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確かに離婚するわけではないので、私と千賀さんは法律上は夫婦のままだ。けれど実質はそれぞれ別の道を歩むことになる。時にその姿を見かけることはあっても、もう同じ家に帰ることはないし、例えお互いを想っていたとしても、必ずしも元通りになるとは限らない。
「三度目の偶然は俺が作る」
千賀さんの真意が呑み込めず、私はひたすら目を瞬いた。
「もう一度再会するところから始めたい」
引っ越し先はこれから探す予定だが、通勤の利便性を考えると自ずと職場の近くに絞られてくる。お互いの居住地や勤務先を把握していれば、望まなくとも顔を合わせる機会もあろう。でも千賀さんの言っていることは、おそらくそういうことではない。
「俺は灯里ちゃんの好きなものを何一つ知らなかった」
それは私も同じだ。思い出のなかで生きる憧れの人が突然目の前に現れたのだから。
「好きな花、好きな服、好きな本……。結婚しているくせに全く分からない。二人で食事に行くことも、ドライブすらもしたことがない」
「仕方がありません」
これは私を守ろうとした結果。千賀さんが唯一取れる手段だった。
「だから毎日一つずつ、灯里ちゃんに質問してゆくことにした。好きなものも嫌いなものも」
「毎日って……まさかわざわざ会いにくるつもりですか?」
びっくりして声を荒げると、千賀さんは向かい側で当然のように頷いた。
「どれだけ足蹴にされても、デートの誘いに行くよ。変な虫がついても困るし」
「私の話を聞いていましたか?」
この人は別居の意味を理解しているのだろうか。憮然とする私を余所に、千賀さんはゆっくり隣に移動してくる。
「灯里ちゃん、俺は本当は別居なんてしたくない。辛い思いをさせた分まで、俺の手で君を大切にしたい」
表情が苦痛に歪んだ。
「けれどこれを望めば灯里ちゃんを更に苦しめることになる。何もしてあげられなかった不甲斐ない夫だが、せめて負担にはなりたくない」
そこで千賀さんは自分の両の手で、私のそれをぎゅっと握り込んだ。
「灯里ちゃんの気の済むようにしたらいい。俺はどこまでも追いかけるまでだ」
「無茶苦茶です!」
「高校時代からずっと、俺は自分から動くことはなかった。そうして残ったのは後悔だけだ。俺はもう灯里ちゃんを手離したくないんだよ!」
大きくて温かな手から、想いの強さを示す如く熱が流れてくる。
「どれだけ日参しても、私の気持ちが変わらなかったら、お互いに他に好きな人ができることだって!」
自分で吐き出した台詞が、毒のように体中を締めつける。
別居を提案したのは私だ。離婚するのは簡単だが、私達の幸せを願う人々の気持ちを無にすることはできない。ならばいつか二人は夫婦に戻れるのだろうか。
誰かに頼るばかりでなく、自分の足で立てるようになりたいと言った言葉に嘘はない。けれど明確に期限を設けることはできないのなら、これはとても身勝手な申し出だ。私は思いのままに暮らせるかもしれないが、一方の千賀さんはずっと私に縛られる。
ーー千賀さんが私以外の人を好きになったとき、私は本当に彼を自由にしてあげられるのだろうか。
「他に好きな人なんてできる筈がないよ」
片手を離して千賀さんが私の額を突いた。
「だから俺達は現在一緒にいるんじゃないのか」
千賀さんが高校を卒業した後、私が彼の消息を耳にすることはなかった。その姿にも声にも触れることは叶わず、心の中で思い出としてひっそりと息づくだけの存在だった。
けれど記憶は色褪せることはなく、彩華の友達として紹介され、彼女の恋人だったと知らされても、私の気持ちが他の人に向くことは一度としてなかった。
