†魔剤戦記†

ベネト

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第2章 剤と愛に飢えし者たち

第5話 獣の通過儀礼

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「おい、お前の相手はこの俺だ。
悪いが、俺の”捧げ物”となってもらわなくてはならん」

 情けなく床面に座り込む相手と向かい合う位置に堂々と歩みを進めると、魔沙斗は不敵に笑い、己の右腕、つまりは患部を覆う役割を果たしていた上着を脱ぎ捨てた。

「逃げられるとでも思うか?お前は追い詰められた羊、ソロモン王に徴発される民衆にも等しい」

 己の内に燃えたぎる高揚感と興奮。そして己の心の像を冷やす、これから戦いに挑むものとしての緊張と恐怖。相反する感情で混濁する内面を悟られぬよう、強き語気を孕んだ発言にて虚勢を張る魔沙斗。

 地べたに対し、直に軀をへたり込ませる男。
 即ちその行為はまさしく敗北と恭順の意を表し、眼前に立ち塞がる敵に対してもはやあらゆる類の抵抗を断念したことを意味する。

 故に、魔沙斗の挑発を受けた男は荒野を生きる獣の如きしなやかさで跳ね起きた。

 それは何を示すか。魔沙斗から向けられた殺意に対し、平和的手段で解決することや、その情に訴えることを放棄したという事実。

 器たるもの、安安と自らの劣敗を認めたりはしない。例え十全の力を発揮することが不可能である状況であっても、決して退くことなどない。

 それがこの男の器としての矜持であったのだろう。

 今この瞬間、甘ったるい魔剤の匂いが漂う一角の空気が、一瞬にして変質する。

 さながら粘つく流体と化していた砂糖水が、殺意と敵愾心という熱によって組成を固定されたのような、重苦しい沈黙。

「ちっ... 見逃す気はねぇ様子だな?正味飢えてる今は戦いたくなかったんだけどよぉ?まぁ、どのみちたらふく飲んで魔素の力が回復したらお前たちから報復に殺してやろうとさっき決めたところだし、遅いか早いかだけの違いだ!」

 魔沙斗に助命の意思がないと判断するや、男は先ほどまでの嘆願の体勢から、息つく間もなく戦闘体制へと移行していた。ひったくった鞄を乱暴に床に投げ捨てた男は、嗜虐に満ちた笑みを浮かべて魔沙斗と正面で向かい合う。

 両者は最早沈黙を保つ意味など微塵も感じてはいない。冷え固められた殺意は、今度は軽快に踏み砕かれた。

 交渉が決裂した場合、次に待っているのは容赦のない滅ぼしあいである。

「あんたも飢えてるクチか?こちとら連日乾きっぱなしで力の1割も出やしねぇ。ほら、出してみろよ。魔素を...」

 男は魔沙斗から拳も蹴りも、そして魔素の力を纏った一撃により発せられる衝撃も届かない遠い位置を維持しながら、時折電撃的に牽制打を放つ。それは勿論、目の前に立つ右腕を負傷したこの男が、器であるという前提を無条件のうちに受け入れているが故の判断である。その貌には、先ほどまでの惨めな表情は微塵もなく、眼前に堂々と立ち尽くす、右手を負傷した得体の知れぬ男を試すかのような険しい色が貼り付いていた。

「出さない。いや、出せねぇ。そもそも俺は器じゃない」

「器じゃない?バカいえよ!」

 男の笑みに、嘲りの意だけでなく恐怖が共存しているということは、一見豪放磊落に見える男の声色が僅かに震えていることからも明らかであった。

「ーーーッ!?」
 
 その台詞を終え、呼吸を整ると同時に男が踏み込み、魔沙斗の鳩尾を男の拳、そして激痛が襲った。

 瞬時にして呼吸、そして視界が鈍り、魔沙斗は己の全身から急速に体温が失せてゆくのを感じた。

 次の瞬間には、男は倒れ伏す魔沙斗を睨めつけるように見下していた。

「おいおいマジかよ!?本当に羊じゃねぇか!」

 突如愉快そうにゲラゲラと腰を折って笑い始めた男が、狩った獲物を嬲る獣のように魔沙斗を間髪入れずに蹴り続ける。
 
 先ほどの一撃は、男にとって魔沙斗という得体の知れない存在が放つ言葉が、果たして本当に真実であるのか否かを確かめる判別を兼ねた攻撃であった。

 この男が嘘をついているのならば、それは即ち自らが先に仕掛けてくるのを誘っているのだろう。そう踏んだ男は、後隙の少ない攻撃をまず初めの一手として選択することで、魔沙斗の反応を伺ったのであった。

