病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

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第90話・あなたと迎える今日

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大学の正門を出ると、ゆるやかな風が頬を撫でた。
昼間の熱気をわずかに残した、やわらかな初夏の風。
空はまだ淡い茜色を帯び、遠くで鳥の声が混じっている。

門の外には、見慣れた黒の車が停まっていた。
運転席のドアが開き、奏一が歩み寄ってくる。

「お疲れさまでした、琴葉さん」

穏やかな声に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
久しぶりの“お迎え”なのに、まるで毎日の続きのような安心感だった。

「そうちゃん……今日、お休みだったんでしょ? わざわざ来なくてもよかったのに」

「誕生日に、あなたを1人で歩かせるわけにはいきません」

「もう、そういうところ……」

小さく笑いながらも、心の奥がくすぐったい。

風に揺れる髪を見て、奏一がそっと手を伸ばす。
指先が一瞬だけ触れ、その温度に胸が熱くなった。

「まだ暑さに慣れていないでしょう。水分は足りていますか?」

「……ちゃんと飲んでるよ」

「本当ですか?」

「……えっと、まあ、たぶん?」

「“たぶん”は信用できませんね」

そう言って笑いながら、助手席のドアを開けてくれる。
その表情は、いつもより少し柔らかかった。

車内に座ると、ひんやりとした空気が流れ込む。
外の喧騒から切り離された静けさの中で、エンジン音だけが微かに響いた。

「……やっぱり、来てくれて嬉しい」

「それなら良かったです。琴葉さんの顔が見られて、私も安心しました」

「でも、講義中ちょっと眠くなっちゃって。……まだ体力戻ってないのかな」

「焦らなくて大丈夫です。
ゆっくり、元の生活に戻していきましょう」

「……はーい」

小さな返事のあと、彼女は少し笑った。

窓の外では、夕暮れの光が街を染めていく。
その光に照らされる横顔が、ほんの少しだけ照れているように見えた。

「ねぇ、そうちゃん」

「はい」

「今日ね。
そうちゃんと一緒に迎えられたのが、すごく嬉しい」

その言葉に、彼は静かに微笑む。

「……私もです。
あなたと過ごせる今日が、何より特別ですから」

車がゆっくりと走り出す。
夕陽の残り香が、窓の外に溶けていった。

***

車が静かに停まり、エントランスを抜けて部屋のドアを開けた瞬間、ふわりと香ばしい匂いが琴葉を包み込んだ。

「……え、これ……」

玄関の灯りの先。
リビングのテーブルには、白いクロスと小さな花束、そして2人分の食器が丁寧に並べられていた。

「そうちゃん、まさか……準備してたの?」

「ええ。せっかくのお誕生日ですから」

「もう……サプライズとか、ずるい」

そう言いながらも、琴葉の頬には自然と笑みが浮かんでいた。
キッチンの奥では、最後の一皿が静かに仕上げられていく。

「まだ熱いので、気をつけてくださいね」

「わぁ……ハンバーグ!」

「はい。以前“また食べたい”とおっしゃっていたので」

「覚えてたの……?」

「もちろん。あの時、とても嬉しそうにしていましたから」

皿が置かれ、グレービーソースの香りが立ちのぼる。
テーブルの上のキャンドルが、淡く光を揺らしていた。

「……いただきます」

一口食べると、体の奥からふっと力が抜ける。
退院してから、初めて心から“おいしい”と感じた。

「やっぱり、そうちゃんの味だね」

「そう言っていただけるなら何よりです。
琴葉さんに“食べられるようになった”と言ってもらえるのが、一番嬉しいですから」

「うん……ほんとに、おいしい」

会話が途切れても、不思議と気まずさはない。
ナイフとフォークの音だけが、やわらかく空間を満たしていった。


「――ごちそうさまでした」

「食欲、戻ってきましたね」

「うん。そうちゃんのご飯がいちばん安心する」

「それは光栄です。……実は、もうひとつあります」

「え?」

奏一が立ち上がり、冷蔵庫から取り出したのは小ぶりなホールケーキだった。
白いクリームの上に、苺とラズベリー、ブルーベリーが彩られている。

「誕生日といえば、こちらも欠かせません」

「……わぁ、かわいい……!」

「大きいものは食べきれないでしょうから、控えめなサイズにしました」

「うん、ちょうどいい……ありがとう」

奏一がナイフで切り分けてくれる。
スポンジがしっとりと沈み、ベリーの果汁が淡く滲んだ。

「改めて――お誕生日おめでとうございます、琴葉さん」

「……ありがとう、そうちゃん」

一口運ぶと、やさしい甘さが広がった。

「おいしい……甘すぎなくて、食べやすい」

「琴葉さんの好みに合わせて選びました。苺の酸味が強めなのは、意図的です」

「ほんとに……なんでも知ってるね」

「あなたのことなら、たぶん誰よりも」

ケーキの灯りに照らされた笑顔が、やわらかく滲む。
静かな幸福が、ふたりの間にゆっくりと満ちていった。
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