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茂木編 カタツムリの恋
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お店の定休日は水曜日なので、その日に自分の休みが合えば、俺は大抵店長宅で奈央さんと過ごしている。彼女があまり外に出たがらなかったせいもあるが、二人でまったりするのは俺にとっても楽しかったからだ。
だが。今日は奈央さんが俺の部屋にいる。あやめさんの誕生日が近いので、二人でプレゼントを選びに行った帰り、
「晩ご飯、作りにいきましょうか?」
奈央さんの方から言ってくれた。彼女に他意はない。俺はあやめさんのついでだ。分かってはいてもやはり嬉しい。
「お願いします」
妙な含みを感じさせぬよう、いつも通りを心がけながら喜びを表した。
そうして現在。奈央さんはうちの狭いキッチンで、せっせと食事の支度に取りかかっている。その後ろ姿を眺めながら、満たされた気持ちに浸る一方、どう理性を保つか必死に考える俺。
何せ夜なんである。暗いんである。窓もカーテンも開けられないんである。つまり二人きりの密室! ついでにワンルームだから俺の背後にはベッド! お膳立てはできた、ではなくて店長という歯止めがない場所で、もしかして俺は試されているのだろうか?
色即是空空即是色。意味なんて全く解していないのに心中で般若心経を唱える。煩悩よ去れ。
「茂木、いるか」
いい匂いが立ち込めたところで、俺を呼ぶ声と共に部屋のチャイムとノックの音が同時に鳴った。確認するまでもなく、早番勤務を終えた橋本さんである。
「お、いい匂いじゃん。俺も飯まだなんだよな。って、何だ奈央か」
黙ってドアを開けるなり、勝手にずかずか室内に入ってきて、奈央さんが作ったおかずをつまみ食いする橋本さん。俺だってまだ食べてないのに。
「図々しいわね、この鬼畜キューピーが。お金取るわよ」
「けっ。金を取れる代物か、これが」
不機嫌に睨みつける奈央さんを鼻であしらう橋本さんに、俺はこっそりため息をついてドアを施錠した。この二人は最近顔を合わせるといつもこんな感じだ。年齢も同じだし、恋愛感情がないからこそお互い言いたい放題なのだろうが、夫婦漫才のような息の合ったやり取りに、これではお店の常連さんも、橋本さんが恋人だと勘違いしても仕方がないと納得してしまう。
「食べるんだったら手伝いなさいよね。ほら、さっさと運ぶ」
「へぇへぇ」
人使いが荒いと文句を零しつつ、おかずの皿を運ぶ橋本さんの分も含めた、三人分のご飯を当然のようによそう奈央さんに、俺はまるで先輩夫婦の愛の巣に遊びに来た後輩みたいな気分になった。橋本さんが本当に鬼畜に見えてきたぞ。
「ごめんなさい、茂木さん。鬼畜のせいでおかずが少なくなっちゃって」
「こんな不味いもん食してやってんだから、感謝して欲しいくらいだ」
「じゃあ食べるな」
食事中も奈央さんと橋本さんの掛け合いは続いていたけれど、でも実際のところはこれで良かったのかもしれない。お陰で妙な煩悩が吹き飛んだ。俺のような未熟者には、奈央さんと二人っきりで過ごすなんて無理だ。これからは今まで通り店長宅にお邪魔しよう。こうやって考えると店長は神だな。
「ところで橋本さん。何か用があったんじゃ」
美味しかった食事を終えて、コーヒーを飲みながらテレビに視線を向けていた橋本さんに訊ねる。奈央さんはキッチンで食器を洗ってくれていた。手伝うと申し出たら大丈夫と断られたので、男二人は並んでぼさっとしている次第。
「あぁ、お前さ、奈央を送ってくんだろ? 俺ここで待ってるからさ。なるべく早く戻って来れるか?」
奈央さんの方を気にしながら橋本さんは幾分声を潜めた。どうせしないんだろ、と余計な一言も忘れない彼を俺は軽く睨んだ。
「悪りぃな。チャンスを潰して」
「いえ、それに関してはむしろ助かりましたから」
橋本さんの眉間に皺が寄った。
「詳しい事情は知らんが、お前は何でそこまであいつに気を使ってんの? もうつきあってるんだし、あれ以来昔の男も来ねーし、とっととしちまえばいいだろ」
確かに片岡が来なくなったことには安堵している。おそらく店長の一睨みが功を奏したのだろうが、でもそれと奈央さんの気持ちは別問題。
「まぁ、お前らの問題だしな。俺は口を挟む筋合いじゃねーけど。ただ今日会ったんだよ」
珍しく苦虫を噛み潰したような表情の橋本さんに首を傾げる。
「退社してすぐ、営業所の近くで。カタツムリは嫌だって言ってた奴に」
俺は大きく目を見開いた。
「えりかだよ、立花えりか。お前は元気かと図々しく訊いてきやがった」
それは俺を振った前の彼女の名前だった。
だが。今日は奈央さんが俺の部屋にいる。あやめさんの誕生日が近いので、二人でプレゼントを選びに行った帰り、
「晩ご飯、作りにいきましょうか?」
奈央さんの方から言ってくれた。彼女に他意はない。俺はあやめさんのついでだ。分かってはいてもやはり嬉しい。
「お願いします」
妙な含みを感じさせぬよう、いつも通りを心がけながら喜びを表した。
そうして現在。奈央さんはうちの狭いキッチンで、せっせと食事の支度に取りかかっている。その後ろ姿を眺めながら、満たされた気持ちに浸る一方、どう理性を保つか必死に考える俺。
何せ夜なんである。暗いんである。窓もカーテンも開けられないんである。つまり二人きりの密室! ついでにワンルームだから俺の背後にはベッド! お膳立てはできた、ではなくて店長という歯止めがない場所で、もしかして俺は試されているのだろうか?
