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日和編
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平和な一週間が終わろうとしていた。私は凩さんの言いつけを守り、きっちり三食ご飯を食べ、下手なりに掃除や洗濯にも臨み、休まずに仕事にも励んだ。もちろん男性に選別される人物は、何人たりともアパートの部屋には入れませんでしたとも。
「浮かない顔だな。おっさんは明日帰ってくんだろうが」
リスト片手に返本する雑誌を棚から抜き取りながら、篠原さんが欠伸を一つ噛み殺した。昨夜も寝たのが遅いから、さすがに眠いなと肩をこきこき鳴らしている。
「そうなんですけど」
手垢の付いた入口のドアをタオルで拭い、私ははーっと嘆息する。窓の外は真っ暗で車通りも少なく、店内にもお客様はいない。
「今度は何だ。そんなに淋しかったのかよ」
淋しいことは淋しいが、凩さんからは出張中も毎日電話があった。不測の事態は起きていないか、戸締りをちゃんと済ませたかと、親並みに口喧しく、つくづく私は子供扱いされていると感じた。実際凩さんからすれば、私は子供でしかないんだけれど。
「実は遅番のこと、話してないんです」
私は今日の夜、急遽遅番のシフトに組み込んでもらった。深夜バイトに欠勤が出たので、店長と一緒に篠原さんが入ると聞き、
「研修のつもりでやってみる?」
試しにと提案してくれた店長に、一も二もなく頷いていた。午後十時から翌五時までの勤務だが、篠原さんが付いてくれるから安心だ。
問題なのは凩さん。毎日あまりにも心配するものだから、一日限りとはいえ、反対していた遅番勤務に入ることを報告しそびれたのだ。
「黙っていれば知りようもねーが、ボケひよとしては隠すのも嫌ってとこか」
苦笑する篠原さんに私は項垂れる。数日前に凩さんの会社やマンションの場所を、どうして教えてくれなかったと詰ったのは自分だ。なのに都合が悪いときだけ隠し事をするのは気が引けるし、バレたときが非常に怖い。
「どっちにしても怒られそうだが、とりあえず今からでもメールしとけ。おっさんがマジになると何をしでかすか分かんねーぞ?」
やけに楽しげな篠原さんに頭を抱えたくなった。大学生でありながら、おっさん、いえ凩さんの心理を理解しているのも謎だ。
「二十歳だろうが三十だろうが、事それに関しては大差ないんじゃねーの」
「だからそれって何を指しているんですか」
ぶーぶー文句を言って、私は先輩の教えの通りにスマホを取り出す。しかし時既に遅かった。
「長閑さん?」
コンビニのドアから現れたのは、出張先にいる筈の凩さんだった。
決して清々しいとは言えない薄暗い朝、私はどんよりしながら篠原さんとコンビニを出た。駐車場には車に寄りかかる凩さんと、
「面白いから俺が呼んでおいた」
篠原さんが連絡したという、早朝からご機嫌な道重さんまでが待っていた。
「遅番は却下した筈ですが」
仕事が一日早く片付き、その足で帰宅したという凩さんは、昨夜通り道のコンビニで私の姿を見つけ、慌てて駆け込んできたらしい。
「これは、あの」
どう答えようか考えあぐねている私に、心底がっかりしたのか大仰に息を吐く。
「いつからですか?」
「今日が初めてです。正式にじゃなくて、お試しというか」
そうですかと私を真っ直ぐにみつめる凩さんは、怒っているような悔しそうな、いつもより表情が僅かに動いているのに、やはりその心は読めなかった。
「如何なる理由があれど、仕事を放棄するわけにはいきません。勤務時間終了後に話を聞かせて頂きます」
そうしてブラックの缶コーヒーを買って静かに出て行った。
「そもそも凩くんは日和ちゃんの何なのよ?」
さすがに声を潜めているけれど、道重さんがもの凄く浮き浮きしているのが一目で分かる。
「道重には関係ないでしょう」
「あら、同僚が私の知人の女の子を拐かそうとしているのに、黙っていられますか」
「……保護者代わりです。人聞きの悪いことを言わないで下さい」
反対に凩さんは押されている。私には太刀打ちできない大人なのに、道重さんとは対等なのだと思ったら、今すぐここから逃げ出したい気持ちに駆られた。
「保護者、ね。じゃあ陰日向に見守って、いい男がいたら手離すんだ?」
「……っ!」
あの凩さんが言葉に詰まっている。
「お嫁に出してあげるのね?」
話の方向がずれている。おそらく凩さんは先日私の両親が訪問した際、何か余計なことを頼まれてしまったに違いない。だから保護者代わりなどと口にしたのだ。私の面倒をみる義務なんてないのに。いい人過ぎるよ、凩さん。
「どうした? ボケひよ」
足に根が生えたように、立ち止まったままの私を、篠原さんが含み笑いを洩らして覗き込んだ。
「やっぱり凩さんは道重さんが好きなのかな」
「は?」
小さく呟いた筈が全員に聞こえたらしい。一斉に注目を浴びた。
「冗談でもやめて、日和ちゃん。こんな据え膳ばかり食ってた男」
「据え膳?」
目を釣り上げて毒づく道重さんに、何のことだろうと問い返すと、凩さんがつかつかと歩み寄ってきた。
「帰りますよ、長閑さん」
がしっと両腕を拘束され、何故か逮捕された気分。
「え? でも、まだ道重さんと話が」
あるんじゃと言いかけて、眼鏡の奥のぎらつきにぞっとして黙った。
「帰るぞ、日和」
ここで抱かれたいか、と耳元で囁かれる。
