空っぽの薬指

文月 青

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本編

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くどいようだけれど本当に病気じゃないと訴えているのに、和成さんは全く私の話を聞いてくれなかった。有無を言わさず家の中に押し込めると、すぐに寝室のベッドに寝かされてしまう。真子先輩達のことや通路に散らかった婚姻届の欠片が気になると伝えれば、そんなものは自分が全て一掃しますと一括。

「希さんの身に何かあったら、俺は一生主任を許しません」

言葉通りに渋る主任さんを撃退し、真子先輩と島津さんには丁重にお礼を伝えて一旦帰ってもらい、通路のごみもさっさと片付けて、あっという間に私の傍らで一息つく。和成さんが有能なのは分かるのですが、こんな中途半端な状態で皆さんにお引き取り頂いて大丈夫だったんでしょうか。

「俺に話がありますよね、希さん」

半ばむくれているような様子で和成さんが切り出す。寒くもなく暑くもなく程よく空調を利かせた寝室で、タオルケットをお腹にかけたまま頷く私。

「あの離婚届と婚姻届は一体何だったのでしょう?」

「またもやそっちですか」

もはや肩を落とすこともなく和成さんは苦笑した。

「離婚届は希さんから預かった物です」

署名捺印入りの離婚届は、和成さんの内に燻る主任さんへの想いを確認した日、私が彼に委ねた用紙なのだという。和成さんは自分が離婚届を書くことで主任さんが満足するなら、いくらでも同じものを書くと告げて突き返したのだそうだ。おそらくそれを私に再び送り付けるだろうことまで踏んで。

「今日は必要のない残業の指示が出たので、島津と真子さんに希さんの様子を見に行ってくれるよう頼んだんです。よもや主任が直で接触するとは思いませんでしたが」

私の額の髪を払って和成さんは目を細める。

「俺はね、希さん。あなたならあの離婚届を目にしても、きっと額面通り受け取らないだろうと信じていました。だから署名したんです」

例え主任が二人に別れを選ばせようとも、それなら自分は何度でも婚姻届を書いて、大切な人に結婚を申し込み続ける。そのつもりで離婚届と婚姻届の両方にサインしたのだと。

「あの、和成さん?」

和成さんの言葉の意味が理解できなくて、私は横たわっているのにも関わらず首を傾げた。

「和成さんは後悔していたのではないのですか?」

主任さんに不幸な結婚をさせてしまったこと、自分の手で幸せにできなかったこと。だからこれからの人生を主任さんと共に生きていくこと。でも今の話の流れだと和成さんの指す大切な人が、私にすり替わっているような気がするのですが。

「そんな解釈をしていたのですか」

私の素朴な疑問に和成さんは今度こそ項垂れた。

「大事なことが抜けていたんですね。主任と二人で食事をした日、やり直すつもりはないとその場ではっきり断りました」

驚いて目を瞬いていると、心外とでも言いたげにやおら顔を上げる。

「俺が希さん以外の人とどうにかなるわけないでしょう。いい加減自覚して下さい。主任に対しては過去の自分の不甲斐なさを申し訳ないとは思いますが、結婚しなかったことを後悔してはいません。現在俺が主任にできることはありませんし、する気ももちろんありません」

「じゃあこれまでと何も変わらないんですか?」

「当たり前です」

少しだけきっとこちらを睨んだものの、和成さんはすぐに悲しそうな表情を浮かべた。

「黙っていたのはそのせいですか?」

俺と主任がもう一度やり直すための枷にならないように。そういううことですか。蚊の鳴くような震える声が痛い。謝るつもりで頭を浮かせると、それを制して和成さんは私のお腹の上におずおずと手を置いた。

「そういえば、私を幸せにしたいんですか、なんて酷いことも訊いていましたね」

「ごめんなさい」

二重の意味でお詫びを口にする私。疑っているわけではないけれど、私の中では和成さんにとっての一番は主任さんなので、同じように幸せにしたいと願う存在は主任さんだけなのだと思っていた。だから主任さんからの二度目の告白を和成さんが断るなんて考えもしなかった。

「私には幸せにしたいなんて、一度も言ってくれたことがなかったのに、主任さんのことは幸せにしたかったと、そう言っているように聞こえてしまいました」

情けないけれど正直な気持ちを打ち明けた。

「ごめんなさい、焼きもちです」

しょんぼりと和成さんを見上げる。叱られるだろうかと身を竦めていたら、何故か和成さんの目は文字通り点になった。しばらく黙り込んだ後に、ちゃんと伝えた筈だ、いやあれは島津にだったかと急にぶつぶつ唱え出し、あぁでも嬉しいと一人で悶絶しまくっている。

「希さんを幸せにしたくて仕方がないのに、その方法が分からないのが本当に悔しいんです」

やがて落ち着きを取り戻した和成さんは、慈しむような笑みを口元に湛える。

「もっともっとこれでもかっていうくらい幸せにしたい。どうやったらこの気持ちが伝わるんでしょうか」

愛し気に私のお腹を撫でる和成さん。

「ここにいるのは、俺とあなたの子供なんですね」





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