1 / 53
本編
1
しおりを挟む
人の集まりに参加すると必ず訊ねられることが決まって一つだけある。普段思い出しもしないくらいだから、私自身は全く気にしていないのに、周囲は不思議で仕方がないらしい。下手に適当な理由を繕うと逆に面倒な事態になるので、私はいつもにっこり笑ってこう答える。
「頂いてないんです」
嘘ではない。結婚して一年。私の左手の薬指はずっと空っぽ。
「今日は遅くなります」
目の前でうどんを啜っている和成さんが、テレビのニュースから私に視線を移して言った。彼の朝食は必ずうどんだ。パンではすぐにお腹が空くし、白米では食べるのに時間がかかる。とりあえず飲み込みやすい(?)うどんが忙しい朝には最適だと、独身時代から続いている習慣。ただし同じ麺類でも蕎麦やラーメンでは駄目らしい。
「分かりました」
しっかりご飯を食べないと力が出ない私は、梅干しのおにぎりにかぶりつきながら頷く。和成さんはそんな食いしん坊の私に心持ち目を細めた。いかにもといった感じではなく、自然に浮かんだような優しげな表情に、私の口元も綻んでしまう。
一緒に食事をしているだけなのに、ほのぼのと穏やかな時間が流れる。そこに愛してるぞーなんて熱い想いはなくても、居心地のいいこの生活が私は結構気に入っている。和成さんも同じだったら更に嬉しい。
「では希さん、行ってきます」
「行ってらっしゃい、和成さん」
朝食を終えて出勤する和成さんを玄関で見送った後、こっそりベランダでスーツ姿の彼を再び確認する。少し背中が寂しそう。そういえば来週新しい上司が移動してくると、微妙な表情で洩らしていたから、そのせいで憂鬱なのかもしれない。
頑張れ和成さん。心の中で秘かに声援を送っていたら、ごみを出しに外に出てきたご近所さんと目が合った。完全ににやけている。私は軽く会釈をしてから慌てて室内に引っ込んだ。きっと傍目には仲睦まじく見えているんだろうな。それを想像すると何だかおかしくて笑ってしまう。
夫の佐伯和成とは昨年の春、彼が二十八歳、私が二十四歳のときに結婚した。勤務先が同じ電機メーカーだったので、誰もがよくある社内恋愛を経ての結婚だと信じて疑わないけれど、実は真逆でこっそり愛を育んだ期間は存在しない。
もともと営業部でそこそこやり手という噂の和成さんと、総務部で地味に日々の実務をこなしていた私には殆ど接点がなく、正確には私が一方的に和成さんの顔を知っているだけの、挨拶すらろくに交わしたことがない間柄だったのだから当然だ。
そんな二人が結びつくきっかけになったのが、和成さんが携えていた婚約指輪。といっても私に贈るための物ではなくて、当時彼が心を寄せていた女性に準備していた大切な物。その相手が誰でどんな経緯があったのかは知らないけれど、プロポーズしようと覚悟を決めた日、和成さんはその女性から他の人と結婚する事実を告げられてしまう。
それがまた雨が降った七夕の夜だというのだから救われない。あまりにも想定外の話に呆然となり、食事をして別れた後はどこをどうやって歩いてきたものか、普段使わない駅のホームにぼんやり突っ立っていたらしい。
黄色い線の内側にいたとはいえ、手の中にある小さな包みを凝視したまま微動だにしない男。しかも傘を持っているのにびしょ濡れ。
その姿を最寄り駅で見かけた残業帰りの私は、すわ不審者かと遠巻きに様子を窺っていたのだけれど、やがて営業の佐伯さんだと気づいた。ここにいることはもちろん、あまりの不穏な空気に驚きつつ恐る恐る近づいていくと、全く周囲に注意を向けていないと思っていた彼が、勢いよく振り返って私の腕を掴んだ。
「誰?」
開口一番誰何された自分の影の薄さについ吹き出してしまった。和成さんは一瞬ぽかんとしたけれどすぐに我に返り、私が名乗る前に掴んでいた腕を離して深く頭を下げた。
「すみません。知り合いと間違えて」
たぶんそうだろうなと思った。逃がさないと言わんばかりの気迫と、垣間見えた明らかに落胆した表情。もしかしたらずっと知り合いとやらを待っていたのかもしれない。
「こちらこそすみません。具合でも悪いのかと」
勝手に結論付けた私は、同じ会社の人間に見られたとあってはバツが悪いだろうと、他人の振りでやり過ごすことにした。そのせいで逆に気が緩んだのか和成さんは泣き笑いの顔で口を開いた。
