空っぽの薬指

文月 青

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本編

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この場合私は何と答えるべきなのだろう。どういたしましてや恐れ入りますでは、わざわざお世話をしてあげている感が満載だし、ありがとうございますではちぐはぐだ。

「こちらこそ、お世話になっておりま…す?」

しばし黙り込んでいたら、主任さんの眉間に皺が寄り始めたので、私はとりあえず考えついたことを口走ったのだけれど。やはり場にそぐわなかったらしい。主任さんはふっと唇の端を釣り上げた。

「聞きしに勝るお馬鹿さんね」

そんなに私は馬鹿として世間に認知されているのだろうか。彼女は首を傾げる私に、わざとらしく肩をすくめて見せる。

「これじゃ和成が気の毒だわ」

「私も和成さんは自分には勿体ない人だと思います」

本当にそう思っているからこそ、素直に頷いたのに、真子先輩はいきなり私の頭を小突いた。痛いですと呟けば、すかさず睨み返される。

「自覚はあるのね」

主任さんはふんと鼻を鳴らした。

「私が手取り足取り育てた和成は、お世辞じゃなく優秀な人材よ。くれぐれも足を引っ張らないよう気をつけて、新庄さん」

それから、と今にも噛みつきそうだった真子先輩に向き直る。

「そろそろ午後の勤務が始まる時間よ。さっさと持ち場に戻りなさい。総務はそれほど暇なの?」

直属の部下でもない先輩にいきなり厳しく言いつけると、身を翻して社屋に入っていった。さすが仕事のできる女。相手に口を挟む隙を与えない。

「性悪。何が手取り足取りよ。一体どこの足なんだか」

真子先輩は憎々しげに吐き、今度は私の額を指で突いた。

「あんたも貶されているのに、同意するんじゃないの」

「でも嘘じゃありませんしね」

お馬鹿という指摘はさておき、和成さんが私には過ぎた人で、仕事も優秀で、そう導いたのが主任さんなのは、紛れもない事実。張り合っても仕方がないし、張り合う理由もない。

「呑気なんだから。それにしても、佐伯さんはつくづく女の趣味が悪いわね」

遅れたらあの女の思うつぼだからと、先輩は業務開始に間に合うよう急ぎ足で去ってゆく。

だから真子先輩、その女の中に私は含まれるんてすか?

肝心の答えを貰えないまま、私は雨雲を避けるように家路に着いた。



その日和成さんはずいぶん遅くに帰宅した。夕食の支度に取りかかろうとしたとき、営業の人達で飲むことになったとメールがあったので、遅いのは問題ないのだけれど。

ネクタイを緩めながらお風呂に向かう和成さん。その疲れた背中を見ながら、二時間ほど前の島津さんとのやり取りを思い出す。

真子先輩から昼間の主任さんとの絡みを知らされた島津さんは、和成さんにすぐ電話をしたらしいのだが、打ち合わせ中なのかずっと連絡が取れず、メールの返信もない。そこで心配して私に確認の電話をくれたのだ。

「俺は何も聞いてない」

しかも飲み会の話も寝耳に水で、島津さんも残業していた数人も、そんな誘いは全く受けていない、と。

「主任の態度も問題だが…。ごりまこが怒ってたけど、離婚届が直接投函されたって?」

深刻な場面で申し訳ないけれど、私は「ごりまこ」の一言がツボに入り、うっかり笑ってしまった。

「希ちゃん! ふざけてどうするの!」

「ごめんなさい」

島津さんにきつく注意されて、しょんぼり謝る私。

「佐伯には?」

「まだ何も伝えていません」

しばし無言を貫いた後、島津さんは改まって私に問う。

「今回の件、希ちゃんは本当はどう解釈してる?」

「いろいろごちゃごちゃしてますが」

前置きをしてからきっぱり告げる。

「できれば和成さんが好きだった人のことを、悪く言いたくないだけなんです」

綺麗で仕事ができて和成さんの信頼も厚い。そんな人が私に某かの感情を抱き、通常では考えられないような言動を取っているなんて、彼が一番信じたくない筈だ。

「やっぱり勘づいてたか」

分かっていて、気づいていない振りをしていたんだな。深いため息と共に洩らす島津さん。

いえいえ。私がぽやっとしているのは周知の事実。たださすがに初めて言葉を交わした人から、

「新庄さん」

旧姓で呼ばれたらさすがにおかしいと疑う。それに左手の薬指が空っぽだったのは、私だけじゃない。あの人の薬指も和成さんからの指輪をきっと待っている。

「参ったね。離婚騒動のときも思ったけど、希ちゃんは強いよね」

電話の向こうで、島津さんが悟ったようにしみじみと語る。

「か弱い乙女のつもりなんですけどねぇ」

最後にちょっとだけ苦笑いする私達。島津さんはとにかく和成さんと連絡を取り続けると言って電話を切った。その後どうなったのかは分からない。

「希さん」

お風呂から上がった和成さんが、キッチンでぼけっと突っ立っている私に声をかけた。何とも例えようもない複雑な表情をしている。

「遅い時間ですが、話をしてもいいですか?」

私はいつものようににっこりと頷いた。


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