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本編
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ダイニングテーブルに向かい合ったものの、和成さんはどう話を切り出そうか悩んでいる様子だった。お風呂上がりで濡れた髪の先から雫が落ちても気づかずに、じっとテーブルの一点を睨んでいる。よほど言いにくいことらしい。私は横の椅子に置いた自分のバッグに視線を移す。果たして吉と出るのか凶と出るのか。
「まず最初に謝ります」
やがて和成さんは決心がついたのかすっと頭を下げた。いつも思うけれどこの人のお辞儀は丁寧だ。形だけではないと伝わってくる。
「理由はどうあれ、主任と二人で食事をしてきました」
飲み会というのは主任さんがついた嘘で、初めから和成さんだけを食事に誘っていたのだそうだ。しかも連れていかれたお店は、和成さんがプロポーズしようとしてできなかった、主任さんと最後に食事をした思い出の場所。
「そこで、もう一度やり直したいと言われました」
和成さんはまるで反応を窺うように、真っすぐに私をみつめていた。黙って次を促す私に彼も表情を変えない。この後どんな展開が待っているのか分からないけれど、和成さんの答えはもう出ているような気がした。
「俺が既婚者だというのは問題じゃなくて、自分を想う気持ちがあるのかどうかを知りたいと」
慣れない職場での重責やすれ違いから、主任さんの結婚生活は一年足らずで破綻したという。つきあっていた当時、あまりにも自分に従順な和成さんを物足りなく感じ、他の人との結婚を選んでしまったけれど、実際は仕事でもプライベートでもどれだけ自分を支えてくれていたのか、陰に徹して自分の負担にならないようにしてくれていたのか、一人になって初めて痛感したのだそうだ。
和成さんが結婚したのは風の便りで知っていたし、邪魔をするつもりもなかったけれど、彼自身が全く幸せには見えないことと、噂で聞く妻の私があまりにお粗末なので、仕事のパートナーでいるだけでは我慢ができなくなったらしい。
私がお粗末なのは否定しない。でも和成さんはそんなに不幸そうに見えているのだろうか。
「和成さんはどうなのですか?」
一番肝心なことから訊ねてみる。周囲が何を騒ごうと大切なのは和成さんの気持ちだ。
「そう…ですね」
しばし間を置いてからしっかりした口調で語り出す。
「正直なところ、主任が大変だったことを知らずに幸せに浸っていた自分には、少々後ろめたさを感じました。それと、自分にもっと押しの強さがあったら、主任に不幸な結婚をさせずに済んだのかな、とも」
正直すぎますよ、和成さん。さすがに鈍い私にもそれは結構堪えます。今の言葉とその落ち着き払った態度で、和成さんの本音を察した私は、横のバッグから白い封筒を取り出した。
「これを和成さんに委ねます」
今日届きましたと差し出し、瞠目する和成さんが中を検めようとするのを手で制した。
「帰ってくるときは晴れていましたか?」
「え? はい」
私の唐突な質問に首を傾げつつも和成さんは律儀に頷く。既に日付は変わってしまったけれど、一年に一度離れ離れになった二人が会える日。
「よかったですね」
まだ何か話したそうな和成さんを残して私はダイニングを後にした。寝室のベッドに潜り込んでぎゅっと膝を抱える。今更あなたが大好きですと告げたところで、きっと和成さんは困るだけなのでしょうね。
その夜、和成さんは寝室を訪れなかった。
引っ越しするまでもなく、例の白い手紙はもう届かなくなった。もしかして離婚するまで続くのかな、毎回役所に用紙を貰いに行ったら、窓口の人に怪しまれないのかな、なんてぼんやり考えていたけれど全て杞憂に終わったようだ。和成さんがあの用紙を使うことに納得したかどうかはさておき、主任さんと何らかの話はついたのだろう。
ちなみに「佐伯さんの奥さんはお馬鹿」説は、本当に社内の一部には存在していたそうで、
「佐伯さんのファンの娘達がやっかみ半分で、適当にでっち上げていたらしいわよ。もっとも今度は自分達を差し置いて、営業の主任が横入りしたと騒いでるけどね。そもそも全員おかしいっつーの」
真子先輩は馬鹿につける薬はないとめちゃくちゃ怒っていた。
「どうして希ちゃんは離婚届を渡したんだよ? 佐伯は佐伯で主任の結婚にいらない責任を感じているしさ。上手くいってる二人が揉めるっておかしいだろ」
一方の島津さんも理解に苦しむと苛々をため込んでいる。
「もしも別れることになったら、から揚げ十個で俺が希ちゃんを貰ってやろう」
でも気を使ってくれたのか冗談を飛ばしてくれたので、私もそのときはお願いしますとだけ言っておいた。
もっとも不思議なことに私と和成さんの生活にはこれといった変化はなかった。七夕の夜でこそ和成さんは書斎で一晩明かしたけれど、翌日からは何事もなかったように一緒に朝食を食べ、その日あった出来事を報告しあい、同じベッドで眠っている。
良いのか悪いのかちゃんと仲よくもするので、主任さんへの裏切り行為にならないのかなと不安を問えば、和成さんは優しく私を抱き締める。
「こんなときに他の女性の名前なんか出さないで下さい」
