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第1章 剤と罪に濡れし者たち
第25話 剤と罪に濡れし者たち
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某年の夏。一つの重大な事案が世界を震撼させた。正確には、もっと小さな世界だったが。
世界でも名の知られていた国内での高名な医師が警察に対して突然出頭をしてきたのだ。学会でも燦然たる業績の数々で羨望の眼差しを向けられていたその男の出頭に、悪魔や器たちの暴虐になす術もなく形骸化していた日本の警察機構はそれを扱い切れるだけの余力が無く、大いに混乱した。
出頭した医師は、己の罪を警察に自ら洗いざらい全てをぶち撒け、懺悔すると最も過酷な方法での刑罰を懇願した。
その罪状とは、数多もの乳幼児に対する、血液への魔剤の混入。たしかにこれ自体は既に重大な犯罪ではあった。最も、法体系の一切の効力を持たずあらゆる人理により制定されたものが蹂躙される中では犯罪という括りなど意味をなさないものであったのだが。
しかし、この事件はそこで終わりではなかった。
乳幼児に混入していたという魔剤。それはあの悪名高き『ソロモンの鍵』に名を連ねる悪魔達の血液が高濃縮された、致死量を遥かに上回る魔剤だったというのだ。
当然、器や悪魔達に悩まされてきた警察機構は大いに動揺し、そして、それが世間にもたらすであろう衝撃は大混乱を招きかねないとして、この事件は秘密裏に隠蔽されることになった。
『ソロモンの鍵』に名を連ねるような悪魔の体液による魔剤。一体どこでそれらを入手したのかという警察からの尋問に対し、医師は若い頃にバチカンでの学会発表を行なった際に、怪しげな男から脅迫されるような形で半ば強制的に取引関係を結ばされ、その人物から大量のエナジードリンクが悪魔の力を宿す水『魔剤』として送られてきたと語った。
この時代、まだ悪魔の存在は公になっていなかったため、医師は当初大いに不審がったという。
しかし、医者である前に、学者としての好奇心を抑えることができなかった彼は、鼠やモルモットといった様々な実験動物に半信半疑で魔剤を注入。
研究を繰り返す過程で得られたデータにより、悪魔の存在を強く確信していったと語っていた。
時は経ち、情報の出処は不明であるが、いつしかその医師が経営していた産院を兼ねていた総合病院にはやがて、羊である子供に対し、器と変えることのできる技術を保持しているという噂が匿名掲示板であるファウストを中心に流布し、自らの子の将来を憂う多くの母親が殺到した。
当然、この世に生を受けたばかりの乳幼児に、高濃度の、それも『ソロモンの鍵』由来の魔剤の注入は殺人行為に他ならず、この処置が下された乳幼児のほとんどは死亡した。
幾人かの乳幼児は、幸運なことに適合反応を見せ、『ソロモンの鍵』の器へと目覚めたらしいが、彼らのその後は行方不明である。
そしてただ一人、様々な意味で例外的な人間が居た。真西沙良という女性の子である。この女性は例の病院を訪れた母親達の中でも一際狂気的で、最早妄執病の類であり、我が子に対する魔剤の注入を躊躇う私に対して、刃物を取り出して自殺まで仄かした。と医師はひときわ強く、繰り返し語っていた。
その息子は、例外的に魔剤を注入されてもなお息絶えることなく、そしてここが奇妙なのだが... 器としての力に目覚めることもなかったという。
・
・
・
「どうです?」
コンラートの声に応じ、目の前の日記のような形式で書かれた重厚な資料から顔を上げる。
「俺にも...?『ソロモンの鍵』の魔剤が注入されていたと?」
「そうですよ?その様子だと知らなかったみたいですけどねぇ」
陰鬱な室内に、露悪的なアンティーク、邪悪を体現したかのような調度品の数々。背後に鎮座しているものは、鉄の処女との異名を持つ中世の処刑道具であるアイアンメイデンのレプリカだろうか。そしてそれを覆うかのように吊り下げられた神々しいタペストリー。見せびらかすような、赤と金の糸で縦横に織られた華美な壁飾りは、なんとも言えぬ趣味の悪さを放っている。
魔逢塾での事件の後、負傷した俺はコンラートに抱えられて建物を脱出。警察車輌によって剤皇街警察署に輸送され、右腕を始めとした負傷部分に対する治療が施された上で、設置されたコンラートの部屋と思しき室内へと運び込まれたのだった。
そこからは衝撃の連続だった。室内に着くと、コンラートはまず聖典に出てくる聖櫃を模したような、鍵が何重にも掛けられたような厳重な防備が施された機構から、極秘書類と思しき物々しさを放つ所々黄色ばんで劣化した資料の数々を取り出し、俺に読めと命じてきたのだった。
資料に記されていた内容の数々。そのいずれもが凄まじい衝撃を持って俺に襲いかかった。まず、自分が『ソロモンの鍵』由来の魔剤を生まれて間も無くその体に打ち込まれた存在であること。そして、そのような処遇を受けた幼児の98%ほどはそのまま死に至っだという中、俺はこうして生き残っているということ。
