空っぽの薬指

文月 青

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本編

24

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目の前の人物が丁寧に名乗ってくれたところで、私はこの先どうしようかと困ってしまった。その名前には聞き覚えがあるような気もするけれど、本人の顔を確認する限り会った記憶はないし、自己紹介しようにもあちらは私を知っている。それなら結婚を申し込んできた理由を訊ねようかと思うものの、夫の振りをして産婦人科に来院している段階で、私が既婚者だということも了承している気がする。

「あの、佐伯さん?」

無言で考え込む私を、三条さんとやらが訝し気に窺ってきた。やけにかっちりした鞄を持っているので、仕事中ではないのだろうか。

「何でしょう」

「あの、ですから三条です。三条拓也」

「それはもう伺いましたが」

何度も繰り返されなくてもちゃんと頭に入っている。なのに三条さんは私の返事に営業マンらしからぬ驚愕の表情を貼り付け(そもそも営業マンかどうかも知らないけれど)、しばらくの間私に不躾な視線を向けていた。

「ご主人からは、何も?」

落ち着きを取り戻したらしい三条さんが、再び満面の笑みを浮かべて問う。その一言に私は口を尖らせた。

「ご主人も何も、あなたはどうして私の夫の振りなんてしたのですか?」

「は?」

「おまけに外で待っているなんて伝言しておいて、ちゃっかり院内にいたみたいですし」

「それは、すみません」

三条さんが不服ながらも謝ってくれたので私はやっと留飲を下げた。嘘をついたことはもちろん、和成さんの名を騙ろうなんて不逞な輩許せません。

「でも、婚姻届の話、聞いていませんか?」

ハンカチで流れる汗を拭いつつ、焦った口調で訴える三条さん。そこでようやく私は先日の夜の一件を思い出した。取引先から和成さん宛てに届いたというサイン入りの婚姻届。そこに記名されていた男性の名前が確か三条だった。

「お分かり頂けましたか?」

ふいに挑戦的な態度を見せた三条さんに、私は納得したようにぽんと手を打った。ではこの人が。

「和成さんの恋人だった方ですね?」

「はぁ?」

三条さんは本気で目を剥いて、持っていた鞄を足元に落っことした。



「大変失礼を致しました」

炎天下で立ち話は体に悪いからと、病院の前庭の木陰に設置されたベンチに移動するなり、私は自分の失言を詫びた。ここに和成さんがいたら「言葉の選択がおかしいでしょう!」と絶対怒られていたに違いない。本当は主任さんのご主人だった方ですねと言おうとしたのだけれど。

「正直驚きましたが。噂に違わぬ…あ、いえ」

苦笑していた三条さんが口ごもったので、私は自分で後を引き取った。

「お馬鹿、ですよね?」

「すみません」

「いいんです。主任さんは聞きしに勝る、でしたが」

主任さんとの初対面を振り返って頬っぺたをかく。あのときも「和成がお世話になっております」と最初に挨拶されて、次の言葉に悩んでしまったのだった。離婚届や婚姻届を送り付けてきたことといい、おかしな登場の仕方といい、別れたとはいえこの人たちは似たもの夫婦だ。ちなみに三条さんは主任さんの二歳年上。

「早苗をご存じなんですか?」

三条さんはまた懲りずに驚いている。すっかり表情を取り繕う気はなくなったようだ。

「二度ほどお会いしたことがあります」

「ではご主人と早苗の過去も…」

「所々ですが」

そうでしたか、と三条さんは静かにため息をついた。三条さんは仕事上のつきあいもあり、主任さんとは今でも時々連絡を取っているのだそうだ。そこでなかなか進展しない和成さんとの悩みを洩らされたのだという。

「私達は嫌いになって別れたのではありません」

淡々と続ける三条さん。お互い忙しい身であることからのすれ違い、それに伴う本来は二人でいる筈なのにつきまとう淋しさ、そしてそこから湧き上がってしまった主任さんの和成さんへの思慕の念。そういったものが絡み合い、解くには最早時間が経ち過ぎていた。

「早苗には何もしてあげられなかったから、せめて希望を叶える手伝いをしたかったのです」

私にはよく理解できないけれど、相手を思うが故の離婚もあるらしい。

「でもあの婚姻届を送っても、佐伯さんからはなしの礫だったので」

和成さんに主任さんとのことをもう一度考えてもらうために、わざわざ嘘をついてまで今日私を待ち伏せしていたのだそうだ。

「あぁ、でもあれは良くないですよ。三条さん、名前だけで要件は何も書いてませんでしたから。あれでは和成さんだってアクション起こせないでしょう?」

「そこですか?」

腕組みをしながら三条さんがうーんと低く唸る。陽は高くなってきたけれど、ほんの少し風が吹いてくれたおかげで気持ちいい。

「私はあなたに佐伯さんの背中を押してほしくて来たんですよ? そのために佐伯さんとの別れを迫るつもりで」

「そんなの日常ですよ」

要するにそれは和成さんに主任さんの元に戻るように、私からけしかけろということで、そんなことは三条さんにお願いされるまでもなく自分でやった前科があるし、離婚届なら主任さんから何度も受け取っているし、直接告げられてもいるし。

「日常って…」

適当に掻い摘んで説明したら三条さんが絶句した。おそらくそこまでは把握していなかったのだろう。詰めの甘さは営業の命取りですよ、なんちゃって。

「何だか展開が予測不能で…どう態勢を立て直したものか」

三条さんは腕を組んだまま私に向き直った。

「実は、あの婚姻届、あなたに渡したかったんです」

意外な台詞に私は目を瞬いた。和成さんとの色恋云々は冗談だけれど、でもまさか今回も私がターゲットとは思いも寄らなかった。

「あなたに離婚を強いるのですから、せめて子供ごと私が引き受けさせて頂くつもりでした」

だから婚姻届であり突然のプロポーズだったわけだ。でも主任さんへの愛情が高じた結果、一切関わりがなかった私と結婚するって正しい選択なのだろうか。方向性が間違っているような。

「それは、恐れ入りま…す?」

腑に落ちないものを抱えつつも一応深々と頭を下げる私に、三条さんは声を上げて笑い始めた。

「楽しい人だ」

何だか今日はデジャヴな日だ。




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