空っぽの薬指

文月 青

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本編

19

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もう大丈夫だといくら言っても、ちゃんと自分でしっかり立ち上がって見せても、和成さんは私の肩を抱いたまま離れようとしなかった。真子先輩と島津さんは呆れているし、主任さんは険しい表情を崩さないしで、私としてかなりご免被りたい状況なのに、和成さんは全く収まりをつける気がないらしい。

「本当に体調が悪いわけではないんですね?」

会社の関係者の前でまるで子供のように叱られる私。いつも思うけれど和成さんは本当に私のことを信用していない。

「貧血だってよ」

何度目かの大丈夫を口にしようとしたら、島津さんから横槍が入る。その悪戯っぽい目つきから面白がっているのが分かる。わざと和成さんを煽りましたね?

「いつからですか?」

案の定眉を吊り上げる和成さん。頭から角が生えかけているのが見えるようだ。

「ついさっきです」

渋々病院帰りだと説明すると、和成さんは慌てて家の鍵をドアに差し込んだ。

「こんな所で立ち話をしている場合じゃないでしょう! 早く休んで下さい」

その一言に真っ先に反応したのは主任さんだった。蚊帳の外に置かれて痺れを切らしたのだろう。すっと歩み寄ってドアノブを握る和成さんの手を押さえる。

「和成」

和成さんしか映っていない双眸には、微かな苛立ちが浮かんでいる。

「何を考えているの?」

腑に落ちない様子の主任さんに冷静さを取り戻したのか、和成さんは一旦私から離れて足元に散らばる二つの封筒を拾い上げた。そういえばどんな決着の元、主任さんは私を訪ねてきたのだろう。

「わざわざ離婚届を持ってきたんですか?」

いつもより幾分冷たい声音で和成さんが訊ねた。両方の封筒を確認してから静かに主任さんに突き返す。

「こんな物ではどうにもできなかったでしょう? 希さんは」

訝し気な視線を自分に向ける主任さんに、和成さんは鞄の中から何かを取り出して渡した。目の前で広げられたのは最近見慣れた白い紙。でもそれは同じように和成さんの署名捺印がされてあったけれど、驚くことに婚姻届の方だった。

「つまりこういうことです」

一瞬嬉しそうに眦を下げた主任さんを余所に、和成さんは改めて私に向き直った。

「どれだけ離婚届を書かされても、同じ数だけ婚姻届を書き続けます。あなたを幸せにするためなら、俺は何度だってプロポーズしますよ、希さん」

寝耳に水の話に私は目を瞬く。離婚届と婚姻届けを書き続けるというくだりも、何故そんなことになっているのかもちろん気になるけれど、それ以上に一際大きく私の心に響いたのは。

「和成さんは、幸せにしたいんですか? 私を」

「当たり前でしょう。何を今更」

その刹那主任さんが婚姻届をびりびりと破いた。真っ青になった顔を引きつらせ、わなわなと両手を震わせる。まずいのではと思ったときには既に遅く、いきなり私の頬に衝撃が走った。

「いったぁ」

容赦ない平手打ちを受け、半ば前屈みの状態で零した私に一気に注目が集まる。

「希…さん?」

主任さんの怒りが炸裂して赤くなった頬に触れつつも、和成さんは怪訝な表情で私をみつめている。それもその筈、叩かれるのを予測していながら、私が両腕で庇っていたのは自分のお腹だ。おかげで無防備だった頬はじりじりと痛みを増してくる。

「大丈夫です。さっき言ったじゃないですか。お腹が空きすぎて気持ちが悪いだけです」

安心させるためにへらっと笑うと、和成さんは不安そうに眉根を寄せた。

「目を覚ましなさい、和成。こんなおかしな人と一緒にいて、何があなたのプラスになるの」

伊達に偉いわけではない。すぐに我に返った主任さんは感情を抑えて和成さんを諭す。床には粉々になった婚姻届の屑。後で掃除しないとご近所さんに悪いなぁと考えていたら、読まれてしまったのか主任さんの視線がちくちく刺さってきた。

「この先の仕事や人生が大事なら、誰と共にいるのがベストか自ずと答えは出ているでしょう」

ほぼ断定した口調ではあるけれど、和成さんと主任さんの間での決着はまだ着いていなかったようだ。しかも迷っているのは和成さん。彼のことだからおそらく主任さんへの後悔と私への責任で板挟みになっているのだろう。

「引導を渡してあげるのも仕事の一つと捉えなさい」

下手な同情は確かに却って堪えるかもしれない。それならすぱっと切り捨ててもらう方が私もいい。和成さんは幸せにしたいと言ってくれた。彼は私に嘘はつかない。その言葉に偽りがないならもう充分だ。

「貧血って、つまり、そういうことなの? 希」

ところが意外なところに伏兵がいた。真子先輩は主任さんも和成さんも眼中にないのか、恐る恐る近づいてくるなり、お腹を庇ったままの私の手にそっと自分の手を重ね、不自然にごくりと喉を鳴らした。

「ごりまこ? 希ちゃん?」

島津さんが不思議そうに私達の顔を交互に見比べる。やがて和成さんの「まさか」という低い呟きが頭上に降りた。

「そうなのね?」

真子先輩のはにかんだような優しい笑みに、私は観念して首を縦に振ったのだった。





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