どれもこれもが易々と信じられるような類の話ではない。
「あなたはある意味で選ばれていて... 私にとって必要な存在なのです。戦いを見ていて感じました。」
さぞ愉快そうな面持ちでコンラートが話す。
「見ていて...?あんた、俺たちがあの塾長と戦うのを見ていたのか?」
「ええ。あなたのご友人がダンタリオンの職能によって自律を奪われる中、あなたはそれを元の正気に戻しましたよね?」
怒りを込めた俺の疑問に対し、飄々とした様子で反応するコンラートが付け加える。
「それは多分、あなたのその血液のせいでしょうねぇ」
「はぁ?どういうことだよ?」
この男はどこまで俺を弄ぶようなことを言うのか。しかし、コンラートに渡された資料にびっしりと書き込まれた印やペン跡を見ていると、バカバカしいと一蹴することもできない。資料やメモに至るまでの数々から、おぞましいほどの執念が漏れ出ているようだからだ。
故に、喰ってかかるように威勢よく質問する俺の声も、勝手に震えてしまっていた。
羊としてその生を送っていく過程で身につけた、脆く儚い、仮初の獅子としての、虚勢の仮面が音を立てて崩れてゆく。
「あなたの血液、それには悪魔の力を打ち消し、殺す力があるんですよ。ご友人はあなたの右腕を喰らいましたよね?その時体内に取り込まれた血液が運良くダンタリオンの呪いを打ち消したんでしょうねぇ」
あまりにも衝撃的なことをさらりといいのけて見せたコンラート。
「例えそうだとして... なんであんたがそれを知ってる?」
返答と共に、睨めつけられた視線を意にも介さず、コンラートが淡々と喋り続ける。
「私はずっと探していたんですよ。あの手術を施されてなお、死にもせず、そして力にも目覚めることのなかった不思議な存在であるあなたのことをねぇ。 ようやく手がかりを掴んだと思ったら、あなた、母親を殺しているじゃないですか!真西沙良という貴重な証人がもうこの世にはいないと知り、随分気を落としましたよ。」
「そうでもしないと俺が殺されていた。それに、気になるならその資料に載っている医師とやらに聞けばよかったじゃねぇか」
「彼ですか?実は、当時の警察は彼に処罰を下すのを避けたんですよ。彼の望む処刑を下すには理由がいる。ですが、理由を後悔するわけにもいかないですしね。そしたら数日後、彼は自らの病院で首を吊って亡くなっているのが見つかりましてねぇ!!それどころか彼の経営する病院は後日何者かに放火され焼失。その事件に関わった人間はみんな不審死を遂げてしまって残っていないんですよ!!当事者であるあなた以外!!」
さも愉快そうに笑うコンラート。初めてこの男が笑うところを見た気がする。しかし、それは俺に安心感や親近感といった類の感情を一切与えなかった。
それどころか、本来人間としてあまりに不自然なタイミングで面白そうにその顔を綻ばせるコンラートは、更なる不信感を俺に与えた。
「お陰で随分と苦労したんですよ?でも、去年ついに、ついに見つけた。奇跡の子供である、あなたをね」
そのあまりにも真っ直ぐな目線を向けられて、蛇に睨まれた蛙のように悪寒が背筋を伝う。
「それで、はるばる私は剤皇街にやってきたというわけだ!あなたの右上腕に未だはっきりと遺るその傷跡!私は確信しましたよ。あなたこそが、あの真西沙良の奇跡の... ある意味で、呪いの息子であるとね」
興奮したように頬を上気させるコンラート。この男はこれまで見てきたありとあらゆる道を外れた人間や、気が触れた人間よりも理解が及ばない。それこそ、記憶の深淵にこびりついている己の母親に次ぐくらいに。
「それで?俺になんの用があるんだ?俺は神次を連れてかえりたいんだが」
恐怖を取り繕う脆い仮面。あまりに脆く、繊細なそれはコンラートの言葉で次々とヒビを入れられてゆく。しかし、神次を連れて早く帰りたいというのは嘘偽りのない感情であった。
「へぇ。あの人、神次さんっていうんですねぇ。まぁ、どうでもいいですけど。用があるのはあなたですし。正確には、あなたの”中身”ですが」
俺が疑問を挟むよりも素早く、猛禽の如く細められたコンラートの双眸が俺を射抜き、口を開いた。
神次や勇気のことなど、コンラートにとってはどうでもいい存在なのだろう。魔逢塾から脱出するとき、俺の求めにも関わらず、二人を放置して俺だけを抱えてコンラートは出て行った。
「ついてきてください」
剤皇街警察署の殺風景な廊下を歩きに歩き、厳重なセキュリティで防備された鉄壁の装甲をいくつも超えて。
葬列の如き静けさで一言も発することのないコンラートに連れられてきた、短い旅路の終着点。
果たしてたそこは無機質な実験室のような仄暗い部屋であった。
「こ、これは...?」
