空っぽの薬指

文月 青

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本編

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人の集まりに参加すると必ず訊ねられることが決まって一つだけある。普段思い出しもしないくらいだから、私自身は全く気にしていないのに、周囲は不思議で仕方がないらしい。下手に適当な理由を繕うと逆に面倒な事態になるので、私はいつもにっこり笑ってこう答える。

「頂いてないんです」

嘘ではない。結婚して一年。私の左手の薬指はずっと空っぽ。



「今日は遅くなります」

目の前でうどんを啜っている和成かずなりさんが、テレビのニュースから私に視線を移して言った。彼の朝食は必ずうどんだ。パンではすぐにお腹が空くし、白米では食べるのに時間がかかる。とりあえず飲み込みやすい(?)うどんが忙しい朝には最適だと、独身時代から続いている習慣。ただし同じ麺類でも蕎麦やラーメンでは駄目らしい。

「分かりました」

しっかりご飯を食べないと力が出ない私は、梅干しのおにぎりにかぶりつきながら頷く。和成さんはそんな食いしん坊の私に心持ち目を細めた。いかにもといった感じではなく、自然に浮かんだような優しげな表情に、私の口元も綻んでしまう。

一緒に食事をしているだけなのに、ほのぼのと穏やかな時間が流れる。そこに愛してるぞーなんて熱い想いはなくても、居心地のいいこの生活が私は結構気に入っている。和成さんも同じだったら更に嬉しい。

「ではのぞみさん、行ってきます」

「行ってらっしゃい、和成さん」

朝食を終えて出勤する和成さんを玄関で見送った後、こっそりベランダでスーツ姿の彼を再び確認する。少し背中が寂しそう。そういえば来週新しい上司が移動してくると、微妙な表情で洩らしていたから、そのせいで憂鬱なのかもしれない。

頑張れ和成さん。心の中で秘かに声援を送っていたら、ごみを出しに外に出てきたご近所さんと目が合った。完全ににやけている。私は軽く会釈をしてから慌てて室内に引っ込んだ。きっと傍目には仲睦まじく見えているんだろうな。それを想像すると何だかおかしくて笑ってしまう。

夫の佐伯和成さえきかずなりとは昨年の春、彼が二十八歳、私が二十四歳のときに結婚した。勤務先が同じ電機メーカーだったので、誰もがよくある社内恋愛を経ての結婚だと信じて疑わないけれど、実は真逆でこっそり愛を育んだ期間は存在しない。

もともと営業部でそこそこやり手という噂の和成さんと、総務部で地味に日々の実務をこなしていた私には殆ど接点がなく、正確には私が一方的に和成さんの顔を知っているだけの、挨拶すらろくに交わしたことがない間柄だったのだから当然だ。

そんな二人が結びつくきっかけになったのが、和成さんが携えていた婚約指輪。といっても私に贈るための物ではなくて、当時彼が心を寄せていた女性に準備していた大切な物。その相手が誰でどんな経緯があったのかは知らないけれど、プロポーズしようと覚悟を決めた日、和成さんはその女性から他の人と結婚する事実を告げられてしまう。

それがまた雨が降った七夕の夜だというのだから救われない。あまりにも想定外の話に呆然となり、食事をして別れた後はどこをどうやって歩いてきたものか、普段使わない駅のホームにぼんやり突っ立っていたらしい。

黄色い線の内側にいたとはいえ、手の中にある小さな包みを凝視したまま微動だにしない男。しかも傘を持っているのにびしょ濡れ。

その姿を最寄り駅で見かけた残業帰りの私は、すわ不審者かと遠巻きに様子を窺っていたのだけれど、やがて営業の佐伯さんだと気づいた。ここにいることはもちろん、あまりの不穏な空気に驚きつつ恐る恐る近づいていくと、全く周囲に注意を向けていないと思っていた彼が、勢いよく振り返って私の腕を掴んだ。

「誰?」

開口一番誰何された自分の影の薄さについ吹き出してしまった。和成さんは一瞬ぽかんとしたけれどすぐに我に返り、私が名乗る前に掴んでいた腕を離して深く頭を下げた。

「すみません。知り合いと間違えて」

たぶんそうだろうなと思った。逃がさないと言わんばかりの気迫と、垣間見えた明らかに落胆した表情。もしかしたらずっと知り合いとやらを待っていたのかもしれない。

「こちらこそすみません。具合でも悪いのかと」

勝手に結論付けた私は、同じ会社の人間に見られたとあってはバツが悪いだろうと、他人の振りでやり過ごすことにした。そのせいで逆に気が緩んだのか和成さんは泣き笑いの顔で口を開いた。

「一つ頼み事をしてもよろしいでしょうか」

いきなり足止めを食って首を傾げる私に、和成さんはそっと右手を差し出した。

「捨ててほしいんです」

自分ではどうしても踏ん切りがつかないので、と設置されているごみ箱に視線を移す。

「分別できないと怒られてしまうかなぁ」

うっかり包みを受け取った私が、それがどれだけの意味を持つ物で、相手に贈る前に不用品となった事実を悟ったときには、和成さんの姿は既に駅のホームから消えていた。

私は自分の迂闊さを悔やんだ。おそらく和成さんは不用意に近づいた私を、咄嗟に相手の女性だと思ったに違いない。要らぬ期待をさせて更に傷を抉ってしまった挙句、こんな大切な物を預かってしかも捨てるなんて到底できない。

例え忘れてしまいたい物だとしてもこれは返さなくては。その一心で私は翌日から和成さんとの接触を図った。同じ会社の中とはいえ、外回りや出張でなかなか和成さんは捕まらず、

「分別できませんでした」

私の言葉を訝しんでいた彼の目が、突っ返した包みを見た途端大きく開かれたのは、七夕から二週間後のことだった。





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