんのり染まる。
その表情を見て、奏一の胸の奥にもようやく安堵が広がった。

「ありがとう、そうちゃん」

「ええ。……よく頑張りましたね、琴葉さん」

「えへへ……でも、もう二度とあんなふうに倒れたりしないから」

「……その言葉を信じていいんですね?」

「うん。ちゃんと食べて、ちゃんと寝る」

少し得意げに笑う琴葉に、奏一の口元も自然と緩む。
彼の瞳に、あの日の不安の影はもうなかった。

その時、ドアがノックされる。

「――琴葉」

母が小さな花束を手に入ってきた。

「ママ!」

「顔色、ずいぶん良くなったじゃない。もう大丈夫そうね」

「うん! もう元気だよ」

母の表情がふっと和らぐ。
そして、そっと視線を奏一に向けた。

「遠野先生……本当にありがとうございました」

「いえ。私のほうこそ、あのときすぐに伺えず申し訳ありませんでした」

丁寧に頭を下げる奏一。
その言葉に、母は静かに首を振った。

「いいえ。こうして元気になったのは遠野先生と病院の皆様のお陰ですから」

そう言って、母はふと琴葉の手元を見る。
――奏一の手を、しっかりと握っている。

問いかけるように視線を上げると、琴葉はほんのり頬を染めながら、穏やかに微笑んだ。

その笑顔を見て、母は何も言わず、ただ小さく頷く。

「……本当に、もう大丈夫そうね」

その言葉に、琴葉の目尻が少しだけ潤む。

母が部屋を出ていったあとも、2人の手は離れなかった。
指先が絡んだまま、しばらく静かな時間が流れる。

「……お母様、安心されていましたね」

「うん。ちゃんと笑ってくれたの、久しぶりかも」

「それは――琴葉さんが笑っていたからですよ」

その言葉に、琴葉は小さく息をのむ。
そして、ほんのり照れくさそうに笑った。

「……もう、心配ばかりかけたくないな」

「ええ。琴葉さんが元気で笑っていれば、それで十分です」

「……そうちゃんがいるから、安心して笑えるね」

視線が合い、ふたりはそっと笑い合う。
胸の奥が、静かに満たされていく。

窓の外では、青空がきらめいていた。
病室の空気が、春の名残から初夏の匂いへと変わっていく。

「そろそろ行きましょうか。車、玄関前に回してあります」

「うん。……なんか、変な感じ」

「変な感じ、ですか?」

「たった数日なのに、ここにいるのが当たり前みたいになってて……でも、やっと――」

小さく息を吸い、琴葉は笑った。

「――やっと、そうちゃんのご飯が食べられる」

その言葉に、奏一の目元がやさしく緩む。

「それは私にとっても嬉しい言葉ですね」

「退院祝いに、いっぱい作ってね」

「もちろん。琴葉さんの食べたいものを作りましょう」

そう言いながら、奏一はふと考えるように目を伏せた。

「……ただ、その前に少し寄り道をしなければいけませんね」

「寄り道?」

「はい。冷蔵庫が空なんです。
あなたが入院してから、私も家に帰っていませんから」

「え……家に帰ってないの?」

驚く琴葉に、奏一は穏やかに頷く。

「空いている当直室で休んでいました。
着替えも置いてありますし、不自由はありません」

「でも……そんなの、そうちゃんが疲れちゃうよ」

「琴葉さんが病院にいるのに、私だけ家に帰る理由はありませんので」

まるで当たり前のことだと言うように、淡々とした口調。
けれどその表情は、どこか満たされている。

琴葉は一瞬言葉を失い、やがて小さく息を吐いた。

「……ほんと、そうちゃんってずるい」

「ずるい、ですか?」

「うん。
そんな顔で、そんなこと言われたら……怒れなくなる」

苦笑まじりに言うと、奏一の唇がかすかに緩む。

「怒られなくてよかったです」

「もう……」

呆れたように笑いながら、胸の奥があたたかくなる。
奏一は本当に、どこまでも自分を想ってくれる。

「……じゃあ、帰る前にスーパーだね」

「ええ。あなたの“食べたいものリスト”、楽しみにしていますよ」

「うん!」

指先を重ねたまま、2人は並んで歩き出す。
消毒液の匂いが薄れていく廊下の先、自動ドアの向こうには、まぶしい初夏の光が広がっていた。

隣を歩く奏一の手が、そっと琴葉の手を包み込む。

――すれ違いの先で、ようやく“隣にいる”という温もりを知った。
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