 それがどうであろうか。挨拶代わりの探りを兼ねた怠慢なる一撃をもろに喰らった魔沙斗は、その顔を痛みに歪め、芋虫のように悶えている。

「おいおい!なぁ!どうして羊のくせに喧嘩売ったんだァ?あぁ?これは天然記念物か?それともどこか頭がイカれちまった羊さんなのか?」

 蟻の巣を破壊する子供の如き無邪気さで、背中を防御するような姿勢で体を丸め込み、臓器の密集する腹部という急所を覆い隠すように蹲る魔沙斗に対して執拗に蹴りを喰らわせる。

 いくら口先だけで魔素の力を保持していないと嘘をついていようとも、実際にその器としての力を剥き出しにした一撃を向けられれば、自ずと条件反射的に器としての権能を解放し、回避行動をとるなり、反撃なりに転ずるだろうと考えていた男にとって、全く鈍重と言っても過言でない速度での反応を見せた魔沙斗は、意味のわからない発言を行う得体の知れない存在から、愚かにも器であるはずの自分への不敵にも戦いを挑む本物の大馬鹿者 という括りにカテゴライズされていた。

「ほら、どうにか言ってみたらどうなんだよ!?あ!?」

 男が浮かべる笑みは、先ほどまでの嘲弄の意と恐怖が入り混じった歪なものではなく、目の前の相手を見下す愉悦のみに染まった、最高に下卑た笑みであった。

「うっ... いってぇ...」

 殺すお楽しみはじっくりと。そんな邪悪な思考が蹴りから伝わってくる。さながらこの蹴りは俺をじわじわと弱らせるために行われる、戯れの嬲りとしての復讐なのだろう。痛みから逃れるため必死でそんなことを考えつつも、魔沙斗はその五感においては冷静に反撃の間隙を窺っていた。

「羊がなんで喧嘩を売ってくるのかな?お前はあの器の腰巾着か?ここ最近魔剤が飲めてないしな。お前を喰って力を取り戻したらあのツレも...」

 男の言葉は、最後まで明確な意味を保つ音であることを許されなかった。油断により生まれた、攻撃の乱れ。最早警戒心を完全に緩めた男の蹴りは、乱雑で、無秩序で、雑然としていた。その間隙を縫い、魔沙斗は被害を抑え込んでいた量の腕で、男の蹴り足にしがみついた。

「なっ...!?」

 軀の均衡を崩したこと、それと思わぬ反抗を喰らった驚きにより男の目がかっと見開く。

「油断したな?」

 魔沙斗はそのままばね仕掛けの玩具のように足を大地に固定し、上体を跳ね起きさせると、そのまま全体重を男の下腹にかけて倒れ込んだ。

「い"っ"でぇ””!畜生!」

 完全に定位置に戻されていなかった蹴り足を捕まれ、魔沙斗の全体重が乗せられた突進でバランスを崩した男は、そのまま勢いよく後頭部をささくれ立ったコンクリートへと衝きたてられた。

「よし!」

 中身が豊満に詰まった果実が潰れるような不快音が響くと同時、魔沙斗は勝利を確信し、流れるような所作で次の反撃のステップへと転じた。

 痛みに悶え、後頭部を床に打ち付けられた男の右耳の付け根を、猛禽が獲物を掻っ攫うが如く横から抉るように渾身の力を込めてちぎり取る。

「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"っ”!!!」

 憤怒の色彩を帯びた濁った悲鳴と共に、男の耳から大量の鮮血が破裂した水道管のように飛び散る。魔素を帯びた血液が男の体から、紫電のような閃光を纏って流出し、周囲の空気が男の溢れんばかりの殺意を孕み、聞くだけで痛覚を刺激するかのような音がピリピリと鳴り響いている。