部屋の両壁に、さながら水族館のように設置された、精密な機構によって制御され数多もの触手の如き管に連結されている、透明で巨大なガラス張りの水槽。
その内部を蠢くブヨブヨとしたピンク色の大小合わせて二つの手や足、髪と思しきありとあらゆる大小様々な人体の機関が出鱈目に生え揃い、奇妙な群生生物のような様子を晒している。
対になるかのように薬品臭いプールを漂う”それ”の表層に付着している数多もの眼球と思しきものと目が合い、咄嗟に上擦った声が出る。
「これを見せたかったんですけどねぇ。これは器が神の恩寵を受けることのできた喜ばしい姿です。恩寵を失った器。最近剤皇街で派手にやらかしていた2個の器を見つけましてね」
俺の反応を面白がるかのようなコンラートのゆっくりとしたその声が、とっさに抱いた最悪の予感の答え合わせとなる。俺の予想に対し、血塗られた紅き文字で丸がつけられていくたびに、脳内を恐怖が染め上げ、思考の逃げ場を潰してゆく。
あれは。元々人間だったのか。そして”アレ”は、やはり本物の眼球だったのか。
もはや人間であったかつての頃を想像させることが不可能なほど、その肉塊は生命に対する冒涜そのもののような悍ましい姿をプールの中で湛えている。
気がつくと、オルゴールを彷彿とさせるような音楽が流れていた。コンラートの手には黒光りする小さな櫃。恐らくこれから音が発せられているのだろう。状況にそぐわない悪趣味極まりない音楽に、流石の俺でも吐き気を催す。
「彼らは恩寵を授かっているのです。これこそが聖典の創造主がお造りになった、美しく正しい命の本来の形なんですよ?」
「俺はそんな神を死んだとしても尊敬できねぇ」
「言いますねぇ。悪魔も神も、実態はほとんど変わらないんですがねぇ。聖典に出てくる神の残忍さ、狡猾さ。あなたもよく知っていると思うのですが。まぁ、とりあえず貴方は”これ”と同じ末路を迎える可能性が十分にある」
忌々しげに吐き捨てた俺の言葉に重ね合わせるように奏でられたコンラートからの死刑宣告。
「俺が、あれと同じになる?説明してくれ!」
もう全身の毛穴という毛穴から冷汗が吹き出している。逃げ出してしまいたいのを懸命に押し殺し、無駄だとわかっていながらも冷静さを装うも、徒労に終わる。
「あなたはあれだけの剤を体に撃たれながらも、一切の力に目覚めることもなければ、死ぬこともなかった。つまりあなたの血液には悪魔による成分を打ち消す力を持っている。そう、あなたは神に祝福された人間なんですよ。神の恩寵を受けた人間はいずれ必ずああなります。最も、ここで蠢いている器に恩寵を与えたのは私ですけど」
コンラートが狩人のように俺を射抜くように見据えて、口を開いた。
「私なら、その運命を変えてやることができる。もちろんタダでとはいいません。せっかくのあなたの力... あなたには、ある器を殺めてほしい」
「なんで自分でやらない?あんたならできるだろうが。それに聖水で事足りるだろ」
絞り出した俺の声は完全に震えていた。
俺の応答は、相変わらずコンラートにとって何一つの影響力も行使しない。その虚しさを連続して浴びせかけられることで、何か言い返すことが無駄であると、克明な恐怖と共に、身に染みて刷り込まれ、学習されてゆく。
「聖水、ねぇ。あれってどこから造られているか知ってます?」
「知らん」
コンラートからの問いを詮索するのは無駄だ。この男は何をいったところで必ず自分の持っていきたい方向にしか話のベクトルを向けないということを、この短い時間で嫌というほど学習させられてきた。
故に、正解はただ一言、短い返事で応答するのみ。
しかしまた、聖水がどこから作られているのかということを知らないのも事実である。
バチカンで作られているらしい という噂を耳に止めたことがある程度だ。
「あれですねぇ。実は子供から作っているのですよ?」
コンラートが浴びせかけるように嬉々として話し続ける。
「幼い羊である子供たちの血液に、高濃度の魔剤を注入するんです。当然、体にとって高濃度の魔剤は猛毒です。必死に体内で魔剤の毒を打ち消そうと、その命を賭して全勢力を振り絞って分泌される体内物質。今度はその子供から血液を一滴残らず抜き取って、その分泌された物質を特殊な機械で分離。得られた貴重なその一雫を更に濃縮して、聖水を作ってるんですよ」
尚もコンラートの悍ましい説明は続く。
「当然、多くの子供たちは発狂したり、そもそも体質により注入してすぐに死んでしまったりで、なかなか聖水を獲得するのは至難の業なんですよねぇ。元々、聖水は悪魔の存在が公にされる前から一部の大富豪やセレブに映画スター、大国のリーダーをはじめとする政界財界の有力者などに秘密裏に、今とは少し異なる目的で使用されていたんですけど」
「クソが。結局羊はどこまでいっても羊だと言うことか...」
「いいじゃないですか。あなたは単なる羊ではないんですから」
忌々しげに吐き捨てる俺などお構いなしにコンラートが突っぱね、話はさらに愉快そうな色調を帯びて続けられてゆく。
