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1.ガラス越しの彼と、嘘つきな私
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開館前の静けさが、美術館の回廊を優しく包んでいた。
高い天窓からこぼれる朝の光が、つややかな大理石の床を斜めに照らし、絵画のフレームにやわらかな金の縁を描き出す。
エリーズ・モランヌは受付カウンターの脇で、花瓶の花を整えながら、小さく息を吐いた。立ち襟の白ブラウスに葡萄色のロングワンピース。受付嬢であることを示す、青灰色のエプロン。長い茶色の髪は一つにまとめている。彼女の若葉色の瞳は人当たりの良さを感じさせるが、一人のときにはいつも、憂いを漂わせている。
(今日もいつも通り。笑っていれば、大丈夫。……なのに、なぜ胸がざわつくの)
この館で働き始めてもうすぐ一年になる。優しい同僚たち、美しい展示品たち、静かで落ち着いた空間。ある事件をきっかけに塞ぎ込んでいたエリーズにとって、ようやく見つけた〝逃げ込める居場所〟だった。
だけど、あの部屋の存在だけが——エリーズの平穏に、さざ波を立てる。
館の奥、ガラスの回廊を抜けた先にある、関係者以外立ち入り禁止の彫刻室。
そこには、レアンドル・クレルヴァルという、謎めいた彫刻家がいる。
彼を初めて見たのは、数ヶ月前のことだった。時間外に出勤して通用口から奥に入り、彫刻室の扉がかすかに開いていて——中にいたのは、制作中の彫刻に向き合う青年。生成り色の作業着は一部が破れ、汚れていて、彼が身なりなど気にせずに作品に没頭していることをうかがわせる。ポケットから覗く金属製の彫刻刀や、煤けたレザー製の腰道具も、芸術家のイメージそのものだった。
肩まであるウェーブした白銀色の髪に、真実を見通すような青色の瞳。長い髪に隠された顔の左側は見えない。けれど、その真剣な眼差しに、胸の奥がぎゅっとなるのを感じた。
レアンドルは彫刻の前に静かに腰かけ、両手で慎重に石の頬に触れている。音は止み、作業も一段落ついたのだろう。彼はしばらく像を見つめたまま、何かを確かめるように目を細めた。
――そして、かすかに、笑った。
ほんの一瞬。けれどその笑みは、あまりにも自然で、優しくて、誰かに見せるものではなく、まるで——彫刻そのものに語りかけるような、静かな微笑だった。
エリーズは息を呑んだ。
(あんな顔、するんだ……あの人)
レアンドルはいつも無表情で、誰にも心を開かず、目さえ合わせようとしない。なのに、目の前の彫像には、言葉を超えた何かを届けようとしていた。
その笑顔を、彫刻以外の誰にも見せていないことが、エリーズにはわかった。
それがなぜか、胸の奥をちくりと刺した。
(私……もっと、あの顔を見たくなってる)
エリーズはそっと扉から離れる。
彼はエリーズに気づいた様子はなく、彫刻刀を手にして、作業へと戻った。
(あのときから、ずっと引っかかってる。どうして、忘れられないの)
彼は職員に、一度も言葉をかけてくれたことがない。廊下ですれ違っても、まるで存在を無視するように目をそらす。
なのにエリーズの足は、時折ふらりと彫刻室のある方角へ向かってしまう。声をかけるわけでもなく、扉の前で立ち止まるだけ。まるで、許されない恋の入り口を見つめているようだった。
(私、彼のことが好きなの? それとも……ただ、自分を重ねてるだけ?)
エリーズは仮面をつけている。
微笑み、丁寧に応対し、何も知らないふりをする。それがエリーズの仕事であり、身を守ることでもあるから。
けれど、あの人の目の奥には、エリーズと同じ仮面の重さがある気がしてならなかった。
ガラス越しの彼。
得体の知れない、横顔だけの男。
その日、エリーズは思いがけず、扉の中へと引き寄せられることになる。
午後、来館者の合間を縫って、館長がエリーズに声をかけた。
「エリーズ、ちょっと手伝ってもらえるかな。例の……レアンドルのとこ」
息が止まりそうになった。エリーズはすぐに返事ができず、軽く眉をひそめた館長が、気まずそうに笑う。
「なあに。心配するな。花を届けるだけだ。制作中の作品にインスピレーションを与えるために、必要なのだそうだ。君、いつも丁寧だから、彼も嫌がらないと思うよ」
(私が……彼と話すの?)