「一つ頼み事をしてもよろしいでしょうか」
いきなり足止めを食って首を傾げる私に、和成さんはそっと右手を差し出した。
「捨ててほしいんです」
自分ではどうしても踏ん切りがつかないので、と設置されているごみ箱に視線を移す。
「分別できないと怒られてしまうかなぁ」
うっかり包みを受け取った私が、それがどれだけの意味を持つ物で、相手に贈る前に不用品となった事実を悟ったときには、和成さんの姿は既に駅のホームから消えていた。
私は自分の迂闊さを悔やんだ。おそらく和成さんは不用意に近づいた私を、咄嗟に相手の女性だと思ったに違いない。要らぬ期待をさせて更に傷を抉ってしまった挙句、こんな大切な物を預かってしかも捨てるなんて到底できない。
例え忘れてしまいたい物だとしてもこれは返さなくては。その一心で私は翌日から和成さんとの接触を図った。同じ会社の中とはいえ、外回りや出張でなかなか和成さんは捕まらず、
「分別できませんでした」
私の言葉を訝しんでいた彼の目が、突っ返した包みを見た途端大きく開かれたのは、七夕から二週間後のことだった。
「頂いてないんです」
嘘ではない。結婚して一年。私の左手の薬指はずっと空っぽ。
「今日は遅くなります」
目の前でうどんを啜っている和成さんが、テレビのニュースから私に視線を移して言った。彼の朝食は必ずうどんだ。パンではすぐにお腹が空くし、白米では食べるのに時間がかかる。とりあえず飲み込みやすい(?)うどんが忙しい朝には最適だと、独身時代から続いている習慣。ただし同じ麺類でも蕎麦やラーメンでは駄目らしい。
「分かりました」
しっかりご飯を食べないと力が出ない私は、梅干しのおにぎりにかぶりつきながら頷く。和成さんはそんな食いしん坊の私に心持ち目を細めた。いかにもといった感じではなく、自然に浮かんだような優しげな表情に、私の口元も綻んでしまう。
一緒に食事をしているだけなのに、ほのぼのと穏やかな時間が流れる。そこに愛してるぞーなんて熱い想いはなくても、居心地のいいこの生活が私は結構気に入っている。和成さんも同じだったら更に嬉しい。
「では希さん、行ってきます」
「行ってらっしゃい、和成さん」
朝食を終えて出勤する和成さんを玄関で見送った後、こっそりベランダでスーツ姿の彼を再び確認する。少し背中が寂しそう。そういえば来週新しい上司が移動してくると、微妙な表情で洩らしていたから、そのせいで憂鬱なのかもしれない。
頑張れ和成さん。心の中で秘かに声援を送っていたら、ごみを出しに外に出てきたご近所さんと目が合った。完全ににやけている。私は軽く会釈をしてから慌てて室内に引っ込んだ。きっと傍目には仲睦まじく見えているんだろうな。それを想像すると何だかおかしくて笑ってしまう。
夫の佐伯和成とは昨年の春、彼が二十八歳、私が二十四歳のときに結婚した。勤務先が同じ電機メーカーだったので、誰もがよくある社内恋愛を経ての結婚だと信じて疑わないけれど、実は真逆でこっそり愛を育んだ期間は存在しない。
もともと営業部でそこそこやり手という噂の和成さんと、総務部で地味に日々の実務をこなしていた私には殆ど接点がなく、正確には私が一方的に和成さんの顔を知っているだけの、挨拶すらろくに交わしたことがない間柄だったのだから当然だ。
そんな二人が結びつくきっかけになったのが、和成さんが携えていた婚約指輪。といっても私に贈るための物ではなくて、当時彼が心を寄せていた女性に準備していた大切な物。その相手が誰でどんな経緯があったのかは知らないけれど、プロポーズしようと覚悟を決めた日、和成さんはその女性から他の人と結婚する事実を告げられてしまう。
それがまた雨が降った七夕の夜だというのだから救われない。あまりにも想定外の話に呆然となり、食事をして別れた後はどこをどうやって歩いてきたものか、普段使わない駅のホームにぼんやり突っ立っていたらしい。
黄色い線の内側にいたとはいえ、手の中にある小さな包みを凝視したまま微動だにしない男。しかも傘を持っているのにびしょ濡れ。
その姿を最寄り駅で見かけた残業帰りの私は、すわ不審者かと遠巻きに様子を窺っていたのだけれど、やがて営業の佐伯さんだと気づいた。ここにいることはもちろん、あまりの不穏な空気に驚きつつ恐る恐る近づいていくと、全く周囲に注意を向けていないと思っていた彼が、勢いよく振り返って私の腕を掴んだ。