「知ってますよね?古代ペルシアの帝王、ローマ帝国の皇帝に、名だたる教皇たち、果てはダヴィンチやナポレオン、最近ですとアメリカ合衆国の処刑された大統領に至るまで。歴史を振り返り、人としての器を超える才や力を持つ者や権力者の背後には常に悪魔の姿があります。勿論... 数十年前に世界有数の大富豪に上り詰めた、あの世界を席巻したエナジードリンク企業の創始者もね」
「あぁ。それは知っている。そいつがこの世界をこんなクソッタレにしたんだろ。」
「ええ。彼は特に悪質でしたよ?今はもう亡き彼は、あのルシフェルの器であったとの逸話さえあります。表向きはエナジードリンク企業でしたが、その実態は国際的な巨大犯罪シンジゲートだった。その首魁たる彼は彼は悪魔の手先と堕ち、エナジードリンクに悪魔の血液を混ぜることで、こちらの世界に現界していることが難しい悪魔の代わりに、選ばれた人間にその力を発現させ、全世界に悪魔による支配を拡大しようと試みたのですから」
コンラートが語る内容に対して俺が頷くと同刻、黒光りする機構より発せられていた爽やかな音楽が止まる。水槽を維持する機械の無機質な音のみが僅かに響き渡る静寂が訪れ、コンラートから発せられる得体の知れない嫌悪感をより一層強いものとしていた。
やがて、静寂を打ち破ったのはコンラートだった。
「ですが、人類は一線を踏み越えてしまった。技術の進歩により子供の血液に魔剤を抽出することで、”聖水”を錬成することが可能になった人間は悪魔から力を受け取って置きながらその代償を払う段階に至り、聖水で悪魔を殺そうと試みた。端的にいいますと、代償の踏み倒しをしようとしたのです」
突然コンラートが部屋の中をグルグルと歩き回り始め、回想に浸るかのように続けた。
「聖水の抽出作業ってのは儲かるんですよ。あれは一種の興行を兼ねていましてね。拷問とも言える凄惨な現場を狂喜して見物しに来る異常性癖者や、通常の道楽では満足できなくなった神をも畏れぬ強欲な大富豪、子供が踠き苦しみ死にゆく様を見て至上の興奮を覚える 小児性愛者など、魑魅魍魎が世界中からショーを見るためにバチカンに集まり、莫大な金を落とすんですよ」
興が乗ってきたとばかりにさらに言葉を続ける。
「悪魔の力を得た有力者たちが、抽出した聖水を使ってその代償を悪魔を殺すことで打ち消そうと試みて、その栄華や名誉を永遠のものとしようとする。そして...」
コンラートの言う、人類が踏み越えてしまったという一線。その朧げなる概念が脳内で像を結び始める。
「その生命と血液を吸い取られ抜け殻となった子供にだって、熱心な 人体蒐集家にその脱殻を法外な値段で買い取られたり、一部の臓器は血液の摘発前に切除され、国際的なテロリスト集団に売却されたりとね。ありとあらゆるものに需要があり、様々な顧客がいる。無駄がないんですよ。勿論その資金は全て”儀式”を執り行う有力者たちの懐に入りますしね。有力者たちは、不遜にもこの世界の何から何まで全てを利用し尽くそうと試みた。我々の先祖が巨象の肉体美をそう扱っていたように!」
無邪気な子供のように楽しそうに笑うコンラートを水槽越しから見つめる、”恩寵”を賜った肉塊の無数の眼球の悉くが狂ったように見開き震えている。
「その結果、どうなった?」
己の中で、平常心といったものが完全にこの神父のような、警官のような値の知れない男に火葬を施され、焼け落ちてゆくのを感じる。
絞り出した俺の声は、自分でも不可思議な事に、随分と冷静なものだった。あまりにも連続する常識の枠組みを超えた出来事の連続を事実として許容するための防衛反応として脳が自らを麻痺させてしまったのだろうか。
「それが、今の世界、このザマですよ。今や皆が 剤と 罪に濡れている。貴方も、私も、例外なくね。この部分は誰でも知っているでしょう?悪魔の存在が公にされたのにはそれが関わっています。名だたる著名人や有力者の逮捕、そして処刑。悪魔に対する背信行為が看過される訳はないですよね?」
いつの間に亡霊のように俺の背後に回り込んでいたコンラートが、獲物である羊を嬲るように耳元で囁く。
「つい興奮して少し話すぎてしまいました。兎に角、今やバチカンで聖水を新たに錬成することは不可能になってしまったということです。そこであなたの血液は器、ひいては悪魔に対して至上の武器となる。要するにあなたには私の手伝い、つまりは私の指定する器を葬ってほしいということです」
走り抜ける悪寒。夥しいほどの悪意。コンラートはなおも続ける。
「『ソロモンの鍵』の器の一人。そして、あなたと同じ病院で生を受け、同室の、あなたの隣の揺籠に揺られていた、右腕にあなたと同じ傷跡を持つ男。彼は今剤皇街にいます。『ソロモンの鍵』の器を、あなたの手で殺し続けること。それがあなたに降りかかった恩寵から逃れる唯一の手段になるんですよ...」