「はいいーっ!」
目の前で若者仕様に変化され、無抵抗の私は凩さんの車まで連行されていった。この場合の「はい」はどっちの意味になるのだろうと、脳内で現実逃避しながら。
「浮かない顔だな。おっさんは明日帰ってくんだろうが」
リスト片手に返本する雑誌を棚から抜き取りながら、篠原さんが欠伸を一つ噛み殺した。昨夜も寝たのが遅いから、さすがに眠いなと肩をこきこき鳴らしている。
「そうなんですけど」
手垢の付いた入口のドアをタオルで拭い、私ははーっと嘆息する。窓の外は真っ暗で車通りも少なく、店内にもお客様はいない。
「今度は何だ。そんなに淋しかったのかよ」
淋しいことは淋しいが、凩さんからは出張中も毎日電話があった。不測の事態は起きていないか、戸締りをちゃんと済ませたかと、親並みに口喧しく、つくづく私は子供扱いされていると感じた。実際凩さんからすれば、私は子供でしかないんだけれど。
「実は遅番のこと、話してないんです」
私は今日の夜、急遽遅番のシフトに組み込んでもらった。深夜バイトに欠勤が出たので、店長と一緒に篠原さんが入ると聞き、
「研修のつもりでやってみる?」
試しにと提案してくれた店長に、一も二もなく頷いていた。午後十時から翌五時までの勤務だが、篠原さんが付いてくれるから安心だ。
問題なのは凩さん。毎日あまりにも心配するものだから、一日限りとはいえ、反対していた遅番勤務に入ることを報告しそびれたのだ。
「黙っていれば知りようもねーが、ボケひよとしては隠すのも嫌ってとこか」
苦笑する篠原さんに私は項垂れる。数日前に凩さんの会社やマンションの場所を、どうして教えてくれなかったと詰ったのは自分だ。なのに都合が悪いときだけ隠し事をするのは気が引けるし、バレたときが非常に怖い。
「どっちにしても怒られそうだが、とりあえず今からでもメールしとけ。おっさんがマジになると何をしでかすか分かんねーぞ?」
やけに楽しげな篠原さんに頭を抱えたくなった。大学生でありながら、おっさん、いえ凩さんの心理を理解しているのも謎だ。
「二十歳だろうが三十だろうが、事それに関しては大差ないんじゃねーの」
「だからそれって何を指しているんですか」
ぶーぶー文句を言って、私は先輩の教えの通りにスマホを取り出す。しかし時既に遅かった。
「長閑さん?」
コンビニのドアから現れたのは、出張先にいる筈の凩さんだった。
決して清々しいとは言えない薄暗い朝、私はどんよりしながら篠原さんとコンビニを出た。駐車場には車に寄りかかる凩さんと、
「面白いから俺が呼んでおいた」
篠原さんが連絡したという、早朝からご機嫌な道重さんまでが待っていた。
「遅番は却下した筈ですが」
仕事が一日早く片付き、その足で帰宅したという凩さんは、昨夜通り道のコンビニで私の姿を見つけ、慌てて駆け込んできたらしい。
「これは、あの」
どう答えようか考えあぐねている私に、心底がっかりしたのか大仰に息を吐く。
「いつからですか?」
「今日が初めてです。正式にじゃなくて、お試しというか」
そうですかと私を真っ直ぐにみつめる凩さんは、怒っているような悔しそうな、いつもより表情が僅かに動いているのに、やはりその心は読めなかった。
「如何なる理由があれど、仕事を放棄するわけにはいきません。勤務時間終了後に話を聞かせて頂きます」
そうしてブラックの缶コーヒーを買って静かに出て行った。
「そもそも凩くんは日和ちゃんの何なのよ?」
さすがに声を潜めているけれど、道重さんがもの凄く浮き浮きしているのが一目で分かる。
「道重には関係ないでしょう」
「あら、同僚が私の知人の女の子を拐かそうとしているのに、黙っていられますか」
「……保護者代わりです。人聞きの悪いことを言わないで下さい」
反対に凩さんは押されている。私には太刀打ちできない大人なのに、道重さんとは対等なのだと思ったら、今すぐここから逃げ出したい気持ちに駆られた。
「保護者、ね。じゃあ陰日向に見守って、いい男がいたら手離すんだ?」
「……っ!」
あの凩さんが言葉に詰まっている。
「お嫁に出してあげるのね?」
話の方向がずれている。おそらく凩さんは先日私の両親が訪問した際、何か余計なことを頼まれてしまったに違いない。だから保護者代わりなどと口にしたのだ。私の面倒をみる義務なんてないのに。いい人過ぎるよ、凩さん。
「どうした? ボケひよ」
足に根が生えたように、立ち止まったままの私を、篠原さんが含み笑いを洩らして覗き込んだ。
「やっぱり凩さんは道重さんが好きなのかな」
「は?」
小さく呟いた筈が全員に聞こえたらしい。一斉に注目を浴びた。
「冗談でもやめて、日和ちゃん。こんな据え膳ばかり食ってた男」
「据え膳?」
目を釣り上げて毒づく道重さんに、何のことだろうと問い返すと、凩さんがつかつかと歩み寄ってきた。
「帰りますよ、長閑さん」
がしっと両腕を拘束され、何故か逮捕された気分。
「え? でも、まだ道重さんと話が」
あるんじゃと言いかけて、眼鏡の奥のぎらつきにぞっとして黙った。
「帰るぞ、日和」
ここで抱かれたいか、と耳元で囁かれる。
「はいいーっ!」
目の前で若者仕様に変化され、無抵抗の私は凩さんの車まで連行されていった。この場合の「はい」はどっちの意味になるのだろうと、脳内で現実逃避しながら。
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