渡されたガラスの花瓶には、純白のカラーが一輪、すっと立っていた。エリーズは両手でそれを抱え、息を殺すようにして、回廊を進んだ。
陽射しに反射してゆらめくガラスの壁。その先にある扉の前で、足が止まった。心臓がうるさく響く。鼓動が喉に届きそうだった。
(入っていいの? 怖い。でも、……会いたい)
ノックをして、返事がないことを確認し、エリーズはそっと扉を押した。
「クレルヴァルさん、失礼します。」
彫刻室は想像よりもずっと静かで、光に満ちていた。
(わぁ……ここが、彫刻室。あの、秘密めいた部屋)
窓から射す斜光に、ちらちらと埃が舞っている。部屋の中央には未完成の彫刻——少女のような柔らかな表情の石像が置かれていて、そしてその影の向こうに、彼がいた。
天才と名高い新進気鋭の彫刻家、レアンドル・クレルヴァル。人前に出るのを嫌っているため、素顔を知る者は、ごくわずか。その謎めいた雰囲気が、人々を魅了している。
彫刻刀を手に、作業を止めたまま、彼はエリーズを見た。
あえて伸ばした前髪が揺れて、彼の顔の左側がちらりと見える。火傷の痕。彼が他人に見せたくなかったもの。
その片目は驚きに見開かれ、次の瞬間、鋭く細められる。
「……勝手に入るな」
その声は低く、喉の奥で擦れるようだった。
エリーズは思わず、両手の花瓶を少し掲げた。
「すみません。館長に頼まれたんです。その……クレルヴァルさんに、お花を、届けに……。私は受付嬢のエリーズです」
レアンドルは視線を逸らし、肩を小さくすくめる。
「そうだったか。すまない……そこに置いていってくれ。あと、僕のことはレアンドルと呼んでくれ。丁寧に呼ばれると、馬鹿にされているみたいに感じるタチなんだ」
(そうだよね、私なんて、入っちゃいけない場所だった)
だが、エリーズはなぜか、すぐに踵を返せなかった。
彫刻の少女の顔が、どこかエリーズに似ている気がして——思わず、口をついた。
「……この子、笑ってないんですね」
彼の手が、ぴたりと止まる。その目が、まっすぐエリーズを見た。
「あ、すみません。その……親愛なるレアンドル」
エリーズはもじもじと手を組み、気まずそうに目を逸らした。だが、レアンドルの反応は、意外なものだった。
「はははっ! エリーズといったか? 君はなかなか鋭いな。……ああ、そうさ。笑顔の彫刻じゃあ、意味がない。笑顔なんて、誰だって嘘で作れるものだからな」
大きく頷いて、レアンドルは初めて目を輝かせた。自らの作品の意図に気づいたエリーズに、満足するかのように。
(ああ、この人は——私と同じことを思ってる)
エリーズは微笑んだ。ゆっくりと、仮面を外すように。
「そうですよね。……でも、嘘の笑顔にも、救われることって……あると思いませんか?」
何気なく口をついて出た言葉。けれど、本心からの言葉。
彼の視線が揺れた。すぐには何も言わず、ただ、木屑の舞う静けさの中で、二人はしばらく見つめ合っていた。
(もしかして、私……この人の彫る作品の中に、自分の居場所を見つけたのかもしれない)
* * *
それから少しずつ、二人の距離は変わっていった。
ある日、彫刻室の前に、彼が落としたスケッチらしきものを見つけた。
エリーズはそっと拾い、扉の隙間から声をかける。
「これ……落ちてました」
扉を開けた彼は、いつもより長くエリーズを見て、うなずき、呟いた。
相変わらず、顔の左側は見えない。庇うように、彼は右側しか見せないのだ。
「……ありがとう」
(今、ありがとうって言った……?)