「他の何を奪われても、俺から灯里ちゃんを消すことはできない」
第一、と千賀さんは急に咳払いをする。
「放っておいたら、一人で抱え込んでしまうだろ?」
君のことだから、ぎりぎりまで誰も頼らずに頑張ってしまうだろうから、本当に耐えられなくなったときは、ちゃんと助けを求めて欲しい、と。
「俺を呼んでくれたら嬉しいけど、そこまで贅沢は言わない。前に体調を崩したときのように、俺の知らないところで灯里ちゃんが一人で我慢していたら嫌だから。近くで見ていたいんだよ」
喉の奥がぐっと詰まった。風邪をひいて熱を出した日、家出中の私を会社まで迎えに来てくれたのは千賀さんだった。
「しつこくてごめん。でもやっぱり灯里ちゃんの代わりはいないんだ。君にこの先ずっと共に在って欲しいから、何度断られても諦めない」
俯いて歯を食いしばる私を、千賀さんが優しく抱き寄せた。宝物を扱うように、この世で一番大切なものを慈しむように。
「最初の結婚記念日は、灯里ちゃんの好きなもので埋め尽くしたいな」
一度も一緒に祝うことがなかった、私と千賀さんの始まりの日。振り返ってもきっと辛い思い出ばかりが占めて、やがて時が経てばそれすらも薄まり、二人にはもう何も残らないかもしれない。
「ど、どんどん疎遠になって、離婚予定日に代わるかもしれませんよ?」
「意地悪だぞ」
頭上で嘆く千賀さんに、私は更に意地悪な言葉を吐く。
「千賀さんに好きな人ができたら、そのときはちゃんとお別れしますね」
「冗談でもやめてくれ」
千賀さんの言葉がくぐもり、私の頬に涙が一筋落ちてゆく。
「灯里……」
耳元に低い声が降り、息苦しい程に腕の力が強まった。何度そう呼んで欲しいと、そして呼んで欲しくないと願っただろう。けれど今私の名前を口にするあなたは、溢れる想いを注いでくれている。
「いつか今よりもましな男になれたら、君を幸せにする権利を下さい」
愛しさと感謝を込めて私も力一杯千賀さんにしがみついた。
ーー悠斗。
いつか全てのしがらみを捨てられたとき、あなたの名前を呼べる日がくると信じて。
「三度目の偶然は俺が作る」
千賀さんの真意が呑み込めず、私はひたすら目を瞬いた。
「もう一度再会するところから始めたい」
引っ越し先はこれから探す予定だが、通勤の利便性を考えると自ずと職場の近くに絞られてくる。お互いの居住地や勤務先を把握していれば、望まなくとも顔を合わせる機会もあろう。でも千賀さんの言っていることは、おそらくそういうことではない。
「俺は灯里ちゃんの好きなものを何一つ知らなかった」
それは私も同じだ。思い出のなかで生きる憧れの人が突然目の前に現れたのだから。
「好きな花、好きな服、好きな本……。結婚しているくせに全く分からない。二人で食事に行くことも、ドライブすらもしたことがない」
「仕方がありません」
これは私を守ろうとした結果。千賀さんが唯一取れる手段だった。
「だから毎日一つずつ、灯里ちゃんに質問してゆくことにした。好きなものも嫌いなものも」
「毎日って……まさかわざわざ会いにくるつもりですか?」
びっくりして声を荒げると、千賀さんは向かい側で当然のように頷いた。
「どれだけ足蹴にされても、デートの誘いに行くよ。変な虫がついても困るし」
「私の話を聞いていましたか?」
この人は別居の意味を理解しているのだろうか。憮然とする私を余所に、千賀さんはゆっくり隣に移動してくる。
「灯里ちゃん、俺は本当は別居なんてしたくない。辛い思いをさせた分まで、俺の手で君を大切にしたい」
表情が苦痛に歪んだ。
「けれどこれを望めば灯里ちゃんを更に苦しめることになる。何もしてあげられなかった不甲斐ない夫だが、せめて負担にはなりたくない」