「誰?」
開口一番誰何された自分の影の薄さについ吹き出してしまった。和成さんは一瞬ぽかんとしたけれどすぐに我に返り、私が名乗る前に掴んでいた腕を離して深く頭を下げた。
「すみません。知り合いと間違えて」
たぶんそうだろうなと思った。逃がさないと言わんばかりの気迫と、垣間見えた明らかに落胆した表情。もしかしたらずっと知り合いとやらを待っていたのかもしれない。
「こちらこそすみません。具合でも悪いのかと」
勝手に結論付けた私は、同じ会社の人間に見られたとあってはバツが悪いだろうと、他人の振りでやり過ごすことにした。そのせいで逆に気が緩んだのか和成さんは泣き笑いの顔で口を開いた。
「一つ頼み事をしてもよろしいでしょうか」
いきなり足止めを食って首を傾げる私に、和成さんはそっと右手を差し出した。
「捨ててほしいんです」
自分ではどうしても踏ん切りがつかないので、と設置されているごみ箱に視線を移す。
「分別できないと怒られてしまうかなぁ」
うっかり包みを受け取った私が、それがどれだけの意味を持つ物で、相手に贈る前に不用品となった事実を悟ったときには、和成さんの姿は既に駅のホームから消えていた。
私は自分の迂闊さを悔やんだ。おそらく和成さんは不用意に近づいた私を、咄嗟に相手の女性だと思ったに違いない。要らぬ期待をさせて更に傷を抉ってしまった挙句、こんな大切な物を預かってしかも捨てるなんて到底できない。
例え忘れてしまいたい物だとしてもこれは返さなくては。その一心で私は翌日から和成さんとの接触を図った。同じ会社の中とはいえ、外回りや出張でなかなか和成さんは捕まらず、
「分別できませんでした」
私の言葉を訝しんでいた彼の目が、突っ返した包みを見た途端大きく開かれたのは、七夕から二週間後のことだった。
0
あなたにおすすめの小説
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
今さらやり直しは出来ません
mock
恋愛
3年付き合った斉藤翔平からプロポーズを受けれるかもと心弾ませた小泉彩だったが、当日仕事でどうしても行けないと断りのメールが入り意気消沈してしまう。
落胆しつつ帰る道中、送り主である彼が見知らぬ女性と歩く姿を目撃し、いてもたってもいられず後を追うと二人はさっきまで自身が待っていたホテルへと入っていく。
そんなある日、夢に出てきた高木健人との再会を果たした彩の運命は少しずつ変わっていき……
二度目の初恋は、穏やかな伯爵と
柴田はつみ
恋愛
交通事故に遭い、気がつけば18歳のアランと出会う前の自分に戻っていた伯爵令嬢リーシャン。
冷酷で傲慢な伯爵アランとの不和な結婚生活を経験した彼女は、今度こそ彼とは関わらないと固く誓う。しかし運命のいたずらか、リーシャンは再びアランと出会ってしまう。
もう何も信じられない
ミカン♬
恋愛
ウェンディは同じ学年の恋人がいる。彼は伯爵令息のエドアルト。1年生の時に学園の図書室で出会って二人は友達になり、仲を育んで恋人に発展し今は卒業後の婚約を待っていた。
ウェンディは平民なのでエドアルトの家からは反対されていたが、卒業して互いに気持ちが変わらなければ婚約を認めると約束されたのだ。
その彼が他の令嬢に恋をしてしまったようだ。彼女はソーニア様。ウェンディよりも遥かに可憐で天使のような男爵令嬢。
「すまないけど、今だけ自由にさせてくれないか」
あんなに愛を囁いてくれたのに、もう彼の全てが信じられなくなった。
報われなかった姫君に、弔いの白い薔薇の花束を
さくたろう
恋愛
その国の王妃を決める舞踏会に招かれたロザリー・ベルトレードは、自分が当時の王子、そうして現王アルフォンスの婚約者であり、不遇の死を遂げた姫オフィーリアであったという前世を思い出す。
少しずつ蘇るオフィーリアの記憶に翻弄されながらも、17年前から今世まで続く因縁に、ロザリーは絡め取られていく。一方でアルフォンスもロザリーの存在から目が離せなくなり、やがて二人は再び惹かれ合うようになるが――。
20話です。小説家になろう様でも公開中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる