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リビングには和やかな空気が流れていた。大和田さんの母方の従兄弟だという上原さんを加え、五人で設楽さんが用意してくれた昼食に舌鼓を打った後、狐につままれたような気分で、新たに淹れて頂いた紅茶を飲む。しばらく世間話をしてから、主の大和田さんが口火を切った。
「実は午前中、慶彦が彩華くんを連れてきてね」
湯気の向こうの表情は柔らかい。隣に腰かける設楽さんは少々ぎこちない様子だけれど、ご主人の言葉に頷いている。
「謝りに来てくれたの」
驚いて一人優雅に紅茶を啜る上原さんを凝視した。設楽さんに謝罪するよう言ったのは私だが、翌日に行動を起こすとは思わなかった。
「でもそこに気配を感じただけで、体が震えてしまって……」
膝の上で両手を重ねる設楽さんの肩を、大和田さんがそっと抱き寄せる。
「ドア越しに声を聴くのが精一杯だったの」
私が彩華の友達だと知らされたのだろうか。設楽さんは申し訳なさそうに目を伏せた。
「彩華の方もすみませんでした、と呟いたきり歯の根が噛み合わなくなってな。今日のところはそこまでで限度だった」
上原さんは昨日のうちに事の顛末を大和田さんに伝えたらしい。だから私達の急な来訪も快く受け入れてくれた。
「慶彦とは元々あまりつきあいがなくてね。家内の一件以降、連絡を取り合うようになったんだ。俺の後輩の千賀と友達だというから」
下手に責任を感じさせたくなくて、千賀さんにはあえて黙っていたのだそうだ。
「済まなかったな、千賀」
「いえ、そもそもの発端は自分ですから」
どれだけ厳しい態度を見せても、彩華と上原さんの行動に、誰よりも自分を責めているのは千賀さんだ。おそらく謝られる方が辛いだろう。
「彩華のことは無理して許さなくて結構です」
割って入った私の言葉に、全員の視線がこちらに集中した。
「それだけのことをしたんです。どのような処分も受けるべきですから、望む通りになさって下さい。そこに罪悪感も私への遠慮も必要ありません」
どんな理由があったにせよ、今日まで彩華に責めを負わせなかった人達だ。千賀さんの元の恋人と現在の妻が関わっている時点で、きっと躊躇いが生じてしまう。
「時間も経っていることだし、事情も明らかになった。二度と関わらないでくれたら、他の誰に対しても同じことを繰り返さないでくれたら」
設楽さんの代わりに大和田さんが低く告げる。
「ただ灯里さんの仰る通り、すぐに許すことは無理だが」
穏やかに私をみつめるお二人に、千賀さんと共に深々と頭を下げる以外出来ることがなかった。
「俺はさ」
ふと頭上に楽しげな声が降った。大和田夫妻に促されて顔を上げれば、上原さんがソファに呑気に踏ん反り返っている。
「大和田と設楽さんさえ巻き込まなければ、彩華と千賀がよりを戻しても、お互いを完膚なきまでに嫌いになってもどっちでもよかった」
事の起こりはやはり二年前。設楽さんを支えていた大和田さんが、彼女への想いを自覚したことをきっかけに、決着をつけさせようと考えたのだそうだ。
「彩華のことが、好きだったんじゃないのか?」
静かに訊ねる千賀さんに、上原さんはしばし黙考した。よもや昨日の懺悔めいた告白も、一から十まで全て嘘だというのだろうか。
「ここにいる面々には悪いが、特に嫌いではない。普段はどこにでもいる普通の女だし、あんなんでも一応罪の意識はあるしな」
「罪の意識?」
続けて問う千賀さんに、軽く頷く上原さん。昨日自宅に帰った後、初めて彩華の口から己の本音が洩れたのだそうだ。
「設楽さんを突き落としたとき、自分がやったことに愕然として、とっさにその場から逃げ出した。後から骨にひびが入ったと聞いて、命に別条がなくて安堵したけれど、あのとき彼女の背中を押した感触が今も消えない」
もちろんだからといって、彩華が犯したことは簡単に許されるべきはなく、それは彩華が一生抱えてゆくべきもので、忘れてはいけないもの。
「俺は善人じゃない。彩華の場合は極端だが、人には弱い部分も狡さもあると認めている」
もがき続ける彩華と接しているうちに、彼女が何を望んでいるのか、どんなふうに終わりたいのか、この女の行き着く先を見届けたくなった。
「いい加減白黒つけて欲しかったしな。だから引っ掻き回してやったまでだ」
場を締めたのは結局灯里ちゃんだったが、と上原さんはクッと喉を鳴らしたが、とどのつまり……。
「格好つけたところで、哀れな片想いってやつですね」
「は?」
私が吐き出した台詞に、上原さんが器用に片眉のみ釣り上げた。
「愛する妻は自分の友達が好きなのですから、あなたも報われませんねえ」
大和田さんが危うく紅茶を吹き出しかけ、設楽さんが彼の背中を摩っている。
「私を騙した罰として、友達の恋人を一生奥さんにしていて下さいね」
「あのね、灯里ちゃん。物騒なこと言ってる自覚ある? それより君、人格変わってない?」
「変えたのはどなたです。まあ上原さんはしっかり彩華を捕まえておいて下さい。そうすれば私達は平和な日常を送れますから」
設楽さんと大和田さん、そして千賀さんと私も。
「当然償いも忘れずに。それが友達を謀ったあなたの仕事です」
正直上原さんの真意は掴めない。例え誰かを思いやった上での言動だとしても、明日の朝にはまた全部嘘だと爆笑されるかもしれない。ならば私は自分の信じたいことを信じるしかない。
「女はこえーな、ほんと」
何故か気を良くしたらしい上原さんが、千賀さんに向かって派手に苦笑していた。
「実は午前中、慶彦が彩華くんを連れてきてね」
湯気の向こうの表情は柔らかい。隣に腰かける設楽さんは少々ぎこちない様子だけれど、ご主人の言葉に頷いている。
「謝りに来てくれたの」
驚いて一人優雅に紅茶を啜る上原さんを凝視した。設楽さんに謝罪するよう言ったのは私だが、翌日に行動を起こすとは思わなかった。
「でもそこに気配を感じただけで、体が震えてしまって……」
膝の上で両手を重ねる設楽さんの肩を、大和田さんがそっと抱き寄せる。
「ドア越しに声を聴くのが精一杯だったの」
私が彩華の友達だと知らされたのだろうか。設楽さんは申し訳なさそうに目を伏せた。
「彩華の方もすみませんでした、と呟いたきり歯の根が噛み合わなくなってな。今日のところはそこまでで限度だった」
上原さんは昨日のうちに事の顛末を大和田さんに伝えたらしい。だから私達の急な来訪も快く受け入れてくれた。
「慶彦とは元々あまりつきあいがなくてね。家内の一件以降、連絡を取り合うようになったんだ。俺の後輩の千賀と友達だというから」
下手に責任を感じさせたくなくて、千賀さんにはあえて黙っていたのだそうだ。
「済まなかったな、千賀」
「いえ、そもそもの発端は自分ですから」
どれだけ厳しい態度を見せても、彩華と上原さんの行動に、誰よりも自分を責めているのは千賀さんだ。おそらく謝られる方が辛いだろう。
「彩華のことは無理して許さなくて結構です」
割って入った私の言葉に、全員の視線がこちらに集中した。
「それだけのことをしたんです。どのような処分も受けるべきですから、望む通りになさって下さい。そこに罪悪感も私への遠慮も必要ありません」
どんな理由があったにせよ、今日まで彩華に責めを負わせなかった人達だ。千賀さんの元の恋人と現在の妻が関わっている時点で、きっと躊躇いが生じてしまう。
「時間も経っていることだし、事情も明らかになった。二度と関わらないでくれたら、他の誰に対しても同じことを繰り返さないでくれたら」
設楽さんの代わりに大和田さんが低く告げる。
「ただ灯里さんの仰る通り、すぐに許すことは無理だが」
穏やかに私をみつめるお二人に、千賀さんと共に深々と頭を下げる以外出来ることがなかった。
「俺はさ」
ふと頭上に楽しげな声が降った。大和田夫妻に促されて顔を上げれば、上原さんがソファに呑気に踏ん反り返っている。
「大和田と設楽さんさえ巻き込まなければ、彩華と千賀がよりを戻しても、お互いを完膚なきまでに嫌いになってもどっちでもよかった」
事の起こりはやはり二年前。設楽さんを支えていた大和田さんが、彼女への想いを自覚したことをきっかけに、決着をつけさせようと考えたのだそうだ。
「彩華のことが、好きだったんじゃないのか?」
静かに訊ねる千賀さんに、上原さんはしばし黙考した。よもや昨日の懺悔めいた告白も、一から十まで全て嘘だというのだろうか。
「ここにいる面々には悪いが、特に嫌いではない。普段はどこにでもいる普通の女だし、あんなんでも一応罪の意識はあるしな」
「罪の意識?」
続けて問う千賀さんに、軽く頷く上原さん。昨日自宅に帰った後、初めて彩華の口から己の本音が洩れたのだそうだ。
「設楽さんを突き落としたとき、自分がやったことに愕然として、とっさにその場から逃げ出した。後から骨にひびが入ったと聞いて、命に別条がなくて安堵したけれど、あのとき彼女の背中を押した感触が今も消えない」
もちろんだからといって、彩華が犯したことは簡単に許されるべきはなく、それは彩華が一生抱えてゆくべきもので、忘れてはいけないもの。
「俺は善人じゃない。彩華の場合は極端だが、人には弱い部分も狡さもあると認めている」
もがき続ける彩華と接しているうちに、彼女が何を望んでいるのか、どんなふうに終わりたいのか、この女の行き着く先を見届けたくなった。
「いい加減白黒つけて欲しかったしな。だから引っ掻き回してやったまでだ」
場を締めたのは結局灯里ちゃんだったが、と上原さんはクッと喉を鳴らしたが、とどのつまり……。
「格好つけたところで、哀れな片想いってやつですね」
「は?」
私が吐き出した台詞に、上原さんが器用に片眉のみ釣り上げた。
「愛する妻は自分の友達が好きなのですから、あなたも報われませんねえ」
大和田さんが危うく紅茶を吹き出しかけ、設楽さんが彼の背中を摩っている。
「私を騙した罰として、友達の恋人を一生奥さんにしていて下さいね」
「あのね、灯里ちゃん。物騒なこと言ってる自覚ある? それより君、人格変わってない?」
「変えたのはどなたです。まあ上原さんはしっかり彩華を捕まえておいて下さい。そうすれば私達は平和な日常を送れますから」
設楽さんと大和田さん、そして千賀さんと私も。
「当然償いも忘れずに。それが友達を謀ったあなたの仕事です」
正直上原さんの真意は掴めない。例え誰かを思いやった上での言動だとしても、明日の朝にはまた全部嘘だと爆笑されるかもしれない。ならば私は自分の信じたいことを信じるしかない。
「女はこえーな、ほんと」
何故か気を良くしたらしい上原さんが、千賀さんに向かって派手に苦笑していた。
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