両壁面の水槽から覗く、人倫に対する冒涜を体現したかのような2つの肉塊に浮かぶ無数の眼球が、俺を見つめていたーー
世界でも名の知られていた国内での高名な医師が警察に対して突然出頭をしてきたのだ。学会でも燦然たる業績の数々で羨望の眼差しを向けられていたその男の出頭に、悪魔や器たちの暴虐になす術もなく形骸化していた日本の警察機構はそれを扱い切れるだけの余力が無く、大いに混乱した。
出頭した医師は、己の罪を警察に自ら洗いざらい全てをぶち撒け、懺悔すると最も過酷な方法での刑罰を懇願した。
その罪状とは、数多もの乳幼児に対する、血液への魔剤の混入。たしかにこれ自体は既に重大な犯罪ではあった。最も、法体系の一切の効力を持たずあらゆる人理により制定されたものが蹂躙される中では犯罪という括りなど意味をなさないものであったのだが。
しかし、この事件はそこで終わりではなかった。
乳幼児に混入していたという魔剤。それはあの悪名高き『ソロモンの鍵』に名を連ねる悪魔達の血液が高濃縮された、致死量を遥かに上回る魔剤だったというのだ。
当然、器や悪魔達に悩まされてきた警察機構は大いに動揺し、そして、それが世間にもたらすであろう衝撃は大混乱を招きかねないとして、この事件は秘密裏に隠蔽されることになった。
『ソロモンの鍵』に名を連ねるような悪魔の体液による魔剤。一体どこでそれらを入手したのかという警察からの尋問に対し、医師は若い頃にバチカンでの学会発表を行なった際に、怪しげな男から脅迫されるような形で半ば強制的に取引関係を結ばされ、その人物から大量のエナジードリンクが悪魔の力を宿す水『魔剤』として送られてきたと語った。
この時代、まだ悪魔の存在は公になっていなかったため、医師は当初大いに不審がったという。
しかし、医者である前に、学者としての好奇心を抑えることができなかった彼は、鼠やモルモットといった様々な実験動物に半信半疑で魔剤を注入。
研究を繰り返す過程で得られたデータにより、悪魔の存在を強く確信していったと語っていた。
時は経ち、情報の出処は不明であるが、いつしかその医師が経営していた産院を兼ねていた総合病院にはやがて、羊である子供に対し、器と変えることのできる技術を保持しているという噂が匿名掲示板であるファウストを中心に流布し、自らの子の将来を憂う多くの母親が殺到した。
当然、この世に生を受けたばかりの乳幼児に、高濃度の、それも『ソロモンの鍵』由来の魔剤の注入は殺人行為に他ならず、この処置が下された乳幼児のほとんどは死亡した。
幾人かの乳幼児は、幸運なことに適合反応を見せ、『ソロモンの鍵』の器へと目覚めたらしいが、彼らのその後は行方不明である。
そしてただ一人、様々な意味で例外的な人間が居た。真西沙良という女性の子である。この女性は例の病院を訪れた母親達の中でも一際狂気的で、最早妄執病の類であり、我が子に対する魔剤の注入を躊躇う私に対して、刃物を取り出して自殺まで仄かした。と医師はひときわ強く、繰り返し語っていた。
その息子は、例外的に魔剤を注入されてもなお息絶えることなく、そしてここが奇妙なのだが... 器としての力に目覚めることもなかったという。
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「どうです?」
コンラートの声に応じ、目の前の日記のような形式で書かれた重厚な資料から顔を上げる。
「俺にも...?『ソロモンの鍵』の魔剤が注入されていたと?」
「そうですよ?その様子だと知らなかったみたいですけどねぇ」
陰鬱な室内に、露悪的なアンティーク、邪悪を体現したかのような調度品の数々。背後に鎮座しているものは、鉄の処女との異名を持つ中世の処刑道具であるアイアンメイデンのレプリカだろうか。そしてそれを覆うかのように吊り下げられた神々しいタペストリー。見せびらかすような、赤と金の糸で縦横に織られた華美な壁飾りは、なんとも言えぬ趣味の悪さを放っている。
魔逢塾での事件の後、負傷した俺はコンラートに抱えられて建物を脱出。警察車輌によって剤皇街警察署に輸送され、右腕を始めとした負傷部分に対する治療が施された上で、設置されたコンラートの部屋と思しき室内へと運び込まれたのだった。
そこからは衝撃の連続だった。室内に着くと、コンラートはまず聖典に出てくる聖櫃を模したような、鍵が何重にも掛けられたような厳重な防備が施された機構から、極秘書類と思しき物々しさを放つ所々黄色ばんで劣化した資料の数々を取り出し、俺に読めと命じてきたのだった。
資料に記されていた内容の数々。そのいずれもが凄まじい衝撃を持って俺に襲いかかった。まず、自分が『ソロモンの鍵』由来の魔剤を生まれて間も無くその体に打ち込まれた存在であること。そして、そのような処遇を受けた幼児の98%ほどはそのまま死に至っだという中、俺はこうして生き残っているということ。
どれもこれもが易々と信じられるような類の話ではない。