その一言が、胸の奥に柔らかく灯る。
「そうだ、君……制作中の彫刻について、意見をもらえないだろうか?」
「え? 私、学芸員ではないですよ。彫刻に関しては素人です……それでも?」
「ああ。そもそも、美術館へやってくる人のほとんどは専門知識を持たない。そういう人がどう思うかを知りたい。つまり、君にこそ見てもらいたいんだ」
彼は彫刻の表情について悩んでいるようだった。
「この頬の線が、うまくいかない」
エリーズは少し迷ってから、口を開いた。
「誰かを見て、彫ってるんですか?」
彼は、ほんのわずかだけ微笑んだ。
「実は……君だ。君を見て、これを彫りたくなった」
(私を……? そんなの、反則だよ)
胸が跳ね上がって、すぐに言葉が続けられなかった。だけど、嬉しくて、恥ずかしくて、どうしようもなく心が震えていた。
それから、彼はエリーズの手を取った。
「軽く、触れてみろ。石は呼吸してる」
手を添えられた瞬間、彼の指の温度がエリーズの肌を伝って心まで届く。
(この手で、あなたの世界に触れてもいいの……?)
そう思った。きっとエリーズは、もう戻れない場所に足を踏み入れていた。
でもそれは、誰にも見せられないほど、愛おしい場所だった。
* * *
翌日は雨が降っていた。
休館日、誰もいない館内で、エリーズはひとり資料室の奥にいた。館長に頼まれた文献を探しているうちに、エリーズの心は過去の事件に引き寄せられていく――。
前職でエリーズが巻き込まれた、あの事件——執拗に続いた待ち伏せ、手紙、告白。そして最後は、エリーズが泣きながら上司に訴えたこと。
(もう、忘れたはずだったのに)
封筒を開く指が震えていた。紙のにおい、筆跡、当時のメモ。
それらが次々に〝記憶の航海〟へとエリーズを連れ去っていく。
あのときの自分は、声も出せなかった。助けを求めることさえ、誰かに迷惑をかける気がして怖かった。
(どうしてあんなに、傷ついたのだろう。私はどうすれば良かったのだろう)
こぼれた涙に気づかないふりをして、エリーズはそっと資料室の灯りを消した。
帰り際に彫刻室を覗くと、レアンドルが窓際に座っていた。灯りを点けず、外の雨を見つめている。
彼はエリーズの姿に気づくと、近づいてきて扉を開けた。
「……どうした? 顔色が悪いな」
低い声が、エリーズの震えを見抜いていた。
私は気づけば、涙声で呟いていた。
「過去の自分が、急に……怖くなったの」
彼はしばらく黙っていた。
しかし、少し逡巡する素振りを見せた後、私に向けてゆっくりと差し出した。
――手。
あの、火傷のある方の手。
(触れていいの? 傷の深さを知っても、怖がらないでいられるかな)
エリーズは自分の手をそっと重ねた。熱を感じた。傷跡の皮膚は、思ったよりもずっと柔らかい。
「僕も怖かった。……ずっと」
彼の声が、心の底に波のように響いた。
二人はしばらく、ただ手を重ねて雨音を聞いていた。
(きっとこの人となら、もう一度、自分の記憶を受け入れられる)
エリーズは自然とそう思えた。
(今日こそ、もう少し踏み込みたい)
彼の目に映る自分が、ようやく偽物ではなくなってきた気がした。
顔の左側、いつも髪で隠していた火傷跡が、今日は少しだけ覗いている。
「聞かせて。彫刻制作で、あなたが大切にしているものって何かしら?」
声をかけると、レアンドルは少し考え、答えた。
「そうだな。……心の底の部分だな。人の心の底は、彫るのが難しい。だが、それでも見えないものを見よう努力しているうちに……ある瞬間、自分の底が映るんだ。それを、彫る。ただひたすらに」
静かな、けれど削るような言葉だった。
(彼はいつも、私に本音を見せてくれる気がする。それなのに……私は?)
エリーズは心にかすかな痛みを覚えながら、制作中の彫像を覗き込んだ。そこにいたのは、微笑みながら泣いている女の子。——エリーズだ。
「……なるほど。深いですね」
エリーズは静かに頷くと、ためらいがちに視線を彫像からレアンドルへと移した。
少しだけ間を置いて、口を開く。
「では次の質問。どうして今は、私の顔を……?」
震える声が出たとき、レアンドルがふっと手を止めた。そしてゆっくりとこちらを向く。髪の隙間から覗いた肌には、赤茶けた傷跡が広がっていた。まるで消えかけた焰が、肌の内側にまだ眠っているかのように、淡く沈んだ光をたたえている。
「火事だった。三年前の冬、アトリエで……。燃えてるのに気づいたのは、もう遅かった。助手が、僕を助けようとして巻き込まれた。……彼女は、僕のせいで亡くなった。君は、彼女に似ているんだ」
(……そんなに大変なことがあったの?)
胸の痛む音がした。レアンドルの目は、ずっと何かを拒んでいた。でもそれは、人を怖れていたのではなく、自分自身を赦せていなかったからだ。
「僕は、自分の顔を見るたびに思う。もし彼女じゃなく、僕が死んでいたらって」
その声は凪のように静かで、だからこそ深く突き刺さった。
「でも……レアンドル」
エリーズは言葉を選ばず、ただ本音を口にした。
「私は、その火傷痕を見ても、あなたの目から目を逸らせない。むしろ、目を逸らせないくらい、真っ直ぐに、痛みを抱えている人なんだって……そう、思います」
(私、彼のことが好きなの?)
彼は驚いたようにエリーズを見た。沈黙が二人の間を流れ、それから——彼は初めて、髪をかき上げた。火傷の跡が晒される。それでもエリーズは目を逸らさなかった。
「……見える?」
「ええ。ちゃんと、見えます」
彼の傷と、エリーズの心の傷が、同じ重さを持つならば——たった今、私たちは〝お互いの底〟に手を伸ばせたのかもしれない。
高い天窓からこぼれる朝の光が、つややかな大理石の床を斜めに照らし、絵画のフレームにやわらかな金の縁を描き出す。
エリーズ・モランヌは受付カウンターの脇で、花瓶の花を整えながら、小さく息を吐いた。立ち襟の白ブラウスに葡萄色のロングワンピース。受付嬢であることを示す、青灰色のエプロン。長い茶色の髪は一つにまとめている。彼女の若葉色の瞳は人当たりの良さを感じさせるが、一人のときにはいつも、憂いを漂わせている。
(今日もいつも通り。笑っていれば、大丈夫。……なのに、なぜ胸がざわつくの)
この館で働き始めてもうすぐ一年になる。優しい同僚たち、美しい展示品たち、静かで落ち着いた空間。ある事件をきっかけに塞ぎ込んでいたエリーズにとって、ようやく見つけた〝逃げ込める居場所〟だった。
だけど、あの部屋の存在だけが——エリーズの平穏に、さざ波を立てる。
館の奥、ガラスの回廊を抜けた先にある、関係者以外立ち入り禁止の彫刻室。
そこには、レアンドル・クレルヴァルという、謎めいた彫刻家がいる。
彼を初めて見たのは、数ヶ月前のことだった。時間外に出勤して通用口から奥に入り、彫刻室の扉がかすかに開いていて——中にいたのは、制作中の彫刻に向き合う青年。生成り色の作業着は一部が破れ、汚れていて、彼が身なりなど気にせずに作品に没頭していることをうかがわせる。ポケットから覗く金属製の彫刻刀や、煤けたレザー製の腰道具も、芸術家のイメージそのものだった。
肩まであるウェーブした白銀色の髪に、真実を見通すような青色の瞳。長い髪に隠された顔の左側は見えない。けれど、その真剣な眼差しに、胸の奥がぎゅっとなるのを感じた。
レアンドルは彫刻の前に静かに腰かけ、両手で慎重に石の頬に触れている。音は止み、作業も一段落ついたのだろう。彼はしばらく像を見つめたまま、何かを確かめるように目を細めた。
――そして、かすかに、笑った。
ほんの一瞬。けれどその笑みは、あまりにも自然で、優しくて、誰かに見せるものではなく、まるで——彫刻そのものに語りかけるような、静かな微笑だった。
エリーズは息を呑んだ。
(あんな顔、するんだ……あの人)
レアンドルはいつも無表情で、誰にも心を開かず、目さえ合わせようとしない。なのに、目の前の彫像には、言葉を超えた何かを届けようとしていた。
その笑顔を、彫刻以外の誰にも見せていないことが、エリーズにはわかった。
それがなぜか、胸の奥をちくりと刺した。
(私……もっと、あの顔を見たくなってる)
エリーズはそっと扉から離れる。
彼はエリーズに気づいた様子はなく、彫刻刀を手にして、作業へと戻った。
(あのときから、ずっと引っかかってる。どうして、忘れられないの)
彼は職員に、一度も言葉をかけてくれたことがない。廊下ですれ違っても、まるで存在を無視するように目をそらす。
なのにエリーズの足は、時折ふらりと彫刻室のある方角へ向かってしまう。声をかけるわけでもなく、扉の前で立ち止まるだけ。まるで、許されない恋の入り口を見つめているようだった。
(私、彼のことが好きなの? それとも……ただ、自分を重ねてるだけ?)
エリーズは仮面をつけている。
微笑み、丁寧に応対し、何も知らないふりをする。それがエリーズの仕事であり、身を守ることでもあるから。
けれど、あの人の目の奥には、エリーズと同じ仮面の重さがある気がしてならなかった。
ガラス越しの彼。
得体の知れない、横顔だけの男。
その日、エリーズは思いがけず、扉の中へと引き寄せられることになる。
午後、来館者の合間を縫って、館長がエリーズに声をかけた。
「エリーズ、ちょっと手伝ってもらえるかな。例の……レアンドルのとこ」
息が止まりそうになった。エリーズはすぐに返事ができず、軽く眉をひそめた館長が、気まずそうに笑う。
「なあに。心配するな。花を届けるだけだ。制作中の作品にインスピレーションを与えるために、必要なのだそうだ。君、いつも丁寧だから、彼も嫌がらないと思うよ」
(私が……彼と話すの?)
渡されたガラスの花瓶には、純白のカラーが一輪、すっと立っていた。エリーズは両手でそれを抱え、息を殺すようにして、回廊を進んだ。
陽射しに反射してゆらめくガラスの壁。その先にある扉の前で、足が止まった。心臓がうるさく響く。鼓動が喉に届きそうだった。
(入っていいの? 怖い。でも、……会いたい)
ノックをして、返事がないことを確認し、エリーズはそっと扉を押した。
「クレルヴァルさん、失礼します。」
彫刻室は想像よりもずっと静かで、光に満ちていた。
(わぁ……ここが、彫刻室。あの、秘密めいた部屋)
窓から射す斜光に、ちらちらと埃が舞っている。部屋の中央には未完成の彫刻——少女のような柔らかな表情の石像が置かれていて、そしてその影の向こうに、彼がいた。
天才と名高い新進気鋭の彫刻家、レアンドル・クレルヴァル。人前に出るのを嫌っているため、素顔を知る者は、ごくわずか。その謎めいた雰囲気が、人々を魅了している。
彫刻刀を手に、作業を止めたまま、彼はエリーズを見た。
あえて伸ばした前髪が揺れて、彼の顔の左側がちらりと見える。火傷の痕。彼が他人に見せたくなかったもの。
その片目は驚きに見開かれ、次の瞬間、鋭く細められる。
「……勝手に入るな」
その声は低く、喉の奥で擦れるようだった。
エリーズは思わず、両手の花瓶を少し掲げた。
「すみません。館長に頼まれたんです。その……クレルヴァルさんに、お花を、届けに……。私は受付嬢のエリーズです」
レアンドルは視線を逸らし、肩を小さくすくめる。
「そうだったか。すまない……そこに置いていってくれ。あと、僕のことはレアンドルと呼んでくれ。丁寧に呼ばれると、馬鹿にされているみたいに感じるタチなんだ」
(そうだよね、私なんて、入っちゃいけない場所だった)
だが、エリーズはなぜか、すぐに踵を返せなかった。
彫刻の少女の顔が、どこかエリーズに似ている気がして——思わず、口をついた。
「……この子、笑ってないんですね」
彼の手が、ぴたりと止まる。その目が、まっすぐエリーズを見た。
「あ、すみません。その……親愛なるレアンドル」
エリーズはもじもじと手を組み、気まずそうに目を逸らした。だが、レアンドルの反応は、意外なものだった。
「はははっ! エリーズといったか? 君はなかなか鋭いな。……ああ、そうさ。笑顔の彫刻じゃあ、意味がない。笑顔なんて、誰だって嘘で作れるものだからな」
大きく頷いて、レアンドルは初めて目を輝かせた。自らの作品の意図に気づいたエリーズに、満足するかのように。
(ああ、この人は——私と同じことを思ってる)
エリーズは微笑んだ。ゆっくりと、仮面を外すように。
「そうですよね。……でも、嘘の笑顔にも、救われることって……あると思いませんか?」
何気なく口をついて出た言葉。けれど、本心からの言葉。
彼の視線が揺れた。すぐには何も言わず、ただ、木屑の舞う静けさの中で、二人はしばらく見つめ合っていた。
(もしかして、私……この人の彫る作品の中に、自分の居場所を見つけたのかもしれない)
* * *
それから少しずつ、二人の距離は変わっていった。
ある日、彫刻室の前に、彼が落としたスケッチらしきものを見つけた。
エリーズはそっと拾い、扉の隙間から声をかける。
「これ……落ちてました」
扉を開けた彼は、いつもより長くエリーズを見て、うなずき、呟いた。
相変わらず、顔の左側は見えない。庇うように、彼は右側しか見せないのだ。
「……ありがとう」
(今、ありがとうって言った……?)
その一言が、胸の奥に柔らかく灯る。
「そうだ、君……制作中の彫刻について、意見をもらえないだろうか?」
「え? 私、学芸員ではないですよ。彫刻に関しては素人です……それでも?」
「ああ。そもそも、美術館へやってくる人のほとんどは専門知識を持たない。そういう人がどう思うかを知りたい。つまり、君にこそ見てもらいたいんだ」
彼は彫刻の表情について悩んでいるようだった。
「この頬の線が、うまくいかない」
エリーズは少し迷ってから、口を開いた。
「誰かを見て、彫ってるんですか?」
彼は、ほんのわずかだけ微笑んだ。
「実は……君だ。君を見て、これを彫りたくなった」
(私を……? そんなの、反則だよ)
胸が跳ね上がって、すぐに言葉が続けられなかった。だけど、嬉しくて、恥ずかしくて、どうしようもなく心が震えていた。
それから、彼はエリーズの手を取った。
「軽く、触れてみろ。石は呼吸してる」
手を添えられた瞬間、彼の指の温度がエリーズの肌を伝って心まで届く。
(この手で、あなたの世界に触れてもいいの……?)