「殺してやる!!!!!!!」

 男の体内をアドレナリンが駆け巡り、焼けるような痛覚を麻痺させる。自らを喚起するために発せられた男の怒声。それと同時に、最早戯れに嬲り殺すべき玩具から、一切の容赦もなく葬り去るべき対象へと変貌した魔沙斗を見定める... ことは敵わなかった。

 瞬間、男の耳を引きちぎった直後の魔沙斗は仰向けに倒れ伏す男に馬乗りになると、己の両手の中指を、その第二関節部を凶器の如き角度で曲げると共に、狂乱する男の双眸に突き立てたからだ。

「羊が、羊風情が!!!!」

 男の赤黒く澱んだ双眸は、最早赤以外の色をその視界に映すことが能わなくなる。すぐさま魔沙斗は男の両腕の横に固定した脚を跳躍させ、半狂乱と化した男の掴みから感一発で逃れる。

「言っただろう。俺は羊ではないと。」

 言葉とは反して、魔沙斗は羊が持ちうる貧相な資源としての、己の肉体のみしか勝負に用いていない。故に、これは純粋な肉弾戦。弱者として生まれ生きるも、なおその牙を磨き続けてきた魔沙斗の、純粋な格闘能力による勝利であった。

 死に物狂いで男との距離を引き伸ばす。窮地を越えた魔沙斗に、緊急を伝える脳内信号により一時的に忘却へと追いやられていた疲労と鈍痛がぐっと襲いかかる。

 だが、それを男に対して隠すような素振りを見せることは決してない。先ほど浴びせてやった一撃により男の視界は赤に染まり、自分の存在を捉えることはできないだろう。そう踏んだ魔沙斗は、肩で息をし、よろめきながらも、その声だけは巌のような厳粛さを繕った。

 視覚を奪われ、魔沙斗の窮状を知りようもない男はひたすらパニックになり、触手を捥がれた蟲のように、一挙手一投足は無秩序でめちゃくちゃなものと化している。

 やたらめったらと無作法に暴れ回る男に向けて、魔沙斗は準備していた秘蔵の物体をズボンのポケットから取り出した。

 この一投で勝敗を決するーー 

 魔沙斗は汗で滲んだその掌で、その物体を強く、だが、決して割れることはないような力加減で握りしめる。

「くたばりやがれ!!!」

 器を滅する鍵にして、己の限りある生命の象徴。紅 というよりかはむしろ赤黒く変色した己の血液。それが並々と満たされた、掌に収まるほどの小瓶を握りしめると、虚空に向かって当てずっぽうに罵声と暴虐を撒き散らす男に向かって投擲した。

「あ”あ”あ”ッーーーー!熱い、熱い、熱い!!!!クソ!熱い!赤い!紅い!熱い熱い熱い!!!」

 来るべき日のための、”予行練習”を果たすため。

 伏魔殿に戻ってから今日に至るまで、負傷した右腕の包帯を取り替えるのを兼ねて、傷口から血液を小瓶に封じ込めていたのだった。

 己の血液でその身を並々と満たした小瓶は、男に向かって命中すると同時に爆ぜ、陶器が割れるような軽快な音を立てた。

 当然の帰結として、小瓶に閉じ込められていた血液が飛び散り、男の魔素を纏った血液に着弾。忌まわしい化学反応を引き起こした。

すぐさま男の燃えるような絶叫と、文字通り焼け爛れ、燃え始める男から発せられるプスプスという焦音が合わさり、さながら地獄のような惨憺たる多重奏が辺り一帯に鳴り響き始めた。

 「おい... 本当かよ...?」

 この異常な状況を誰よりも飲み込めていないのは、この惨状を招いた他ならぬ張本人である魔沙斗自身であった。今、己の眼前で絶叫と共に焼け爛れゆく男。確かにそれは、これまでの人生で永遠と卑下し続け、劣等感を絶え間なく全身に流し、植え付けてきたあの自分自身の血液による所業であった。