「あなたはある意味で選ばれていて... 私にとって必要な存在なのです。戦いを見ていて感じました。」
さぞ愉快そうな面持ちでコンラートが話す。
「見ていて...?あんた、俺たちがあの塾長と戦うのを見ていたのか?」
「ええ。あなたのご友人がダンタリオンの職能によって自律を奪われる中、あなたはそれを元の正気に戻しましたよね?」
怒りを込めた俺の疑問に対し、飄々とした様子で反応するコンラートが付け加える。
「それは多分、あなたのその血液のせいでしょうねぇ」
「はぁ?どういうことだよ?」
この男はどこまで俺を弄ぶようなことを言うのか。しかし、コンラートに渡された資料にびっしりと書き込まれた印やペン跡を見ていると、バカバカしいと一蹴することもできない。資料やメモに至るまでの数々から、おぞましいほどの執念が漏れ出ているようだからだ。
故に、喰ってかかるように威勢よく質問する俺の声も、勝手に震えてしまっていた。
羊としてその生を送っていく過程で身につけた、脆く儚い、仮初の獅子としての、虚勢の仮面が音を立てて崩れてゆく。
「あなたの血液、それには悪魔の力を打ち消し、殺す力があるんですよ。ご友人はあなたの右腕を喰らいましたよね?その時体内に取り込まれた血液が運良くダンタリオンの呪いを打ち消したんでしょうねぇ」
あまりにも衝撃的なことをさらりといいのけて見せたコンラート。
「例えそうだとして... なんであんたがそれを知ってる?」
返答と共に、睨めつけられた視線を意にも介さず、コンラートが淡々と喋り続ける。
「私はずっと探していたんですよ。あの手術を施されてなお、死にもせず、そして力にも目覚めることのなかった不思議な存在であるあなたのことをねぇ。 ようやく手がかりを掴んだと思ったら、あなた、母親を殺しているじゃないですか!真西沙良という貴重な証人がもうこの世にはいないと知り、随分気を落としましたよ。」
「そうでもしないと俺が殺されていた。それに、気になるならその資料に載っている医師とやらに聞けばよかったじゃねぇか」
「彼ですか?実は、当時の警察は彼に処罰を下すのを避けたんですよ。彼の望む処刑を下すには理由がいる。ですが、理由を後悔するわけにもいかないですしね。そしたら数日後、彼は自らの病院で首を吊って亡くなっているのが見つかりましてねぇ!!それどころか彼の経営する病院は後日何者かに放火され焼失。その事件に関わった人間はみんな不審死を遂げてしまって残っていないんですよ!!当事者であるあなた以外!!」
さも愉快そうに笑うコンラート。初めてこの男が笑うところを見た気がする。しかし、それは俺に安心感や親近感といった類の感情を一切与えなかった。
それどころか、本来人間としてあまりに不自然なタイミングで面白そうにその顔を綻ばせるコンラートは、更なる不信感を俺に与えた。
「お陰で随分と苦労したんですよ?でも、去年ついに、ついに見つけた。奇跡の子供である、あなたをね」
そのあまりにも真っ直ぐな目線を向けられて、蛇に睨まれた蛙のように悪寒が背筋を伝う。
「それで、はるばる私は剤皇街にやってきたというわけだ!あなたの右上腕に未だはっきりと遺るその傷跡!私は確信しましたよ。あなたこそが、あの真西沙良の奇跡の... ある意味で、呪いの息子であるとね」
興奮したように頬を上気させるコンラート。この男はこれまで見てきたありとあらゆる道を外れた人間や、気が触れた人間よりも理解が及ばない。それこそ、記憶の深淵にこびりついている己の母親に次ぐくらいに。
「それで?俺になんの用があるんだ?俺は神次を連れてかえりたいんだが」
恐怖を取り繕う脆い仮面。あまりに脆く、繊細なそれはコンラートの言葉で次々とヒビを入れられてゆく。しかし、神次を連れて早く帰りたいというのは嘘偽りのない感情であった。
「へぇ。あの人、神次さんっていうんですねぇ。まぁ、どうでもいいですけど。用があるのはあなたですし。正確には、あなたの”中身”ですが」
俺が疑問を挟むよりも素早く、猛禽の如く細められたコンラートの双眸が俺を射抜き、口を開いた。
神次や勇気のことなど、コンラートにとってはどうでもいい存在なのだろう。魔逢塾から脱出するとき、俺の求めにも関わらず、二人を放置して俺だけを抱えてコンラートは出て行った。
「ついてきてください」
剤皇街警察署の殺風景な廊下を歩きに歩き、厳重なセキュリティで防備された鉄壁の装甲をいくつも超えて。
葬列の如き静けさで一言も発することのないコンラートに連れられてきた、短い旅路の終着点。
果たしてたそこは無機質な実験室のような仄暗い部屋であった。
「こ、これは...?」
部屋の両壁に、さながら水族館のように設置された、精密な機構によって制御され数多もの触手の如き管に連結されている、透明で巨大なガラス張りの水槽。
その内部を蠢くブヨブヨとしたピンク色の大小合わせて二つの手や足、髪と思しきありとあらゆる大小様々な人体の機関が出鱈目に生え揃い、奇妙な群生生物のような様子を晒している。