色即是空空即是色。意味なんて全く解していないのに心中で般若心経を唱える。煩悩よ去れ。
「茂木、いるか」
いい匂いが立ち込めたところで、俺を呼ぶ声と共に部屋のチャイムとノックの音が同時に鳴った。確認するまでもなく、早番勤務を終えた橋本さんである。
「お、いい匂いじゃん。俺も飯まだなんだよな。って、何だ奈央か」
黙ってドアを開けるなり、勝手にずかずか室内に入ってきて、奈央さんが作ったおかずをつまみ食いする橋本さん。俺だってまだ食べてないのに。
「図々しいわね、この鬼畜キューピーが。お金取るわよ」
「けっ。金を取れる代物か、これが」
不機嫌に睨みつける奈央さんを鼻であしらう橋本さんに、俺はこっそりため息をついてドアを施錠した。この二人は最近顔を合わせるといつもこんな感じだ。年齢も同じだし、恋愛感情がないからこそお互い言いたい放題なのだろうが、夫婦漫才のような息の合ったやり取りに、これではお店の常連さんも、橋本さんが恋人だと勘違いしても仕方がないと納得してしまう。
「食べるんだったら手伝いなさいよね。ほら、さっさと運ぶ」
「へぇへぇ」
人使いが荒いと文句を零しつつ、おかずの皿を運ぶ橋本さんの分も含めた、三人分のご飯を当然のようによそう奈央さんに、俺はまるで先輩夫婦の愛の巣に遊びに来た後輩みたいな気分になった。橋本さんが本当に鬼畜に見えてきたぞ。
「ごめんなさい、茂木さん。鬼畜のせいでおかずが少なくなっちゃって」
「こんな不味いもん食してやってんだから、感謝して欲しいくらいだ」
「じゃあ食べるな」
食事中も奈央さんと橋本さんの掛け合いは続いていたけれど、でも実際のところはこれで良かったのかもしれない。お陰で妙な煩悩が吹き飛んだ。俺のような未熟者には、奈央さんと二人っきりで過ごすなんて無理だ。これからは今まで通り店長宅にお邪魔しよう。こうやって考えると店長は神だな。
「ところで橋本さん。何か用があったんじゃ」
美味しかった食事を終えて、コーヒーを飲みながらテレビに視線を向けていた橋本さんに訊ねる。奈央さんはキッチンで食器を洗ってくれていた。手伝うと申し出たら大丈夫と断られたので、男二人は並んでぼさっとしている次第。
「あぁ、お前さ、奈央を送ってくんだろ? 俺ここで待ってるからさ。なるべく早く戻って来れるか?」
奈央さんの方を気にしながら橋本さんは幾分声を潜めた。どうせしないんだろ、と余計な一言も忘れない彼を俺は軽く睨んだ。
「悪りぃな。チャンスを潰して」
「いえ、それに関してはむしろ助かりましたから」
橋本さんの眉間に皺が寄った。
「詳しい事情は知らんが、お前は何でそこまであいつに気を使ってんの? もうつきあってるんだし、あれ以来昔の男も来ねーし、とっととしちまえばいいだろ」
確かに片岡が来なくなったことには安堵している。おそらく店長の一睨みが功を奏したのだろうが、でもそれと奈央さんの気持ちは別問題。
「まぁ、お前らの問題だしな。俺は口を挟む筋合いじゃねーけど。ただ今日会ったんだよ」
珍しく苦虫を噛み潰したような表情の橋本さんに首を傾げる。
「退社してすぐ、営業所の近くで。カタツムリは嫌だって言ってた奴に」
俺は大きく目を見開いた。
「えりかだよ、立花えりか。お前は元気かと図々しく訊いてきやがった」
それは俺を振った前の彼女の名前だった。
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