その答えが予想外に嬉しくて、だからこそ終わりが近づいているような気がして。それが最善策と信じていたとはいえ、以前最後の晩餐は何がいいかと訊ねたのは私だったのに、いずれ自分が逆の立場になると考えると、ちょっと、ううんもの凄く淋しかった。
「まず最初に謝ります」
やがて和成さんは決心がついたのかすっと頭を下げた。いつも思うけれどこの人のお辞儀は丁寧だ。形だけではないと伝わってくる。
「理由はどうあれ、主任と二人で食事をしてきました」
飲み会というのは主任さんがついた嘘で、初めから和成さんだけを食事に誘っていたのだそうだ。しかも連れていかれたお店は、和成さんがプロポーズしようとしてできなかった、主任さんと最後に食事をした思い出の場所。
「そこで、もう一度やり直したいと言われました」
和成さんはまるで反応を窺うように、真っすぐに私をみつめていた。黙って次を促す私に彼も表情を変えない。この後どんな展開が待っているのか分からないけれど、和成さんの答えはもう出ているような気がした。
「俺が既婚者だというのは問題じゃなくて、自分を想う気持ちがあるのかどうかを知りたいと」
慣れない職場での重責やすれ違いから、主任さんの結婚生活は一年足らずで破綻したという。つきあっていた当時、あまりにも自分に従順な和成さんを物足りなく感じ、他の人との結婚を選んでしまったけれど、実際は仕事でもプライベートでもどれだけ自分を支えてくれていたのか、陰に徹して自分の負担にならないようにしてくれていたのか、一人になって初めて痛感したのだそうだ。
和成さんが結婚したのは風の便りで知っていたし、邪魔をするつもりもなかったけれど、彼自身が全く幸せには見えないことと、噂で聞く妻の私があまりにお粗末なので、仕事のパートナーでいるだけでは我慢ができなくなったらしい。
私がお粗末なのは否定しない。でも和成さんはそんなに不幸そうに見えているのだろうか。
「和成さんはどうなのですか?」
一番肝心なことから訊ねてみる。周囲が何を騒ごうと大切なのは和成さんの気持ちだ。
「そう…ですね」
しばし間を置いてからしっかりした口調で語り出す。
「正直なところ、主任が大変だったことを知らずに幸せに浸っていた自分には、少々後ろめたさを感じました。それと、自分にもっと押しの強さがあったら、主任に不幸な結婚をさせずに済んだのかな、とも」
正直すぎますよ、和成さん。さすがに鈍い私にもそれは結構堪えます。今の言葉とその落ち着き払った態度で、和成さんの本音を察した私は、横のバッグから白い封筒を取り出した。
「これを和成さんに委ねます」
今日届きましたと差し出し、瞠目する和成さんが中を検めようとするのを手で制した。
「帰ってくるときは晴れていましたか?」
「え? はい」
私の唐突な質問に首を傾げつつも和成さんは律儀に頷く。既に日付は変わってしまったけれど、一年に一度離れ離れになった二人が会える日。
「よかったですね」
まだ何か話したそうな和成さんを残して私はダイニングを後にした。寝室のベッドに潜り込んでぎゅっと膝を抱える。今更あなたが大好きですと告げたところで、きっと和成さんは困るだけなのでしょうね。
その夜、和成さんは寝室を訪れなかった。
引っ越しするまでもなく、例の白い手紙はもう届かなくなった。もしかして離婚するまで続くのかな、毎回役所に用紙を貰いに行ったら、窓口の人に怪しまれないのかな、なんてぼんやり考えていたけれど全て杞憂に終わったようだ。和成さんがあの用紙を使うことに納得したかどうかはさておき、主任さんと何らかの話はついたのだろう。
ちなみに「佐伯さんの奥さんはお馬鹿」説は、本当に社内の一部には存在していたそうで、
「佐伯さんのファンの娘達がやっかみ半分で、適当にでっち上げていたらしいわよ。もっとも今度は自分達を差し置いて、営業の主任が横入りしたと騒いでるけどね。そもそも全員おかしいっつーの」
真子先輩は馬鹿につける薬はないとめちゃくちゃ怒っていた。
「どうして希ちゃんは離婚届を渡したんだよ? 佐伯は佐伯で主任の結婚にいらない責任を感じているしさ。上手くいってる二人が揉めるっておかしいだろ」
一方の島津さんも理解に苦しむと苛々をため込んでいる。
「もしも別れることになったら、から揚げ十個で俺が希ちゃんを貰ってやろう」
でも気を使ってくれたのか冗談を飛ばしてくれたので、私もそのときはお願いしますとだけ言っておいた。
もっとも不思議なことに私と和成さんの生活にはこれといった変化はなかった。七夕の夜でこそ和成さんは書斎で一晩明かしたけれど、翌日からは何事もなかったように一緒に朝食を食べ、その日あった出来事を報告しあい、同じベッドで眠っている。
良いのか悪いのかちゃんと仲よくもするので、主任さんへの裏切り行為にならないのかなと不安を問えば、和成さんは優しく私を抱き締める。
「こんなときに他の女性の名前なんか出さないで下さい」
その答えが予想外に嬉しくて、だからこそ終わりが近づいているような気がして。それが最善策と信じていたとはいえ、以前最後の晩餐は何がいいかと訊ねたのは私だったのに、いずれ自分が逆の立場になると考えると、ちょっと、ううんもの凄く淋しかった。
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