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2.ふたたびの炎
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館内に焦げた匂いが立ちこめたのは、午後三時を少し回った頃だった。
最初に異変に気づいたのは警備員だったが、非常ベルが鳴ったときには、すでに一部の展示室に煙が広がっていた。避難誘導の放送が流れ、美術館の空気が緊張に染まる中、エリーズはただひとつの方向へ駆けていた。
彫刻室。
あのガラスの奥、彼のアトリエへ。
(レアンドル……! どうしよう、あなたが、死んでしまったら……)
どうして火が出たのかなんて、わからない。
だが、レアンドルとエリーズ、二人の記憶に棲みつく過去の恐怖と、現在が重なる。
(また、誰かが嫌な思いをして……私の居場所も壊されるなんて……絶対にイヤ)
煙の匂いが強まる中、エリーズはガラスの回廊に足を踏み入れた。足元に散った破片が、小さく光る。照明はすでに落ち、非常灯だけが館内を照らしている。
扉の前で、ひと呼吸。
「レアンドル! 中にいるの?」
返事はない。
しかし、エリーズには確信があった。彼はこの部屋を捨てたりしない。
ここは、彼の心そのもので、居場所そのものなのだから。
ドアノブに手をかけると、熱がじんわりと伝わってきた。恐怖が喉を締めつけた。
けれど、迷っている暇はない。
(怖い。でも、……行かなきゃ)
エリーズはハンカチで手を覆い、扉を押し開けた。
すると――。
彫刻室の中は、すでに煙に満たされていた。
焚きつけられた木片や紙、作業台の端から火が上がり、赤い舌のように空気を嘗めている。彫刻の少女が、煙の中で泣いているように見えた。
そしてその向こうに——彼がいた。
レアンドルは、作品を抱くようにして、倒れかけた脚立の前に膝をついていた。
「レアンドル!」
エリーズの叫びに、彼はゆっくり顔を上げた。焦点の合わない目、肩で荒く呼吸している。
「なぜ……来たんだ……逃げろ……っ」
「バカッ……! 逃げてほしかったなら、どうしてここに残ったの! あなたこそ逃げるべきでしょう!」
泣きそうな声だった。焦げ臭い煙が目を刺す。エリーズは駆け寄り、レアンドルの手を掴んだ。
だが彼は動こうとしない。腕の中にある彫刻を、まるで命のように守っている。
「これが、僕の全てなんだ。彫刻がなくなったら、僕を思い出す人など誰もいない。……そうだろう?」
「違う!」
エリーズは思わず叫んでいた。
「違うわ、レアンドル。私があなたを見てる! この目で、仮面も、傷も、ぜんぶ……! だから今は、私と逃げて」
声が震えていた。
そのとき——天井の梁から落ちてきた火の粉が、ふたりの間にぱっと弾ける。ガラスの仕切りが軋み、次の瞬間、パリンと高く割れた。
「きゃあっ!」
破片が飛び散り、ふたりの視線が真正面で交差する。
レアンドルの左頬。火傷の痕が、炎に照らされて浮かび上がる。
「急ぎましょう。私があなたを見ているから。これからは私が、あなたの仮面になってもいいから」
エリーズは真剣な声で言った。
「あなたを見てくれる人がいるって、信じて!」
レアンドルの表情が、ふっと崩れる。彼の瞳が、まっすぐにエリーズを捉えた。
「……僕を見ている? 君が……?」
火の粉が舞う中、彼は立ち上がり、エリーズを抱きしめる。かたい腕のなかに、静かな震えがあった。彫刻ではなく、彼は今、人間を選んだのだ。
「ありがとう……ごめん……」
彼の言葉は、どこか拙く、けれど誠実だった。
(私……やっと、誰かの心の中で〝見られた〟んだ)
エリーズは目を閉じ、彼の胸に額を寄せた。
最初に異変に気づいたのは警備員だったが、非常ベルが鳴ったときには、すでに一部の展示室に煙が広がっていた。避難誘導の放送が流れ、美術館の空気が緊張に染まる中、エリーズはただひとつの方向へ駆けていた。
彫刻室。
あのガラスの奥、彼のアトリエへ。
(レアンドル……! どうしよう、あなたが、死んでしまったら……)
どうして火が出たのかなんて、わからない。
だが、レアンドルとエリーズ、二人の記憶に棲みつく過去の恐怖と、現在が重なる。
(また、誰かが嫌な思いをして……私の居場所も壊されるなんて……絶対にイヤ)
煙の匂いが強まる中、エリーズはガラスの回廊に足を踏み入れた。足元に散った破片が、小さく光る。照明はすでに落ち、非常灯だけが館内を照らしている。
扉の前で、ひと呼吸。
「レアンドル! 中にいるの?」
返事はない。
しかし、エリーズには確信があった。彼はこの部屋を捨てたりしない。
ここは、彼の心そのもので、居場所そのものなのだから。
ドアノブに手をかけると、熱がじんわりと伝わってきた。恐怖が喉を締めつけた。
けれど、迷っている暇はない。
(怖い。でも、……行かなきゃ)
エリーズはハンカチで手を覆い、扉を押し開けた。
すると――。
彫刻室の中は、すでに煙に満たされていた。
焚きつけられた木片や紙、作業台の端から火が上がり、赤い舌のように空気を嘗めている。彫刻の少女が、煙の中で泣いているように見えた。
そしてその向こうに——彼がいた。
レアンドルは、作品を抱くようにして、倒れかけた脚立の前に膝をついていた。
「レアンドル!」
エリーズの叫びに、彼はゆっくり顔を上げた。焦点の合わない目、肩で荒く呼吸している。
「なぜ……来たんだ……逃げろ……っ」
「バカッ……! 逃げてほしかったなら、どうしてここに残ったの! あなたこそ逃げるべきでしょう!」
泣きそうな声だった。焦げ臭い煙が目を刺す。エリーズは駆け寄り、レアンドルの手を掴んだ。
だが彼は動こうとしない。腕の中にある彫刻を、まるで命のように守っている。
「これが、僕の全てなんだ。彫刻がなくなったら、僕を思い出す人など誰もいない。……そうだろう?」
「違う!」
エリーズは思わず叫んでいた。
「違うわ、レアンドル。私があなたを見てる! この目で、仮面も、傷も、ぜんぶ……! だから今は、私と逃げて」
声が震えていた。
そのとき——天井の梁から落ちてきた火の粉が、ふたりの間にぱっと弾ける。ガラスの仕切りが軋み、次の瞬間、パリンと高く割れた。
「きゃあっ!」
破片が飛び散り、ふたりの視線が真正面で交差する。
レアンドルの左頬。火傷の痕が、炎に照らされて浮かび上がる。
「急ぎましょう。私があなたを見ているから。これからは私が、あなたの仮面になってもいいから」
エリーズは真剣な声で言った。
「あなたを見てくれる人がいるって、信じて!」
レアンドルの表情が、ふっと崩れる。彼の瞳が、まっすぐにエリーズを捉えた。
「……僕を見ている? 君が……?」
火の粉が舞う中、彼は立ち上がり、エリーズを抱きしめる。かたい腕のなかに、静かな震えがあった。彫刻ではなく、彼は今、人間を選んだのだ。
「ありがとう……ごめん……」
彼の言葉は、どこか拙く、けれど誠実だった。
(私……やっと、誰かの心の中で〝見られた〟んだ)
エリーズは目を閉じ、彼の胸に額を寄せた。
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