対になるかのように薬品臭いプールを漂う”それ”の表層に付着している数多もの眼球と思しきものと目が合い、咄嗟に上擦った声が出る。
「これを見せたかったんですけどねぇ。これは器が神の恩寵を受けることのできた喜ばしい姿です。恩寵を失った器。最近剤皇街で派手にやらかしていた2個の器を見つけましてね」
俺の反応を面白がるかのようなコンラートのゆっくりとしたその声が、とっさに抱いた最悪の予感の答え合わせとなる。俺の予想に対し、血塗られた紅き文字で丸がつけられていくたびに、脳内を恐怖が染め上げ、思考の逃げ場を潰してゆく。
あれは。元々人間だったのか。そして”アレ”は、やはり本物の眼球だったのか。
もはや人間であったかつての頃を想像させることが不可能なほど、その肉塊は生命に対する冒涜そのもののような悍ましい姿をプールの中で湛えている。
気がつくと、オルゴールを彷彿とさせるような音楽が流れていた。コンラートの手には黒光りする小さな櫃。恐らくこれから音が発せられているのだろう。状況にそぐわない悪趣味極まりない音楽に、流石の俺でも吐き気を催す。
「彼らは恩寵を授かっているのです。これこそが聖典の創造主がお造りになった、美しく正しい命の本来の形なんですよ?」
「俺はそんな神を死んだとしても尊敬できねぇ」
「言いますねぇ。悪魔も神も、実態はほとんど変わらないんですがねぇ。聖典に出てくる神の残忍さ、狡猾さ。あなたもよく知っていると思うのですが。まぁ、とりあえず貴方は”これ”と同じ末路を迎える可能性が十分にある」
忌々しげに吐き捨てた俺の言葉に重ね合わせるように奏でられたコンラートからの死刑宣告。
「俺が、あれと同じになる?説明してくれ!」
もう全身の毛穴という毛穴から冷汗が吹き出している。逃げ出してしまいたいのを懸命に押し殺し、無駄だとわかっていながらも冷静さを装うも、徒労に終わる。
「あなたはあれだけの剤を体に撃たれながらも、一切の力に目覚めることもなければ、死ぬこともなかった。つまりあなたの血液には悪魔による成分を打ち消す力を持っている。そう、あなたは神に祝福された人間なんですよ。神の恩寵を受けた人間はいずれ必ずああなります。最も、ここで蠢いている器に恩寵を与えたのは私ですけど」
コンラートが狩人のように俺を射抜くように見据えて、口を開いた。
「私なら、その運命を変えてやることができる。もちろんタダでとはいいません。せっかくのあなたの力... あなたには、ある器を殺めてほしい」
「なんで自分でやらない?あんたならできるだろうが。それに聖水で事足りるだろ」
絞り出した俺の声は完全に震えていた。
俺の応答は、相変わらずコンラートにとって何一つの影響力も行使しない。その虚しさを連続して浴びせかけられることで、何か言い返すことが無駄であると、克明な恐怖と共に、身に染みて刷り込まれ、学習されてゆく。
「聖水、ねぇ。あれってどこから造られているか知ってます?」
「知らん」
コンラートからの問いを詮索するのは無駄だ。この男は何をいったところで必ず自分の持っていきたい方向にしか話のベクトルを向けないということを、この短い時間で嫌というほど学習させられてきた。
故に、正解はただ一言、短い返事で応答するのみ。
しかしまた、聖水がどこから作られているのかということを知らないのも事実である。
バチカンで作られているらしい という噂を耳に止めたことがある程度だ。
「あれですねぇ。実は子供から作っているのですよ?」
コンラートが浴びせかけるように嬉々として話し続ける。
「幼い羊である子供たちの血液に、高濃度の魔剤を注入するんです。当然、体にとって高濃度の魔剤は猛毒です。必死に体内で魔剤の毒を打ち消そうと、その命を賭して全勢力を振り絞って分泌される体内物質。今度はその子供から血液を一滴残らず抜き取って、その分泌された物質を特殊な機械で分離。得られた貴重なその一雫を更に濃縮して、聖水を作ってるんですよ」
尚もコンラートの悍ましい説明は続く。
「当然、多くの子供たちは発狂したり、そもそも体質により注入してすぐに死んでしまったりで、なかなか聖水を獲得するのは至難の業なんですよねぇ。元々、聖水は悪魔の存在が公にされる前から一部の大富豪やセレブに映画スター、大国のリーダーをはじめとする政界財界の有力者などに秘密裏に、今とは少し異なる目的で使用されていたんですけど」
「クソが。結局羊はどこまでいっても羊だと言うことか...」
「いいじゃないですか。あなたは単なる羊ではないんですから」
忌々しげに吐き捨てる俺などお構いなしにコンラートが突っぱね、話はさらに愉快そうな色調を帯びて続けられてゆく。