「あつ、あつ!!悪、!魔!!ヤー、マ、Y... H...」

 男の姿形が徐々に溶けゆく氷のようにその容貌を留めなくなり、肉が気化する不快な芳香が鼻腔を擽るのを、魔沙斗はただただ恍惚とした表情で眺めていた。

......プスプス、プスッ...シューー

 男の輪郭が完全に消失し、徐々にその奇声も意味をなさない怪音へと変貌を遂げてゆく。やがて全てが混ざり合い、後には焦げ付くような音を立てる血の赤色と脂肪が溶かされたようなクリーム色が合わさった液体の残滓だけが僅かに残るだけとなった。

 かつて”肉体”であったはずの水溜りが反射する、陽を知らぬ暗澹たる空。

「やった。やった!やってしまったぞ!!俺は、器を打ち倒したぞ!!」

 俄に信じることはできない。小刻みに痙攣し、打ち震える両手で、笑う両の膝をパチンと叩いてみるが、収まるどころかより激しく体の芯から身震いがわき起こる。

 相手が魔剤に飢え、大いに弱体化していた器であること。相手は十全の力を出すことに全く成功していなかったこと。これらを差し置いても、羊として生きてきた魔沙斗にとっての成功体験としてはこれ以上ないほど十分なものであった。

 羊として生を受け、羊としてその生命を生きながらえさせてきた真西魔沙斗という男が感じる、二度目のぞくぞくとする達成感。そのあまりの強烈さに、視界がぐらぐらと揺れるほどであった。

 悪魔が出現する以前、アフリカのとある部族では成人の通過儀礼として、一人で獰猛な獣の狩猟を任されたという。そして、それを成功させて初めて一人前の存在として認められたのだ。

 魔沙斗が感じている血腥い充実感は、まさしくその通過儀礼という名の、命を犠牲にするその利己的な儀式を無事に完遂し、晴れて一人前と認められた少年が抱くような類の恍惚と同一であった。

 しかし、我を忘れて悦びに浸る今の魔沙斗に、かつてのアフリカの通過儀礼における村人や部族長といった、試練の成功を祝い労う人物はおらず、それは専ら自分自身で演じるしかあり得なかった。

 自らに対し、達成の確証を与えるという目的の元、”はじめての狩り”の果を確かめるべく、器であったとはいえ、かつて人間であった存在が遺した水溜りに近づくと共に、赤黒い水面に朧に映しだされる己の貌。

 その瞬間、魔沙斗の背筋を、氷で出来た刃を突き立てられたかのような感覚が襲い、全身が粟立った。

 コンラートの発言が、また一つ真実だと証明されてしまった...

 己の血液に器を殺す力があるということ。自販機前の魔剤で試した時とは異なり、その事実がより克明に感じられ、悦びで打ち震えていた体は徐々に恐怖に震え出した。

 苦しみ、呻きながら現状を理解せずにその生を閉じていった器の男。そして、己を処刑の刻のように待ち受ける”恩寵”を賜る瞬間。そして、殺さなければならぬ強大な器のことを...

 ふと違和感が警鐘を鳴らす。神次の気配が消えていたのはいつ頃からであろうか。気がつくと神次の声を聞くことはおろか、その姿さえ見えていない。

 (あんな目立つ奴を見逃すはずもないのだが... )

 疑惑と恐怖から逃れるかのように首を傾げ、姿の見えない神次を探すために屍が遺した残滓から踵を返した瞬間のことであった。

「いてぇ!!」

 首筋に、ピリッと神経を細針で突き立てられたような鋭い痛みに襲われる。

「この方達を利用すれば...!!アレを倒せるかもしれない...!!」

 歓喜と恐怖に打ち震えた高い声を知覚すると同時、声の主の正体を捕捉しようと照準を絞る魔沙斗の視界はぐにゃりと歪み始め、不意打ちという卑怯な手段を講じた襲撃者と思しき存在の像を結ぶことは敵わなかった。

 歪んだ視界は間も無く渦を巻くように烈しく混濁し、目に入る万物の輪郭がぼやけて始めた。視覚が奪われるのに続き、耳に入る音が不自然に甲高い音として処理される。やがて魂が抜け落ちるかのように全身の感覚が無くなると同時、魔沙斗の意識は朦朧としていった...
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