そう思った。きっとエリーズは、もう戻れない場所に足を踏み入れていた。
でもそれは、誰にも見せられないほど、愛おしい場所だった。
* * *
翌日は雨が降っていた。
休館日、誰もいない館内で、エリーズはひとり資料室の奥にいた。館長に頼まれた文献を探しているうちに、エリーズの心は過去の事件に引き寄せられていく――。
前職でエリーズが巻き込まれた、あの事件——執拗に続いた待ち伏せ、手紙、告白。そして最後は、エリーズが泣きながら上司に訴えたこと。
(もう、忘れたはずだったのに)
封筒を開く指が震えていた。紙のにおい、筆跡、当時のメモ。
それらが次々に〝記憶の航海〟へとエリーズを連れ去っていく。
あのときの自分は、声も出せなかった。助けを求めることさえ、誰かに迷惑をかける気がして怖かった。
(どうしてあんなに、傷ついたのだろう。私はどうすれば良かったのだろう)
こぼれた涙に気づかないふりをして、エリーズはそっと資料室の灯りを消した。
帰り際に彫刻室を覗くと、レアンドルが窓際に座っていた。灯りを点けず、外の雨を見つめている。
彼はエリーズの姿に気づくと、近づいてきて扉を開けた。
「……どうした? 顔色が悪いな」
低い声が、エリーズの震えを見抜いていた。
私は気づけば、涙声で呟いていた。
「過去の自分が、急に……怖くなったの」
彼はしばらく黙っていた。
しかし、少し逡巡する素振りを見せた後、私に向けてゆっくりと差し出した。
――手。
あの、火傷のある方の手。
(触れていいの? 傷の深さを知っても、怖がらないでいられるかな)
エリーズは自分の手をそっと重ねた。熱を感じた。傷跡の皮膚は、思ったよりもずっと柔らかい。
「僕も怖かった。……ずっと」
彼の声が、心の底に波のように響いた。
二人はしばらく、ただ手を重ねて雨音を聞いていた。
(きっとこの人となら、もう一度、自分の記憶を受け入れられる)
エリーズは自然とそう思えた。
(今日こそ、もう少し踏み込みたい)
彼の目に映る自分が、ようやく偽物ではなくなってきた気がした。
顔の左側、いつも髪で隠していた火傷跡が、今日は少しだけ覗いている。
「聞かせて。彫刻制作で、あなたが大切にしているものって何かしら?」
声をかけると、レアンドルは少し考え、答えた。
「そうだな。……心の底の部分だな。人の心の底は、彫るのが難しい。だが、それでも見えないものを見よう努力しているうちに……ある瞬間、自分の底が映るんだ。それを、彫る。ただひたすらに」
静かな、けれど削るような言葉だった。
(彼はいつも、私に本音を見せてくれる気がする。それなのに……私は?)
エリーズは心にかすかな痛みを覚えながら、制作中の彫像を覗き込んだ。そこにいたのは、微笑みながら泣いている女の子。——エリーズだ。
「……なるほど。深いですね」
エリーズは静かに頷くと、ためらいがちに視線を彫像からレアンドルへと移した。
少しだけ間を置いて、口を開く。
「では次の質問。どうして今は、私の顔を……?」
震える声が出たとき、レアンドルがふっと手を止めた。そしてゆっくりとこちらを向く。髪の隙間から覗いた肌には、赤茶けた傷跡が広がっていた。まるで消えかけた焰が、肌の内側にまだ眠っているかのように、淡く沈んだ光をたたえている。
「火事だった。三年前の冬、アトリエで……。燃えてるのに気づいたのは、もう遅かった。助手が、僕を助けようとして巻き込まれた。……彼女は、僕のせいで亡くなった。君は、彼女に似ているんだ」
(……そんなに大変なことがあったの?)
胸の痛む音がした。レアンドルの目は、ずっと何かを拒んでいた。でもそれは、人を怖れていたのではなく、自分自身を赦せていなかったからだ。
「僕は、自分の顔を見るたびに思う。もし彼女じゃなく、僕が死んでいたらって」
その声は凪のように静かで、だからこそ深く突き刺さった。
「でも……レアンドル」
エリーズは言葉を選ばず、ただ本音を口にした。
「私は、その火傷痕を見ても、あなたの目から目を逸らせない。むしろ、目を逸らせないくらい、真っ直ぐに、痛みを抱えている人なんだって……そう、思います」
(私、彼のことが好きなの?)
彼は驚いたようにエリーズを見た。沈黙が二人の間を流れ、それから——彼は初めて、髪をかき上げた。火傷の跡が晒される。それでもエリーズは目を逸らさなかった。
「……見える?」
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