そこで千賀さんは自分の両の手で、私のそれをぎゅっと握り込んだ。
「灯里ちゃんの気の済むようにしたらいい。俺はどこまでも追いかけるまでだ」
「無茶苦茶です!」
「高校時代からずっと、俺は自分から動くことはなかった。そうして残ったのは後悔だけだ。俺はもう灯里ちゃんを手離したくないんだよ!」
大きくて温かな手から、想いの強さを示す如く熱が流れてくる。
「どれだけ日参しても、私の気持ちが変わらなかったら、お互いに他に好きな人ができることだって!」
自分で吐き出した台詞が、毒のように体中を締めつける。
別居を提案したのは私だ。離婚するのは簡単だが、私達の幸せを願う人々の気持ちを無にすることはできない。ならばいつか二人は夫婦に戻れるのだろうか。
誰かに頼るばかりでなく、自分の足で立てるようになりたいと言った言葉に嘘はない。けれど明確に期限を設けることはできないのなら、これはとても身勝手な申し出だ。私は思いのままに暮らせるかもしれないが、一方の千賀さんはずっと私に縛られる。
ーー千賀さんが私以外の人を好きになったとき、私は本当に彼を自由にしてあげられるのだろうか。
「他に好きな人なんてできる筈がないよ」
片手を離して千賀さんが私の額を突いた。
「だから俺達は現在一緒にいるんじゃないのか」
千賀さんが高校を卒業した後、私が彼の消息を耳にすることはなかった。その姿にも声にも触れることは叶わず、心の中で思い出としてひっそりと息づくだけの存在だった。
けれど記憶は色褪せることはなく、彩華の友達として紹介され、彼女の恋人だったと知らされても、私の気持ちが他の人に向くことは一度としてなかった。
「他の何を奪われても、俺から灯里ちゃんを消すことはできない」
第一、と千賀さんは急に咳払いをする。
「放っておいたら、一人で抱え込んでしまうだろ?」
君のことだから、ぎりぎりまで誰も頼らずに頑張ってしまうだろうから、本当に耐えられなくなったときは、ちゃんと助けを求めて欲しい、と。
「俺を呼んでくれたら嬉しいけど、そこまで贅沢は言わない。前に体調を崩したときのように、俺の知らないところで灯里ちゃんが一人で我慢していたら嫌だから。近くで見ていたいんだよ」
喉の奥がぐっと詰まった。風邪をひいて熱を出した日、家出中の私を会社まで迎えに来てくれたのは千賀さんだった。
「しつこくてごめん。でもやっぱり灯里ちゃんの代わりはいないんだ。君にこの先ずっと共に在って欲しいから、何度断られても諦めない」
俯いて歯を食いしばる私を、千賀さんが優しく抱き寄せた。宝物を扱うように、この世で一番大切なものを慈しむように。
「最初の結婚記念日は、灯里ちゃんの好きなもので埋め尽くしたいな」
一度も一緒に祝うことがなかった、私と千賀さんの始まりの日。振り返ってもきっと辛い思い出ばかりが占めて、やがて時が経てばそれすらも薄まり、二人にはもう何も残らないかもしれない。
「ど、どんどん疎遠になって、離婚予定日に代わるかもしれませんよ?」
「意地悪だぞ」
頭上で嘆く千賀さんに、私は更に意地悪な言葉を吐く。
「千賀さんに好きな人ができたら、そのときはちゃんとお別れしますね」
「冗談でもやめてくれ」
千賀さんの言葉がくぐもり、私の頬に涙が一筋落ちてゆく。
「灯里……」
耳元に低い声が降り、息苦しい程に腕の力が強まった。何度そう呼んで欲しいと、そして呼んで欲しくないと願っただろう。けれど今私の名前を口にするあなたは、溢れる想いを注いでくれている。
「いつか今よりもましな男になれたら、君を幸せにする権利を下さい」
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