「知ってますよね?古代ペルシアの帝王、ローマ帝国の皇帝に、名だたる教皇たち、果てはダヴィンチやナポレオン、最近ですとアメリカ合衆国の処刑された大統領に至るまで。歴史を振り返り、人としての器を超える才や力を持つ者や権力者の背後には常に悪魔の姿があります。勿論... 数十年前に世界有数の大富豪に上り詰めた、あの世界を席巻したエナジードリンク企業の創始者もね」
「あぁ。それは知っている。そいつがこの世界をこんなクソッタレにしたんだろ。」
「ええ。彼は特に悪質でしたよ?今はもう亡き彼は、あのルシフェルの器であったとの逸話さえあります。表向きはエナジードリンク企業でしたが、その実態は国際的な巨大犯罪シンジゲートだった。その首魁たる彼は彼は悪魔の手先と堕ち、エナジードリンクに悪魔の血液を混ぜることで、こちらの世界に現界していることが難しい悪魔の代わりに、選ばれた人間にその力を発現させ、全世界に悪魔による支配を拡大しようと試みたのですから」
コンラートが語る内容に対して俺が頷くと同刻、黒光りする機構より発せられていた爽やかな音楽が止まる。水槽を維持する機械の無機質な音のみが僅かに響き渡る静寂が訪れ、コンラートから発せられる得体の知れない嫌悪感をより一層強いものとしていた。
やがて、静寂を打ち破ったのはコンラートだった。
「ですが、人類は一線を踏み越えてしまった。技術の進歩により子供の血液に魔剤を抽出することで、”聖水”を錬成することが可能になった人間は悪魔から力を受け取って置きながらその代償を払う段階に至り、聖水で悪魔を殺そうと試みた。端的にいいますと、代償の踏み倒しをしようとしたのです」
突然コンラートが部屋の中をグルグルと歩き回り始め、回想に浸るかのように続けた。
「聖水の抽出作業ってのは儲かるんですよ。あれは一種の興行を兼ねていましてね。拷問とも言える凄惨な現場を狂喜して見物しに来る異常性癖者や、通常の道楽では満足できなくなった神をも畏れぬ強欲な大富豪、子供が踠き苦しみ死にゆく様を見て至上の興奮を覚える 小児性愛者など、魑魅魍魎が世界中からショーを見るためにバチカンに集まり、莫大な金を落とすんですよ」
興が乗ってきたとばかりにさらに言葉を続ける。
「悪魔の力を得た有力者たちが、抽出した聖水を使ってその代償を悪魔を殺すことで打ち消そうと試みて、その栄華や名誉を永遠のものとしようとする。そして...」
コンラートの言う、人類が踏み越えてしまったという一線。その朧げなる概念が脳内で像を結び始める。
「その生命と血液を吸い取られ抜け殻となった子供にだって、熱心な 人体蒐集家にその脱殻を法外な値段で買い取られたり、一部の臓器は血液の摘発前に切除され、国際的なテロリスト集団に売却されたりとね。ありとあらゆるものに需要があり、様々な顧客がいる。無駄がないんですよ。勿論その資金は全て”儀式”を執り行う有力者たちの懐に入りますしね。有力者たちは、不遜にもこの世界の何から何まで全てを利用し尽くそうと試みた。我々の先祖が巨象の肉体美をそう扱っていたように!」
無邪気な子供のように楽しそうに笑うコンラートを水槽越しから見つめる、”恩寵”を賜った肉塊の無数の眼球の悉くが狂ったように見開き震えている。
「その結果、どうなった?」
己の中で、平常心といったものが完全にこの神父のような、警官のような値の知れない男に火葬を施され、焼け落ちてゆくのを感じる。
絞り出した俺の声は、自分でも不可思議な事に、随分と冷静なものだった。あまりにも連続する常識の枠組みを超えた出来事の連続を事実として許容するための防衛反応として脳が自らを麻痺させてしまったのだろうか。
「それが、今の世界、このザマですよ。今や皆が 剤と 罪に濡れている。貴方も、私も、例外なくね。この部分は誰でも知っているでしょう?悪魔の存在が公にされたのにはそれが関わっています。名だたる著名人や有力者の逮捕、そして処刑。悪魔に対する背信行為が看過される訳はないですよね?」
いつの間に亡霊のように俺の背後に回り込んでいたコンラートが、獲物である羊を嬲るように耳元で囁く。
「つい興奮して少し話すぎてしまいました。兎に角、今やバチカンで聖水を新たに錬成することは不可能になってしまったということです。そこであなたの血液は器、ひいては悪魔に対して至上の武器となる。要するにあなたには私の手伝い、つまりは私の指定する器を葬ってほしいということです」
走り抜ける悪寒。夥しいほどの悪意。コンラートはなおも続ける。
「『ソロモンの鍵』の器の一人。そして、あなたと同じ病院で生を受け、同室の、あなたの隣の揺籠に揺られていた、右腕にあなたと同じ傷跡を持つ男。彼は今剤皇街にいます。『ソロモンの鍵』の器を、あなたの手で殺し続けること。それがあなたに降りかかった恩寵から逃れる唯一の手段になるんですよ...」
両壁面の水槽から覗く、人倫に対する冒涜を体現したかのような2つの肉塊に浮かぶ無数の眼球が、俺を見つめていたーー
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