友達の恋人

文月 青

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新しい年が明けた。引っ越してから殆ど荷物が増えていないせいで、クリスマスはやはり鬼門だと嘆く千賀さんを余所に、荷造りはあっという間に終わった。昨年内に勤務先の近くに急遽ワンルームのアパートを借りておいたので、今日からはそこで初めての一人暮らしをする。

「とうとう行くんだね」

仕事始めの朝、スーツ姿の千賀さんが白い息を吐きながら呟いた。学校が冬休み中なので、周囲はいつもよりも賑わいが無いけれど、透き通る空と冷えた空気がこれからの日々を後押ししてくれる。

「お世話になりました」

結婚するときに家族にした挨拶を、住んで三ヶ月足らずのアパートの前で、夫である人に再び繰り返した。

「ずいぶん、短くなったね」

まるで自分を覆う如く伸ばしていた長い髪は、肩の辺りまでばっさり切り落とした。それまでのしがらみも一緒に消えたのか、身も心も軽くなったような気がする。

「これを受け取って下さい」

私はバッグから一通の白い封筒を取り出し、千賀さんに向かって差し出した。中身を検めた彼の表情がたちまち曇る。

「千賀さんの気持ちを疑っているんじゃありません。ただ縛りたくないだけなんです」

それは私の記名済みの離婚届だった。使って欲しくて用意したわけではなく、私が千賀さんの足枷にならない為の、謂わば決意表明のようなものだ。

「好きな人ができたときには、いつでも提出して下さい」

「悪いけど」

迷う素振りすら見せずに、予想通り千賀さんは封筒ごと一気に引き裂いた。

「こんな紙を使う暇があったら、自分磨きに精を出すよ」

そして握り潰した離婚届で、ぽかりと私の頭を叩く。

「灯里ちゃんを一人にするのが心配だ。俺も同じアパートに引っ越そうかな」

「そんな別居聞いたことがありません」

子供みたいに口を尖らせる千賀さんに、私はおかしくて吹き出してしまった。

クリスマスに別居をすることを決めて以来、私と千賀さんはそれまですれ違っていたのが嘘のように、お互いのことをたくさん話した。高校時代のこと、仕事のこと、

「彩華の友達にはいないタイプだね」

再会した日に素っ気なく言った千賀さんが、本当はうっかり綺麗になったと洩らしそうになったこと、最初のうちは灯里ちゃんと呼ぶ度に心臓が破裂しそうだったこと。

「私だって千賀さんを呼ぶとき、もの凄く緊張しましたよ」

会社の上司を呼ぶときとは比べ物にならないくらい、手に汗握る思いで口にした初めての「千賀さん」は、正直「てんがたん」としか聞こえなかった。まさか本人に向かって呼ぶ日が来るとは夢にも思わなかったのだ。

恥を忍んで打ち明けたら、千賀さんは蕩けるような笑みを浮かべて、至近距離から私の顔を覗き込む。

「君も千賀だろ? 奥さん」

以前のような苛立ちはなく、不意打ちを食らった私の心臓が悲鳴を上げた。

「奥さんとか……。勘違いしそうなのでやめて下さい」

「結婚しているのに変な奴」

体中ポンプ状態の私に、千賀さんは更に笑みを深くした。その笑顔は狡いと内心身悶えたのは内緒だ。

「頼むからそんな可愛い顔、他の男に見せるなよ」

通行人から隠すように、私を自分の腕の中に閉じ込める千賀さん。恥ずかしくてじたばたしながら、実は彼はとてつもなく甘い人なのではと思った。




「朝っぱらから往来で馬鹿やってんじゃねーよ」

うんざりしたようなぼやきと共に届いたのは、声の主に着いてきた複数の足音。慌てて千賀さんの腕の中から抜け出すと、彼の背後には呆れ顔の上原さんと、以前我が家を訪れた彼らの同僚達が立っていた。

「お前らマジでこれから別居すんの? 全く意味ねーだろうが」

ちなみに上原さんと彩華は、これまで通りの暮らしを続けているらしい。いきなり夫婦にはなれなくとも、協力者としての繋がりはあるので、特に不都合もなくやっているというから驚きだ。

彩華は年内に通院を再開し、来年から本格的な治療に入るのだそうだ。そう度々設楽さんの家を訪ねるのは不安もあるので、彩華の経過は上原さんから大和田さんに随時伝えるのだという。

「とりあえず、灯里ちゃんへの餞別」

上原さんの一声に、スーツ姿の男性陣が一斉に私に頭を下げた。冬休みのおかげで子供に目撃されずに済んだが、この光景はさすがに異様だ。

「その節はすみませんでした!」

呆気に取られる私を尻目に、上原さんと千賀さんまでが頭を垂れる。おそらく食事に招いたときのことを謝っているのだろう。

私は自分よりも大柄な男性陣の後頭部を眺めた。彼らの言葉に、態度に、とても傷ついたのは事実だ。けれどそれをきっかけに、千賀さんに自分の想いをぶつけることができた。

「悪いと思うなら、今後は軽はずみな発言は控えて下さいね。間違っても上原さんのようになってはいけません」

「ひでえ。灯里ちゃん、俺のこと嫌いだろ」

「好きではありませんね、当然」

おずおずと面を上げた同僚達が、上原さんをやり込める私に苦笑する。そして一抹の淋しさを見せながらも、千賀さんが優しく私をみつめていた。

「千賀灯里、行きます」

その気持ちに応えるように、私も明るく挨拶をする。

「仕事帰りに偶然会いに行くからね」

それのどこが偶然だと鼻を鳴らす上原さんを、千賀さんはしっしっと手で追い払い、私の耳元に小声で囁く。

「今度は灯里ちゃんに好きだと告白するところから始めるよ」

少女の頃に戻って喜びに胸を震わせながら、私は青空の下新しい一歩を踏み出した。





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